君が花に溺れるまで

咲花楓

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牡丹一華

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「早河先輩、ちょっといいですか。」
 次の日、講義の前に寄った研究室で声をかけられた。振り向いたそこにいたのは、川西陽菜。高校の頃からの後輩だ。元々は文目の華道部の後輩だったが、そこのつながりで僕とも仲良くなった。偶然同じ大学に進学してきて、そこからまた関わるようになったのだ。
「あの、ここが少しわからなくて……」
 開かれるテキスト、二人きりの部屋に紙の音が響く。
「ああ、えっと。ここはね……」
 綴られた文字を指でなぞる。並んだ水槽が音を立て、泡が弾ける。
「ありがとうございます、先輩。やっぱり先輩の説明が一番わかりやすいです。」
「そう、かな。また何かわからないことがあったら、なんでも聞いて。」
「はい。ありがとうございます。」
 軽く頭を下げる彼女はそっとテキストを閉じる。
「そういえば、原田先輩とはどうですか?」
 どう、と聞かれても。上手い答えが見つからない。
「まあ、特段何もないけど、平和にやってるよ。」
「そう、ですか。」
 少し気まずくて、気付かれないように視線を逸らす。顔を上げた彼女は、取ってつけたような笑顔で声を彩って見せた。
「原田先輩に何かしたら、許しませんからね。」
「何かって、例えば何?」
「えー、怒らせたりとか。原田先輩、優しいからって嫌がるようなことはしないでくださいよ。」
「はは、そんなことしないよ。」
 高二の春、華道部に入ってすぐ文目と仲良くなった彼女は、すぐに僕の目の前にも姿を現した。真面目で明るくて、後輩というポジションが似合うな、と感じるような子だ。
 僕と文目は文理の違いで別の大学に行ったものの、彼女は僕と同じ理系で偶然にも同じ大学に来たのだ。だからこうして、時折質問に来たりする。
「じゃあ、この後講義があるので。私はこれで。」
「うん。僕も行かないと。」
 ひんやりとしたドアノブを回しドアを引く。ふと、窓際の赫い牡丹一華が光っているのが見えた。今頃、文目は何をしているのだろう。そんな思いも水槽の泡のように消えていく。
「先輩?どうしたんですか?」
「ああ、いや。なんでもない。」
 ふと止まった足を持ち上げ、ドアを静かに閉めた。
 そんな朝。未だ覚め切らない目を擦る。どうしてか、重く湿った心を揺れ動かす。どこか、陽菜が少し気がかりだった。

 あの日もたしか同じだった。高校の卒業式の日。桜色の花弁が舞い散るさなか、最後の別れを告げる人々。その中には、僕と文目、陽菜もいた。
「文目先輩ぃ、行かないでくださいよぉ。」
 涙を浮かべ惜しそうに彼女に抱きつく。この二年間、ほとんど友達のように共に過ごした文目がいなくなるのが本当に寂しいのだろう。
「いたたた、陽菜ちゃん。力強いよ。」
 絶対に離すまいと強く抱きしめられる文目は、苦しそうにしながらも内心はどこか嬉しそうだった。
「ほら、もう二度と会えないわけじゃないんだから。またいつでも会えるから。」
「そうですけど、文目先輩がいない学校なんて……」
 毎日、本当に楽しそうに笑っていた二人の顔を思い出す。あの日常が終わってしまうことが彼女にとってどれだけ辛いことかは、よく考えなくてもわかる。
「陽菜は、文目以外にも同学年の友達はいるよね?だったら、一緒に過ごす友達はいていいじゃないか。」
 そう、フォローする。
「それはそうですけど……!そういうことじゃなくてですね!」
 すこし口調を強くした、いつもの調子の陽菜が言う。これなら、きっと文目がいなくても大丈夫だろう。
「あははっ。私がいなくても大丈夫そうだね。」
 そう僕の言葉を代弁して笑う文目。きっと、この瞬間さえも愛しくて堪らないのだ。
「陽菜ちゃん。華道部、頼んだよ。私が選んだ陽菜部長は、私なんかいなくてもちゃんとできるから。」
「……はい、そうですね。頑張ります。」
 柔らかい笑顔で笑って見せる。こいつ、僕と文目で対応に差があるな。バレないように優しく睨みつける。
 そんな青い情景も束の間、彼女はようやく肩を落として目に少しの涙を浮かべた。
「本当に、行っちゃうんですね……。文目先輩は、文系の大学に行くんでしたっけ。」
「うん。陽菜ちゃんは理系だから、私と同じ大学にはなれないかなぁ……」
「そう、ですね。でも、もしかしたら早河先輩と同じ大学になるかもしれないです。もしそのときは、いろいろ話聞かせてくださいね。」
「うん、もちろん。」
 再び柔らかく笑う。今にも大粒の涙を流して泣き出してしまいそうなのを必死に堪えているのがわかる。きっと熱を含んで、今にも爆発しそうだ。
「きっと、また会いましょうね。いつか。」
「うん、いつか。絶対会おうね。」
 胸のピンク色の造花が揺れる。
 そう、思い出していたこの瞬間も。何かを感じていた。

「……!」
 目を覚ましたひとりぼっちの研究室。授業が終わり戻ってきて、気づけば眠ってしまっていた。疲れが溜まっているのだろうか。誰か、来なかっただろうか。
 懐かしい夢を、見ていた。静かに思い出していたほんのひととき。あの時揺れた花弁を、そっと窓際に重ねる。
 空いた窓から空気が押し寄せる。巡り巡る風は軈て温度と混ざり合い、季節を謳歌する。
 まだ暖かい季節だというのに、少し肌寒い。何か、肌に突き刺さるようだった。
 そっと、時計に目をやる。時刻は午後四時を指していた。もう予定もないし、帰ろうか。荷物をまとめ、立ち上がる。視界の端に映った水槽に近づき、中にいるウミウシに声をかける。
「またな。」
 研究対象といっても、愛着は湧くものだ。
 そのままの脚で階段を降り、他学部から離れた学部棟を後にする。
 先ほどの風とは打って変わって熱を帯びた温度の中を歩き、バスへ乗り込む。これほどの相違の中、僕は何を感じ取っていたのだろう。
 山を下りるバスの中、僕はうっすらと感じていた悲しさを握っていた。放したくても放せないそれは、静かに僕の中に入り込む。もう戻らない過去に未だ縋っている僕の心は、いつかの僕を願っている。きっと叶わないと分かっていながら。今も十分幸せだと、口先では言っておきながら。
 気がかりなのは、文目だった。いつもあんなに笑っているのに、優しく接してくれているのに。その瞳の奥の真意がどうしても気になってしまう。
 人の表面というのは虚像であり、いくらでも取り繕える。僕が知りたいのはその中身だ。誰にも観測されない心の内を、そっと支えたい。
 バスに揺られながら一人、そんなことを考えていた。つまらないな、なんて思いもしなかった。

「おかえり、晴くん。ご飯できてるよ。」
 家に着いたのは六時半過ぎのことであった。まだ空には明るさが少し残る。
 その手に残るいつかの哀愁を捨て去って、今日も玄関をくぐる。
「ただいま、文目。」
 いつもの匂い、温度。彼女の笑顔。
 目を閉じて、大きく深呼吸をする。
 きっと、これでいい。今がとても幸せなのだ。
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