9 / 10
第9節
しおりを挟む
義清は、威勢良く啖呵を切ったものの、これまで喧嘩というものをしたことがなかった。何度も喧嘩を売られたことはあったが、相手を傷つけまいとそれらを断り、それでもどうしようもない時はされるがままにしていた。そのため、見よう見まねでただ闇雲に腕や脚を振り回すことしかできなかった。三人の男も最初こそ警戒していたものの、この様子を見て攻勢に出た。しばらくは前回の再演のような状況が続いた。しかし、三人にとって唯一誤算だったのは、義清が全霊を込めて四肢を振り回していたことだった。一つ一つの動作は大振りで避けやすいが、こちらが攻撃するために近づけば当たる危険性は増す。それでもと殴りかかった男の一人の腹部に、ついに拳が直撃した。
「……っ!」男はみぞおちを抑え、膝から崩れ落ちた。
「すまない、痛いだろう!」
彼は謝った。偽りなく、心からの謝罪だった。
「そう思うなら、大人しくやられてろよっ!」
「そういう、わけにも、いかないんでな!」
顔への攻撃を左手に食らいながら相手の襟首を掴み、壁に向かって投げ飛ばした。
「お前らにつけられた、寝てれば治るような傷でも、悲しんでしまう人がいるんだ!」
義清は叫んだ。どのくらいの声で叫んだのか、自分ではわからなくなっていた。
「お前らは見たことがあるか? 人のために泣く人の、そのあまりに儚い涙を。感じたことがあるか? その慈愛の味を!」
地面にうずくまっている男の脇腹に蹴りを入れると、男は壁にもたれかかっているもう一人にぶつかって倒れた。同時に横から飛び蹴りを受け、彼自身も路地の奥へ吹っ飛んだ。
「俺の正義において、あれを許すわけにはいかない。」
よろめきながらも立ち上がり、彼は再び己を奮い立たせるように言った。
「だから、俺はもう負けない。」
それからは、まるで獣同士の争いだった。殴り殴られ、蹴り蹴られ、その場にいる誰にとっても、もはや戦う理由などどうでもよくなっていた。ただ目の前にいる者を自分より早く地面に叩きつけるために、お互いを傷つけ合った。
佳穂にとっては悠久の、他にとっては刹那の攻防にも、終わりが訪れようとしていた。男の一人は立ち上がろうとして体勢を崩し、近くのごみの山に仰向けに倒れた。ごみ箱に頭から突っ込んだ男はそのまま動かなくなった。最後の一人も、朦朧とした意識を立て直す前に、義清の無慈悲な右を顎に受けて気絶した。戦場に立つ者は、ただ一人となった。
義清は、あるいは義清もと言うべきか、すでに疲労は限界に達していた。理性を失った狼のように、ぼやけた視覚の中辺りを見回した。
「正和……?」
正和は路地の外へと歩き始めていた。陽光が眩しいくらいに差し込み、正和の姿がよく見えなかった。
「おい、どこに行くんだ?」
聞こえなかったのだろうかと、今度は強く叫んだつもりだった。正和は立ち止って、
「お前に俺はもう必要ない。」少しも義清の方を振り返ることなくそう言った。
「……そんなことは」
「あるんだ。」
正和は首を振った。視点が定まらない。頭を振っていたかどうかさえ、確証が持てない。
「お前も薄々はわかっているだろう? 俺という存在が、お前が普遍的な正義を執行する際の責任を押し付けるために生まれた、お前の中の幻想だってことに。」
「……。」
「ついさっき、お前は俺を振り切って行動した。お前はもう、行動を自ら決定し、その行動に対して責任を負えるんだ。いや、負わなくちゃいけない時が来たんだ。」
日差しは強さを増し、後ろ姿はついに黒い影となった。彼に応じる言葉を紡ごうにも、何を言えばいいのか、義清にはわからなかった。
「これからは、お前一人でやるんだ。」
正和は強く、そう言ったように聞こえた。それほどまでに彼の声は遠く感じられた。日が陰り、路地の外の景色が見えた。彼の姿はもう見えなかった。
「正和……?」
