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二.呪詛と三角術
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良玉精金たる吾輩の純心は、この住人の悪辣極まる手口により、肉感的交歓の書に毒された。それはまるで呪詛の如く覿面に純心の奥まで染め汚した。そればかりか流行病の如く感染し伝播するから剣呑なこと極まりない。感染するとは俄には信じ難いかもしれぬが間違いない。その感染力たるや例えばこうだ。
仮に吾輩のこの独白が書き起こされたとしよう。それを読む者があったとする。その時、たとえばそれがたまたま金声玉振の聖人であったとしても、あるいは、たまたま金玉満堂の才人であったとしても、その呪詛の力は忽ちに感染しその純心を汚すのである。その発症を確かめたければ、まずは冒頭にも記した『良玉精金』の四文字を切り出してみせるから改めて見てみるがいい。僅かでも発症の兆しがあれば、純心の汚れによって意味をまるで履き違えるに違いない。本来の意味は息を潜め、その胸に去来するものに戸惑いを感じずには居れぬはずである。『金声玉振』然り。いわんや『金玉満堂』においてをや。故に、賢明なる読者はくれぐれも警戒されたい。吾輩からの金玉之言である。然と受け止められたい。
さて吾輩はかくの如き呪詛を弄する住人の正体を見定める必要があった。さらなる極彩の肉感的交歓の書画の有無を確かめる必要もある。誤解のないように申し添えておくが、吾輩が清廉たる霊気の悉くを費やしてなおその念に駆られるのは、決して新たな淫猥の書画にこの魂を浸したいという自慰的執念に囚われた雄猿の如き煩悩の致す所ではない。むしろ、まだ世に出ぬ渾金璞玉の士の無垢なうちに既に汚れた吾輩が身代わりとならんとするは、これ即ち慈悲的正念だと理解されたい。
さてその日の夜。光っておりさえすれば代わりは誰でも務まるような年始の短い公務を終えた太陽が、地の底のじめじめした棲家で口を開いて高鼾をかいている時分である。
吾輩は蔵の扉をすっと抜けて外へ出た。真っ正月の寒空が骨身にしみた。それが心持ちの骨身であることはもう断りを入れるまでもないだろう。蔵の前に出てみると、そこに鐘楼や堂が見えた。掲げられた寺額には『絡運寺』とある。
吾輩はここが他ならぬ寺院であると知って驚いた。あのような肉感的交歓の書の隠し場所が寺の宝蔵だとは思ってもいなかった。吾輩を陥れた犯人で、あの極彩色の肉感的交歓の書物の持ち主でもあるその正体は、この寺の住職だったのだ。だがそれで合点が行った部分もある。なるほど仏のごときに仕える住職であればこそ、その手口が悪辣極まることも、その所有したる物の病毒が呪詛的であることも道理が通る。出家の身でありながら宝蔵にあれを隠し持つほどの坊主であるから秘めた煩悩の強さたるや相当なものに違いない。きっとその手元にはまだ見ぬ書画のひとつやふたつ、いや、十や二十は隠し持っているに違いない。見れば明かりの灯った庫裏と思しき建物がある。吾輩は慈悲的正念で心持ちの鼻息を荒らげ、その壁をするりと潜り抜けた。
抜けた先は書斎のような部屋だった。手前に大きな机が据えてある。長さ六尺、幅三尺八寸高さこれにかなうと云う大きな机である。その半分ほどを大きな一枚の和紙が占めている。脇にはいくつかの書物と筆も置いてある。部屋の隅のほうでは火鉢の炭がちりちり音を立てている。誰も居らず闃然としていたが空気は暖かだった。火鉢の反対側には大人の背丈ほどの書棚がある。書棚にはぎっしり本が並んでいた。さては渾金璞玉の士の無垢な心を汚さんとする書画はここに隠してあるに違いない。怪しからん、いざ吾輩がその検閲を試みん。
そう魂構えたところへ横の戸ががらりと開いて、中年男が寒そうに両手をこすり合わせながら入ってきた。突然のことで魂消たが、男のほうは吾輩に気づいておらぬようだ。男をよくよく観察すると、なるほど寺に勤める者だけあって、毛をもって装飾されるべきはずの頭がつるつる然のぶよぶよ然として、まるで生煮えのまま寒空に打ち捨てられて乾き果てた蒟蒻玉のようだった。その下の体は作務衣に隠れているが、寺勤めにあるまじき膏切った肥満体だ。首と顎が膏の厚みで一体となってどこまでが頭でどこからが胴か判然としない。その丸い顔をみると、弛んだ眼の下に邪念が浮き出たような隈がある。人間と云うより古狸のような面構えだ。刻まれた皺の具合から歳はおそらく五十をくだらないだろう。
この太った古狸のような男がこの寺の住職だった。
ちなみにこの男、吾輩が始めて見たときはかくの如きであったが、人と普段会うときは住職らしく枯木寒巌とした顔付で徳が高いかのごとく振る舞うことが、その後の吾輩の観察で分っている。狸に似ているだけあって人を化かし慣れている。住職が慣れているだけではない。見るほうもなかなかに化かされ慣れている。袈裟の上につるつる然が乗っていれば線香一本の間坐禅をして居れなくても徳が高いと思い込む。でっぷり肥えていることは勘定に入っていない。全てを見通す吾輩からすればこの住職は枯木どころか煩悩にまみれた狸の酒樽である。酒樽と云うのは当然中身が酒だからだ。なるほど確かに寺の入り口には「不許葷酒入山門」と刻まれている。周囲もそれを「葷酒、山門ニ入ラズ」と信じて読んでいる。だが住職の呪詛を以てすれば、これを「不許葷、酒入山門」と読むことはいとも容易い。即ち「葷ハ許サズ、酒ハ山門ニ入ル」である。だから酒は『般若湯』などと名前を変える手間もかけず素直に寺に入る。徳利に入る。住職の口に入る。腹にたっぷり溜まる。狸の腹が酒樽になるという訳である。だが住職も徳が高い人間と思われたいから一応隠れてこれをやる。
酒は隠れてやれるがもうひとつ、住職の欲するところで儘にならないものが有る。女だ。あらためて云うまでもないが、この住職は婦人には冷淡なほうではない――『ほうではない』どころか濃厚だ。『酒樽』の『狸』なわけだから文字算術の減算定理に従えば即ち『盛る』となる。濁点が気になるようであれば吾輩の慈悲でおまけにしておくから懐にでも入れておくがいい。煩悩が濃厚なのも頷ける。八畳敷も疼くのだろう。だが住職の立場上、女にうかつに手出しはできない。体は欲しいがそこに口が有る。徳利の口と違って容易に栓のできぬ口である。出てくるものも遥かに剣呑だ。ひとたび放流されるとあっというまに口から口へと伝っていく。伝うごとに尾鰭が付いて手に負えない。したがって住職が生身の女に対して出来ることといえば、町で見かけた美人の尻を枯木の蔭から睨めつけることぐらいである。そうやってこの住職は煩悩を溜め込んでいるのだ。
髪を欠く、戒律を欠く、女を欠く――三角術ならぬ三欠く術。これこそがこの住職の腹の底に澱む強力な煩悩の源泉であった。
仮に吾輩のこの独白が書き起こされたとしよう。それを読む者があったとする。その時、たとえばそれがたまたま金声玉振の聖人であったとしても、あるいは、たまたま金玉満堂の才人であったとしても、その呪詛の力は忽ちに感染しその純心を汚すのである。その発症を確かめたければ、まずは冒頭にも記した『良玉精金』の四文字を切り出してみせるから改めて見てみるがいい。僅かでも発症の兆しがあれば、純心の汚れによって意味をまるで履き違えるに違いない。本来の意味は息を潜め、その胸に去来するものに戸惑いを感じずには居れぬはずである。『金声玉振』然り。いわんや『金玉満堂』においてをや。故に、賢明なる読者はくれぐれも警戒されたい。吾輩からの金玉之言である。然と受け止められたい。
さて吾輩はかくの如き呪詛を弄する住人の正体を見定める必要があった。さらなる極彩の肉感的交歓の書画の有無を確かめる必要もある。誤解のないように申し添えておくが、吾輩が清廉たる霊気の悉くを費やしてなおその念に駆られるのは、決して新たな淫猥の書画にこの魂を浸したいという自慰的執念に囚われた雄猿の如き煩悩の致す所ではない。むしろ、まだ世に出ぬ渾金璞玉の士の無垢なうちに既に汚れた吾輩が身代わりとならんとするは、これ即ち慈悲的正念だと理解されたい。
さてその日の夜。光っておりさえすれば代わりは誰でも務まるような年始の短い公務を終えた太陽が、地の底のじめじめした棲家で口を開いて高鼾をかいている時分である。
吾輩は蔵の扉をすっと抜けて外へ出た。真っ正月の寒空が骨身にしみた。それが心持ちの骨身であることはもう断りを入れるまでもないだろう。蔵の前に出てみると、そこに鐘楼や堂が見えた。掲げられた寺額には『絡運寺』とある。
吾輩はここが他ならぬ寺院であると知って驚いた。あのような肉感的交歓の書の隠し場所が寺の宝蔵だとは思ってもいなかった。吾輩を陥れた犯人で、あの極彩色の肉感的交歓の書物の持ち主でもあるその正体は、この寺の住職だったのだ。だがそれで合点が行った部分もある。なるほど仏のごときに仕える住職であればこそ、その手口が悪辣極まることも、その所有したる物の病毒が呪詛的であることも道理が通る。出家の身でありながら宝蔵にあれを隠し持つほどの坊主であるから秘めた煩悩の強さたるや相当なものに違いない。きっとその手元にはまだ見ぬ書画のひとつやふたつ、いや、十や二十は隠し持っているに違いない。見れば明かりの灯った庫裏と思しき建物がある。吾輩は慈悲的正念で心持ちの鼻息を荒らげ、その壁をするりと潜り抜けた。
抜けた先は書斎のような部屋だった。手前に大きな机が据えてある。長さ六尺、幅三尺八寸高さこれにかなうと云う大きな机である。その半分ほどを大きな一枚の和紙が占めている。脇にはいくつかの書物と筆も置いてある。部屋の隅のほうでは火鉢の炭がちりちり音を立てている。誰も居らず闃然としていたが空気は暖かだった。火鉢の反対側には大人の背丈ほどの書棚がある。書棚にはぎっしり本が並んでいた。さては渾金璞玉の士の無垢な心を汚さんとする書画はここに隠してあるに違いない。怪しからん、いざ吾輩がその検閲を試みん。
そう魂構えたところへ横の戸ががらりと開いて、中年男が寒そうに両手をこすり合わせながら入ってきた。突然のことで魂消たが、男のほうは吾輩に気づいておらぬようだ。男をよくよく観察すると、なるほど寺に勤める者だけあって、毛をもって装飾されるべきはずの頭がつるつる然のぶよぶよ然として、まるで生煮えのまま寒空に打ち捨てられて乾き果てた蒟蒻玉のようだった。その下の体は作務衣に隠れているが、寺勤めにあるまじき膏切った肥満体だ。首と顎が膏の厚みで一体となってどこまでが頭でどこからが胴か判然としない。その丸い顔をみると、弛んだ眼の下に邪念が浮き出たような隈がある。人間と云うより古狸のような面構えだ。刻まれた皺の具合から歳はおそらく五十をくだらないだろう。
この太った古狸のような男がこの寺の住職だった。
ちなみにこの男、吾輩が始めて見たときはかくの如きであったが、人と普段会うときは住職らしく枯木寒巌とした顔付で徳が高いかのごとく振る舞うことが、その後の吾輩の観察で分っている。狸に似ているだけあって人を化かし慣れている。住職が慣れているだけではない。見るほうもなかなかに化かされ慣れている。袈裟の上につるつる然が乗っていれば線香一本の間坐禅をして居れなくても徳が高いと思い込む。でっぷり肥えていることは勘定に入っていない。全てを見通す吾輩からすればこの住職は枯木どころか煩悩にまみれた狸の酒樽である。酒樽と云うのは当然中身が酒だからだ。なるほど確かに寺の入り口には「不許葷酒入山門」と刻まれている。周囲もそれを「葷酒、山門ニ入ラズ」と信じて読んでいる。だが住職の呪詛を以てすれば、これを「不許葷、酒入山門」と読むことはいとも容易い。即ち「葷ハ許サズ、酒ハ山門ニ入ル」である。だから酒は『般若湯』などと名前を変える手間もかけず素直に寺に入る。徳利に入る。住職の口に入る。腹にたっぷり溜まる。狸の腹が酒樽になるという訳である。だが住職も徳が高い人間と思われたいから一応隠れてこれをやる。
酒は隠れてやれるがもうひとつ、住職の欲するところで儘にならないものが有る。女だ。あらためて云うまでもないが、この住職は婦人には冷淡なほうではない――『ほうではない』どころか濃厚だ。『酒樽』の『狸』なわけだから文字算術の減算定理に従えば即ち『盛る』となる。濁点が気になるようであれば吾輩の慈悲でおまけにしておくから懐にでも入れておくがいい。煩悩が濃厚なのも頷ける。八畳敷も疼くのだろう。だが住職の立場上、女にうかつに手出しはできない。体は欲しいがそこに口が有る。徳利の口と違って容易に栓のできぬ口である。出てくるものも遥かに剣呑だ。ひとたび放流されるとあっというまに口から口へと伝っていく。伝うごとに尾鰭が付いて手に負えない。したがって住職が生身の女に対して出来ることといえば、町で見かけた美人の尻を枯木の蔭から睨めつけることぐらいである。そうやってこの住職は煩悩を溜め込んでいるのだ。
髪を欠く、戒律を欠く、女を欠く――三角術ならぬ三欠く術。これこそがこの住職の腹の底に澱む強力な煩悩の源泉であった。
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