彼の名前を呼んだ。返事はなかった。あるいはずっと、彼の名前を呼んでいだ気になっていただけだったのかもしれない。
「……っ!」男はみぞおちを抑え、膝から崩れ落ちた。
「すまない、痛いだろう!」
彼は謝った。偽りなく、心からの謝罪だった。
「そう思うなら、大人しくやられてろよっ!」
「そういう、わけにも、いかないんでな!」
顔への攻撃を左手に食らいながら相手の襟首を掴み、壁に向かって投げ飛ばした。
「お前らにつけられた、寝てれば治るような傷でも、悲しんでしまう人がいるんだ!」
義清は叫んだ。どのくらいの声で叫んだのか、自分ではわからなくなっていた。
「お前らは見たことがあるか? 人のために泣く人の、そのあまりに儚い涙を。感じたことがあるか? その慈愛の味を!」
地面にうずくまっている男の脇腹に蹴りを入れると、男は壁にもたれかかっているもう一人にぶつかって倒れた。同時に横から飛び蹴りを受け、彼自身も路地の奥へ吹っ飛んだ。
「俺の正義において、あれを許すわけにはいかない。」
よろめきながらも立ち上がり、彼は再び己を奮い立たせるように言った。
「だから、俺はもう負けない。」
それからは、まるで獣同士の争いだった。殴り殴られ、蹴り蹴られ、その場にいる誰にとっても、もはや戦う理由などどうでもよくなっていた。ただ目の前にいる者を自分より早く地面に叩きつけるために、お互いを傷つけ合った。
佳穂にとっては悠久の、他にとっては刹那の攻防にも、終わりが訪れようとしていた。男の一人は立ち上がろうとして体勢を崩し、近くのごみの山に仰向けに倒れた。ごみ箱に頭から突っ込んだ男はそのまま動かなくなった。最後の一人も、朦朧とした意識を立て直す前に、義清の無慈悲な右を顎に受けて気絶した。戦場に立つ者は、ただ一人となった。
義清は、あるいは義清もと言うべきか、すでに疲労は限界に達していた。理性を失った狼のように、ぼやけた視覚の中辺りを見回した。
「正和……?」
正和は路地の外へと歩き始めていた。陽光が眩しいくらいに差し込み、正和の姿がよく見えなかった。
「おい、どこに行くんだ?」
聞こえなかったのだろうかと、今度は強く叫んだつもりだった。正和は立ち止って、
「お前に俺はもう必要ない。」少しも義清の方を振り返ることなくそう言った。
「……そんなことは」
「あるんだ。」
正和は首を振った。視点が定まらない。頭を振っていたかどうかさえ、確証が持てない。
「お前も薄々はわかっているだろう? 俺という存在が、お前が普遍的な正義を執行する際の責任を押し付けるために生まれた、お前の中の幻想だってことに。」
「……。」
「ついさっき、お前は俺を振り切って行動した。お前はもう、行動を自ら決定し、その行動に対して責任を負えるんだ。いや、負わなくちゃいけない時が来たんだ。」
日差しは強さを増し、後ろ姿はついに黒い影となった。彼に応じる言葉を紡ごうにも、何を言えばいいのか、義清にはわからなかった。
「これからは、お前一人でやるんだ。」
正和は強く、そう言ったように聞こえた。それほどまでに彼の声は遠く感じられた。日が陰り、路地の外の景色が見えた。彼の姿はもう見えなかった。
「正和……?」
彼の名前を呼んだ。返事はなかった。あるいはずっと、彼の名前を呼んでいだ気になっていただけだったのかもしれない。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
痩せたがりの姫言(ひめごと)
エフ=宝泉薫
青春
ヒロインは痩せ姫。
姫自身、あるいは周囲の人たちが密かな本音をつぶやきます。
だから「姫言」と書いてひめごと。
別サイト(カクヨム)で書いている「隠し部屋のシルフィーたち」もテイストが似ているので、混ぜることにしました。
語り手も、語られる対象も、作品ごとに異なります。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる