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■三 夢乃
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倉庫でタブレットと向き合っていると、優しく肩を叩かれました。振り返ると夏鈴の顔があって「あんまり無理するなよ」と声をかけてきます。言葉の内容よりも、その分かりやすい発音と、はっきりした口調に癒されました。
ここのところ、益々耳が悪くなってきたようです。病院に行ってみたけど騒音性難聴って診断されただけで、特効薬みたいなものはないみたいです。イヤホンで大音量の音楽を聞かず、後は時折耳を休ませてあげてくださいですって。耳なんてどうやって休ませるの? 目みたいに閉じることができないのは、お医者さんだって知ってるはずでしょ。でもあんまり気にしてはいません。他人の声が聞こえにくい時があるっていう程度だし。普通の人には致命傷になりかねない障害かもしれないけど、私、あんまり友達がいないから。ほとんどただ一人の親友、夏鈴はこうやっていつも私の耳の調子を気にしてくれますしね。聞こえにくくても、口元を見ながら内容を想像して補完すれば大体は相手が言いたいことを理解できます。だから授業内容なんかは問題じゃないんです。先生って大体生徒の方を向いてはっきりと喋りますし。それに、聞こえにくい時があるっていうだけで、大丈夫な時は大丈夫だし。
それでも私の難聴を相談してからというもの、夏鈴はこうやって大げさに口元を見せて喋ってくれます。ほら、前にマスクの時代がありましたよね。全員がマスクをつけるのが当たり前になって、常識化した頃。あの時は流石に焦りました。無理矢理耳栓をつけられたような気分でした。誰ともコミュニケーションが取れなくなるかもしれないって恐怖を感じました。でも夏鈴は違った。絶対にマスクなんてしなかった。皆から白い目で見られれてた。多分、すごく煙たがられたと思う。マスクをしていないせいかは分からないけど、三回くらいウイルスに感染していたいましたし。だけど絶対にマスクをしなかった。マスクをしてしまうと、私に言葉が通じなくなることが分かっていたからです。
夏鈴には本当に感謝してます。誰にどんな顰蹙を買っても、私とのコミュニケーションを優先してくれたんですから。しかも、その頃私は法令遵守で毎日マスクをしてたにも関わらずですよ? もちろん夏鈴が、マスクをしない意味を私に伝えることはなかった。そんなことをしたら、私が負い目を感じるって分かっていたから。そういう人なんですよ、夏鈴って。
「全然。楽しいよ」
私は自然と頬が緩くなって、でもそれを我慢しようとしたものだから、逆に不機嫌な顔で答えてしまいました。夏鈴は「マジで無理しないでね」って悲しそうに、でもはっきりとした口調で答えて自分の作業に戻った。床にあぐらをかいてタブレットにスマートペンを走らせている。
拝島水道での仕事は実際に楽しかったんです。誰にも言っていないけど、私の夢は起業して大金持ちになることだから。親友の夏鈴にも言えないのには理由があります。夏鈴は私が音大に進学するって信じてる。勧められたんです。自分が美大に進学するって決めてからすぐ「夢乃はピアノ習ってるから音大ね」って提案してきました。一瞬なんのことか分からなかった。だって私がピアノを習ってたのなんて小学生の頃だし。
忘れっぽい夏鈴がそんなことを覚えていたのにも驚いたほどです。ピアノを弾くのは好きだった。習い事を辞めた後も、家で時々弾いていました。でもそれだけ。音大に進学するほどではないし、なによりそんな技術もない。素人に毛が生えた程度のテクニックしか持ち合わせていません。もちろん「え、なんで?」って聞きました。そしたら「あたしが美大に行った後、親友が音大にいるって言ったら格好良いじゃん。アートに囲まれた生活をしてるんだって勝手に想像してもらえてあたしの地位が向上するじゃん」ですって。たったそれだけで? って思いました。思ったけど、はっきり反論はしなかった。だって、夏鈴は夢を膨らませてはしゃいでたし、嬉しそうにはしゃいでいる夏鈴を見ること自体は好きだったから。それに、夏鈴の夢を無視して自分の夢を語るのもなんだか違うと感じたんです。
夏鈴にはなるべく気持ちよく生きていてもらいたいですから。だから曖昧に返事をした。「ははは」って笑った程度だと思います。夏鈴はそれをはっきりとした肯定と捉えたのか、音大に進学するって信じて疑わなくなった。時間が経つほど、どんどんと本音を言えなくなっていった。いつか打ち明けなくてはいけないことは分かってるけど、なかなかね。傷つく顔は見たくないですし。
本当の夢は経営学部かなにかに進学して、学生の内に起業すること。もし失敗しても学生ならまだ軌道修正が効くと思うので。まだなにをやるかは決めていないけど、そんなことを言ってても始まらない。私はなにかをしたくて起業するわけじゃないから。起業がしたくて起業するだけだから。こんなふわふわした気持ちで成功するのかって不安になることもあります。でも最初は皆そうだと思うんですよね。
そんな時、夏鈴が面白そうな話を持って来た。「あたしんちの仕事、手伝ってくんない」だって。私はその話に飛びついた。ちょっと前まで夢のために何をしていいのかも分からない状態だったのに、これで実務経験を踏めるって考えたんです。給料はなしってことだったけど、ただのアルバイトとか末端の仕事ではなく、プロジェクト全体に携わりお金を動かせる立場での採用って聞いて俄然やる気が出ました。お金の計算とかが苦手な夏鈴に代わって、私がその仕事をやればきっと起業する時の糧にもなるでしょう。
いざ仕事を始めると、想像よりもずっと楽しかった。細々した数字を計算して現実に落とし込んでいく作業は自分に合っていると思いました。数学は得意じゃないのに不思議でした。ビジネスの規模は大したことなかったけれど、それでも高校二年生の私にとっては大きなお金を動かすことが出来ましたし。だから、私は夏鈴が思っているよりもずっとこの仕事を楽しんでいました。でも、楽しんでいるって思われたくはなかったんです。なんだか夏鈴に悪いような気がして。あの子の中では、私は音大を目指す高校生で、親友の手伝いをしているだけなんですから。
ただ、仕事が楽しすぎてちょっと失敗しました。数字の魔力に溺れたっていうのかな? 最初は予算の五万円以内で印刷業者に任せる計画でした。それだと地域の一千軒にしか広告が届かない。五万円っていったら、私にとっては大金だった。中古のスマホが買えちゃうし。それなのに、カメラもついてないマグネット千個と同じなんですか? って疑問が湧いたほどだから。色々調べた。私達が配布しようとしているものは、マグネットとシールさえあれば作れることが分かった。普通の紙よりは上等だけど、大した価格ではありません。素材を購入し自分たちで制作すれば、十万円で一万個は作れる計算になります。そして自分たちでマグネットを配布する。中間マージンを省いた合理的なやり方、マグネット広告界の革命でした。
よし、いいぞいいぞ。二倍の予算で、効果は十倍です。経営者視点で考えれば多少のリスクを背負わなければいけない場面でしょう。これでいこう。どうやらビジネスの世界では、何もかも大量に発注することで単価を安くするという魔法が使えるようになるらしいのです。夏鈴もすごいって言ってくれた。マグネットとシールを購入したサイトでは後払いの代金振込を利用したものだから、足が出た五万円分のことは考えなかった。ここは、その時の私がどうにかしてくれるだろうっていう前向きな思考を活用しました。
商品が倉庫に到着した日は興奮した。早速サンプルを幾つか作った。達成感があった。今日こそが経営者として踏み出したスタート地点だって思えたんです。同時に飽きた。夏鈴も同じだった。僅差で彼女の方が早く作業に飽きていたみたいでした。今日が経営者としての試練が始まる日だって思い直しました。
人手が必要だった。私達に代わってつまらない単純作業を行うアルバイトを雇う必要があった。私にはプロジェクトリーダーとしての役割が、夏鈴にはデザイナーとしての役割があった。費用対効果を考慮すれば、私達が単純作業に従事するのは損失だって考えるべきでした。一人だけで成長した大企業なんてありません。バイトを雇うのだって、投資の一部としてリスクを負わなくてはならない。それに、後払いの期日も迫ってきていました。スポンサーである夏鈴の両親には合わせてプレゼンしなければならなかった。
だからまあ、あの蔵前篤郎っていう何もせず何も出来ないまま年だけとった最低の人材が職場にやって来たのは私のせいでもあったんです。受け入れなければならなりませんね。それに考えようによっては、年上の男性、しかも能無しっていうツーアウトで凡フライを打ち上げてしまったような部下を上手く使うのも上司には必要な資質だって思えました。今のうちに経験しておいた方がいいかもしれません。まあ、無理矢理に前向きに考えれば、ですけど。
不思議なのは、夏鈴のパパがバイト募集に前向きだったことです。おじさんは夏鈴に激甘だから、それだけで後押ししてくれたって線も考えられるけどそれだけじゃないような気がします。自分もアシスタントがほしいからって言ったらしい。端から見ただけですけど、拝島水道にアシスタントが必要なほど仕事があるとは思えません。もしかしたら、おじさんも人生で一度は人の上に立ってみたかったのかな。それなら理解できます。けど、経営は大丈夫なんですかね? って心配になります。拝島水道はこのプロジェクトの唯一の出資者なわけですから。安定した経営基盤を保っていてくれないと困ります。
心配事なら他にもあります。主に篤郎に関することです。私にとってはあまり重要じゃないけど、夏鈴が気にしてる。体の傷とか、夏鈴ママとの関係とか。夏鈴には悪いけど、あの男が私達に悪い影響を与えるとは思えません。篤郎のことを信じているっていうことではなくて、誰にどんな影響も与えられないほどちっぽけな存在だって意味で。仕事だけ与えて奴隷のように扱えばそれで得も損もない人間だと思えます。そういう意味で言えば、夏鈴は篤郎のことをとことん嫌っていたけれど、人間扱いしていたってことです。私にとっては虫けらと同じ。夏鈴はちょっと心配し過ぎだと思うんです。
私達はいつも、学校が終わってから十八時過ぎまで仕事をしていました。二人でお菓子を食べながらおしゃべりをするっていうのは、分からない人には遊んでいるだけって思えるかもしれないけど、脳の半分以上は仕事のことを考えているんです。夏鈴だってそうだと思います。壮絶なプレッシャーをリラックスさせようと努めながら仕事に対峙する。高度な心理戦なんですよ。
この日もそうでした。私は片目でエクセルを睨みながらポッキーを咥え、夏鈴は片手でペンを持ちながら、もう一方の手ではパイの実を口に運んでいた。時折篤郎の陰口を叩いたり、学校の先生の悪口を言ったりして過ごしました。幸せな時間だった。最近特に夏鈴のボディータッチが多くなっているような気がしてドキってするけど、それでも私達は親友同士だから当たり前のことって思わないと。一々ドキドキしてたら、変に思われちゃうだろうし。でもなあ、夏鈴は私に愛してるよとか平気で言うし、ちょっとそういうのは困るんですよね。他の人に言っているのは見たことがないですし。もしかして本当に。いやいや。そんなこと考える方がキモいですよね。
「あ、ちょっと待ってて」
そう言うと、夏鈴は倉庫に私を残して母屋に向かった。手に何かを持ってすぐに戻って来る。
「なにそれ?」
夏鈴が持っているスティックのりくらいの大きさの黒い物体に目を向けて言いました。片方の先端が網目状になっている。夏鈴は「ふふふ」と不敵な笑みを浮かべながらスマホと、のりみたいな機械をコードで繋げる。
「これはね、あれだよ。盗聴録音機。リビングに仕込んでおいたの。さっきママが出かけて家に誰もいないから回収時かと思って」
「盗聴器って夏鈴。なんでそんなの買ったの? ていうかどうして家に取り付ける必要があるのよ」
「買ったんじゃないよ。前のバイト先に、そういうの詳しい人がいるって話したじゃん。ほら、スパイに憧れてる変な人。その人に借りたの」
当たり前のことみたいに言ってました。確かに夏鈴は数ヶ月前にアルバイトをして、すぐにクビになっていた。ホテル清掃のバイトだって言ってたかな。私はそういうの、夏鈴には向いていないって思ってたから、一ヶ月ももたずにクビになったのも不思議じゃなかった。だってこの子、自分の部屋の掃除も出来ないんですもん。他人の部屋の掃除なんて熱心にするわけがないんです。きっと、適当に埃を払うくらいの掃除をしてたのがバレたんだと思います。とにかくその時のバイトで、スパイグッズマニアの変なおばさんと仲良くなったっていうのは前に聞いていました。また妙な人間関係を構築したものだって呆れたけど、それはもしかしたら私以外と仲良く出来る夏鈴への嫉妬なのかもしれなません。
「で、なんでそんなものを使う必要があるわけ? 家族を疑うような真似して、おじさんとおばさんが可哀想じゃん」
「だからさ、家族を守るために使うんだよ。あたしはね、ママを助けたいの。篤郎に騙されてるに決まってる。だっておかしいでしょ、あの二人の関係って。でも直接聞いても『なにもない』の一点張りだし。こうなりゃ実力行使しかないでしょ。それでリビングに盗聴器ってわけ。寝室に仕掛けなかったのはあたしの良心。それと羞恥心。両親がエッチする声なんて聞きたくないし」
言いながら夏鈴はスマホから音声を流しました。私はあんまり聞きたくありませんでした。人様の生活音を盗み聞くなんてあまりに下品だと思ったからです。
「ねえ、ちょっと。私がここにいるよ」
一応存在をアピールしてみたが、夏鈴はお構いなしでした。だから? って顔で一瞬私の顔を確認しましたが、すぐに貧弱なスピーカーから音声を流すスマホに目を落とした。画面には音声の波形みたいなものが映っていた。
居心地が悪くなって時計を確認する。既に十八時は過ぎていた。私が帰るって言っても自然な時間ではあった。スマホからはおばさんの独り言とか、誰にも聞かれていないことを前提でつく悪態とか、家事をする音とかが流れていました。罪悪感があった。音だけだけど、覗き見している気分になったんです。
夏鈴は舌打ちをするとスマホを操作して、目当ての音声が流れるまで早送りを開始した。なにが目当てなのかは知らないが、きっと彼女が希望している音が流れることはないだろう。それに、もし篤郎がおばさんを直接脅しているような音声が本当に流れたとしたらどうなるの? ただ嫌な気持ちになるだけです。内容にもよるけど、私達に出来ることなんてほとんどないでしょう。夏鈴は悲しむ? いや、キレちゃってとんでもない行動に出るかもしれない。私は今すぐに帰るのをやめた。腰を据えて夏鈴に付き合うことにしました。どうせなにも録音されていないはずですし。
「何分くらい録音出来るの?」
「これ? 音に反応して勝手に録音のオンオフをしてくれる高性能なやつだって言ってから結構録れるんじゃない? 千時間くらい? でも今回はテストも兼ねてるからそんなに録ってないよ。仕掛けたの三日前とかだし。さっきママ、買い物に出かけたじゃん? パパも夕方現場に向かってから帰ってきてないし、篤郎の馬鹿はポスティング中だし。誰もいないからちょっと盗聴がどんなものか確認したくてさ」
「それなら早く聞いちゃお」
「夢乃も意外と出歯亀だねえ」
夏鈴はわざといやらしい表情を作ってにやりとしました。私達は音声を早送りにしながら、時折スキップなんかもしつつ耳をそばだてます。
「どうするの? 私達本当にまずいんだよ」
夏鈴がスマホから指を離したその時だった、おばさんの深刻そうな声が流れました。
「そんなこと言ったってさ。仕方がないじゃないか」
おじさんの声だ。きっといつもみたいにおばさんに責められてバツの悪い表情をしているのだろう。夏鈴は顔を上げて私に頷いた。深刻そうではあるけれど、私には普通の夫婦の会話に聞こえました。でも夏鈴のセンサーが働いたのだろう。スマホから完全に指を離して聞く体勢を整えていました。
「はあ」とおばさんのため息。「元から自転車操業みたいなものだったけど、今回はもう打つ手がない。色んな所に迷惑かけて支払いだってずっと待ってもらってるし、今更銀行から融資も受けられない。私達に待っているのは破産だけ。もう終わり。このギリギリの生活でさえ後三ヶ月もてば良い方ね。それから先は高校生の娘を抱えて路上生活だよまったく」
「そんな悲観的なこと言うなよ。大丈夫だよ。俺、頑張るからさ」
なんの話か分かりませんでした。夏鈴の家が破産? そんなことってあり得るの? そりゃ拝島家はお金持ちって感じではないけど、ごく一般的な庶民の家庭っていう感じでしたし。なにより、新しい事業に乗り出したばかりじゃないですか。大口スポンサーがこんな弱気では困ります。
とっさに夏鈴の顔を確認しました。夏鈴は首を振りながら「話半分で聞いてよ。ネガティブ過ぎるんだようちの親。いつもこんなことばっかり言って、実際なんとかなってるんだから。それにさ、うちが潰れるなんて根拠がないでしょ。自転車操業なのは確かにそうなんだろうけどさ、これまでもなんとかやってきてるんだし」と言った。
「大体、パパが夏鈴に甘いから。マグネットの件だっていくらかかってると思ってるの? もう予算オーバーしてるんだよ? 子どもに任せるなんてどうかしてる。あの子にそういう感覚があるわけないじゃない。まだまだ要求してくるわよ。大体夏鈴はうちの状況を理解してないの。私達が敢えて話さないっていうのもあるけど世間を甘く見てるから。うちが破産なんてするわけないって思い込んでる。だから平気で予算の増額を求められるし、おまけにバイトも欲しがる。そんなお金潰れる寸前の水道屋のどこにあるの?」
「でもバイトの件は、結局ママも許可したじゃないか。それに蔵前君はよくやってくれてるよ。ちょっと口数が少ないけど、若い子にはない機転が効くし」
「そういうことじゃないの。意識の問題」
おばさんは痛い所を突かれたのか少し歯切れ悪く答えました。
「だよな。結局うちの経営が傾き始めたのって水道詐欺集団が現れたからだもんな。あいつらのせいで受注が減っているわけだし。原因ははっきりしてる」
「パパ、本当にそう思ってるの?」
「え、だってそうだろ?」
「それだけじゃないでしょ?」
おばさんはほとんど叫んでいました。ぎょっとして夏鈴と視線を合わせてしまう。夏鈴は冗談めかして肩をすくめ、うちの親がなんかすみませんみたいな表情を作った。だけど、その顔が強張ってきていることに気付きました。一体私達は何を聞いてしまっているのだろう。夏鈴だってこの盗聴で、こんなことが聞きたいわけじゃなかったはずです。篤郎がママを脅している証拠が録れたら最高。二人が不倫関係にあったら最悪。とか、そういう話だったはずです。拝島家の危機を知りたかったわけじゃない。
「それは、まあ、そうなんだけど」
「倉庫にあるウォシュレットの在庫。今私達を苦しめているのはあれでしょ? その話をしてるの。騙されて妙な業者から三百個も買ったあの型落ちのウォシュレットの話をさ。あのせいで元々傾いていたうちの経営が一気に悪化したんでしょうが」
「いや、あれは相場よりも随分安く買えたんだよ。売れればかなりの利益が出る。勝算だってある。ほら、近所の団地に外国人がたくさん住み始めただろ? 昔は若い家族が多かったけど、今じゃほとんど外国人だ。外国人が日本で感動することってなんだ? ウォシュレットに決まってるだろ。マーケットは開かれてるんだよ。必ず売れる。今はあんまり結果出てないように見えるかもしれないけど、蔵前君にも手伝ってもらってるし。それに、なにもしないで詐欺集団に屈するのか? そんなの俺は嫌だね。どうせなら前のめりに死にたい。拝島水道をなんとか立て直そうと行動しているわけだよ。そこら辺は評価できないですかね?」
色々語っていたけど、最後は懇願のような形になっていました。おばさんはまたため息をつきます。
「パパ、この話になるといつもそうやって夢みたいなこと語って誤魔化そうとするよね。この前もそう。夏鈴が途中で割り込んでき助かったって思ったでしょ? でも今日こそ現実的な解決策を出してもらうから。さあ、どうするの?」
そこで夏鈴はスマホをタップした。音声が止まる。それ以上は聞きたくないと思ったのか、それとも聞いても意味がないと思ったかもしれない。どう声をかければいいのか分かりませんでした。口を開いてもいいのかさえ分からなくなっていました。視線も動かせなかった。間違っても、倉庫の四方を取り囲むウォシュレットが入った段ボールの山を見てはいけない。最早ただの壁のように感じて、気にも止めていなかったそれらが拝島水道の蛇口を閉め、カラカラに乾かしていたなんて思いませんでした。もし視線を送ってしまったら、そのことについて話さなくてはならなくなります。そして喋り出したらきっと夏鈴を傷つける。だから、もう何も表示させていないスマホをぼんやりと眺めるしかなかった。
「なんてこった」
静寂を破ったのは私でも夏鈴でもなかった。篤郎でした。声がした方向を見ると、意外なほど近くに篤郎がいて驚いた。すぐそばまで来て頭を伸ばし、同じスマホを覗き込んでいる格好をしていました。音声に集中し過ぎて篤郎がポスティングから帰ってきたことには気付きませんでした。そうじゃなくても篤郎は無礼なところがあって、帰社した時にただいま戻りましたの一言も言わないことがあるから。社会人としていつか注意してやらなければと思っていたけど、つい面倒で後回しにしていました。だってそんなの大人としての常識ですから。レベルの低いことを注意しなければならない方の身にもなってほしいです。とにかく。篤郎は面倒な時に黙って帰ってきて、録音を聞いてしまったのだ。
「どうしよう?」
夏鈴が震えた声を出します。
「どうしよう?」
篤郎は心底困っている様子でした。二人が答えを求めるように私のことを見ます。
「どうしよう?」
緊張して喉のひだが張り付いているみたいでした。でもなんとか「どうしようか?」って答えました。いや、答えになんてなってません。ゴール前に回ってきたボールがタッチラインを割るのをそのまま見送っただけだ。シュートなんかして結果を出すのが怖かったんです。得点しても、枠を外しても正解じゃないような気がしました。私ってこんなに意気地なしだったんだってがっかりした瞬間でした。
ここのところ、益々耳が悪くなってきたようです。病院に行ってみたけど騒音性難聴って診断されただけで、特効薬みたいなものはないみたいです。イヤホンで大音量の音楽を聞かず、後は時折耳を休ませてあげてくださいですって。耳なんてどうやって休ませるの? 目みたいに閉じることができないのは、お医者さんだって知ってるはずでしょ。でもあんまり気にしてはいません。他人の声が聞こえにくい時があるっていう程度だし。普通の人には致命傷になりかねない障害かもしれないけど、私、あんまり友達がいないから。ほとんどただ一人の親友、夏鈴はこうやっていつも私の耳の調子を気にしてくれますしね。聞こえにくくても、口元を見ながら内容を想像して補完すれば大体は相手が言いたいことを理解できます。だから授業内容なんかは問題じゃないんです。先生って大体生徒の方を向いてはっきりと喋りますし。それに、聞こえにくい時があるっていうだけで、大丈夫な時は大丈夫だし。
それでも私の難聴を相談してからというもの、夏鈴はこうやって大げさに口元を見せて喋ってくれます。ほら、前にマスクの時代がありましたよね。全員がマスクをつけるのが当たり前になって、常識化した頃。あの時は流石に焦りました。無理矢理耳栓をつけられたような気分でした。誰ともコミュニケーションが取れなくなるかもしれないって恐怖を感じました。でも夏鈴は違った。絶対にマスクなんてしなかった。皆から白い目で見られれてた。多分、すごく煙たがられたと思う。マスクをしていないせいかは分からないけど、三回くらいウイルスに感染していたいましたし。だけど絶対にマスクをしなかった。マスクをしてしまうと、私に言葉が通じなくなることが分かっていたからです。
夏鈴には本当に感謝してます。誰にどんな顰蹙を買っても、私とのコミュニケーションを優先してくれたんですから。しかも、その頃私は法令遵守で毎日マスクをしてたにも関わらずですよ? もちろん夏鈴が、マスクをしない意味を私に伝えることはなかった。そんなことをしたら、私が負い目を感じるって分かっていたから。そういう人なんですよ、夏鈴って。
「全然。楽しいよ」
私は自然と頬が緩くなって、でもそれを我慢しようとしたものだから、逆に不機嫌な顔で答えてしまいました。夏鈴は「マジで無理しないでね」って悲しそうに、でもはっきりとした口調で答えて自分の作業に戻った。床にあぐらをかいてタブレットにスマートペンを走らせている。
拝島水道での仕事は実際に楽しかったんです。誰にも言っていないけど、私の夢は起業して大金持ちになることだから。親友の夏鈴にも言えないのには理由があります。夏鈴は私が音大に進学するって信じてる。勧められたんです。自分が美大に進学するって決めてからすぐ「夢乃はピアノ習ってるから音大ね」って提案してきました。一瞬なんのことか分からなかった。だって私がピアノを習ってたのなんて小学生の頃だし。
忘れっぽい夏鈴がそんなことを覚えていたのにも驚いたほどです。ピアノを弾くのは好きだった。習い事を辞めた後も、家で時々弾いていました。でもそれだけ。音大に進学するほどではないし、なによりそんな技術もない。素人に毛が生えた程度のテクニックしか持ち合わせていません。もちろん「え、なんで?」って聞きました。そしたら「あたしが美大に行った後、親友が音大にいるって言ったら格好良いじゃん。アートに囲まれた生活をしてるんだって勝手に想像してもらえてあたしの地位が向上するじゃん」ですって。たったそれだけで? って思いました。思ったけど、はっきり反論はしなかった。だって、夏鈴は夢を膨らませてはしゃいでたし、嬉しそうにはしゃいでいる夏鈴を見ること自体は好きだったから。それに、夏鈴の夢を無視して自分の夢を語るのもなんだか違うと感じたんです。
夏鈴にはなるべく気持ちよく生きていてもらいたいですから。だから曖昧に返事をした。「ははは」って笑った程度だと思います。夏鈴はそれをはっきりとした肯定と捉えたのか、音大に進学するって信じて疑わなくなった。時間が経つほど、どんどんと本音を言えなくなっていった。いつか打ち明けなくてはいけないことは分かってるけど、なかなかね。傷つく顔は見たくないですし。
本当の夢は経営学部かなにかに進学して、学生の内に起業すること。もし失敗しても学生ならまだ軌道修正が効くと思うので。まだなにをやるかは決めていないけど、そんなことを言ってても始まらない。私はなにかをしたくて起業するわけじゃないから。起業がしたくて起業するだけだから。こんなふわふわした気持ちで成功するのかって不安になることもあります。でも最初は皆そうだと思うんですよね。
そんな時、夏鈴が面白そうな話を持って来た。「あたしんちの仕事、手伝ってくんない」だって。私はその話に飛びついた。ちょっと前まで夢のために何をしていいのかも分からない状態だったのに、これで実務経験を踏めるって考えたんです。給料はなしってことだったけど、ただのアルバイトとか末端の仕事ではなく、プロジェクト全体に携わりお金を動かせる立場での採用って聞いて俄然やる気が出ました。お金の計算とかが苦手な夏鈴に代わって、私がその仕事をやればきっと起業する時の糧にもなるでしょう。
いざ仕事を始めると、想像よりもずっと楽しかった。細々した数字を計算して現実に落とし込んでいく作業は自分に合っていると思いました。数学は得意じゃないのに不思議でした。ビジネスの規模は大したことなかったけれど、それでも高校二年生の私にとっては大きなお金を動かすことが出来ましたし。だから、私は夏鈴が思っているよりもずっとこの仕事を楽しんでいました。でも、楽しんでいるって思われたくはなかったんです。なんだか夏鈴に悪いような気がして。あの子の中では、私は音大を目指す高校生で、親友の手伝いをしているだけなんですから。
ただ、仕事が楽しすぎてちょっと失敗しました。数字の魔力に溺れたっていうのかな? 最初は予算の五万円以内で印刷業者に任せる計画でした。それだと地域の一千軒にしか広告が届かない。五万円っていったら、私にとっては大金だった。中古のスマホが買えちゃうし。それなのに、カメラもついてないマグネット千個と同じなんですか? って疑問が湧いたほどだから。色々調べた。私達が配布しようとしているものは、マグネットとシールさえあれば作れることが分かった。普通の紙よりは上等だけど、大した価格ではありません。素材を購入し自分たちで制作すれば、十万円で一万個は作れる計算になります。そして自分たちでマグネットを配布する。中間マージンを省いた合理的なやり方、マグネット広告界の革命でした。
よし、いいぞいいぞ。二倍の予算で、効果は十倍です。経営者視点で考えれば多少のリスクを背負わなければいけない場面でしょう。これでいこう。どうやらビジネスの世界では、何もかも大量に発注することで単価を安くするという魔法が使えるようになるらしいのです。夏鈴もすごいって言ってくれた。マグネットとシールを購入したサイトでは後払いの代金振込を利用したものだから、足が出た五万円分のことは考えなかった。ここは、その時の私がどうにかしてくれるだろうっていう前向きな思考を活用しました。
商品が倉庫に到着した日は興奮した。早速サンプルを幾つか作った。達成感があった。今日こそが経営者として踏み出したスタート地点だって思えたんです。同時に飽きた。夏鈴も同じだった。僅差で彼女の方が早く作業に飽きていたみたいでした。今日が経営者としての試練が始まる日だって思い直しました。
人手が必要だった。私達に代わってつまらない単純作業を行うアルバイトを雇う必要があった。私にはプロジェクトリーダーとしての役割が、夏鈴にはデザイナーとしての役割があった。費用対効果を考慮すれば、私達が単純作業に従事するのは損失だって考えるべきでした。一人だけで成長した大企業なんてありません。バイトを雇うのだって、投資の一部としてリスクを負わなくてはならない。それに、後払いの期日も迫ってきていました。スポンサーである夏鈴の両親には合わせてプレゼンしなければならなかった。
だからまあ、あの蔵前篤郎っていう何もせず何も出来ないまま年だけとった最低の人材が職場にやって来たのは私のせいでもあったんです。受け入れなければならなりませんね。それに考えようによっては、年上の男性、しかも能無しっていうツーアウトで凡フライを打ち上げてしまったような部下を上手く使うのも上司には必要な資質だって思えました。今のうちに経験しておいた方がいいかもしれません。まあ、無理矢理に前向きに考えれば、ですけど。
不思議なのは、夏鈴のパパがバイト募集に前向きだったことです。おじさんは夏鈴に激甘だから、それだけで後押ししてくれたって線も考えられるけどそれだけじゃないような気がします。自分もアシスタントがほしいからって言ったらしい。端から見ただけですけど、拝島水道にアシスタントが必要なほど仕事があるとは思えません。もしかしたら、おじさんも人生で一度は人の上に立ってみたかったのかな。それなら理解できます。けど、経営は大丈夫なんですかね? って心配になります。拝島水道はこのプロジェクトの唯一の出資者なわけですから。安定した経営基盤を保っていてくれないと困ります。
心配事なら他にもあります。主に篤郎に関することです。私にとってはあまり重要じゃないけど、夏鈴が気にしてる。体の傷とか、夏鈴ママとの関係とか。夏鈴には悪いけど、あの男が私達に悪い影響を与えるとは思えません。篤郎のことを信じているっていうことではなくて、誰にどんな影響も与えられないほどちっぽけな存在だって意味で。仕事だけ与えて奴隷のように扱えばそれで得も損もない人間だと思えます。そういう意味で言えば、夏鈴は篤郎のことをとことん嫌っていたけれど、人間扱いしていたってことです。私にとっては虫けらと同じ。夏鈴はちょっと心配し過ぎだと思うんです。
私達はいつも、学校が終わってから十八時過ぎまで仕事をしていました。二人でお菓子を食べながらおしゃべりをするっていうのは、分からない人には遊んでいるだけって思えるかもしれないけど、脳の半分以上は仕事のことを考えているんです。夏鈴だってそうだと思います。壮絶なプレッシャーをリラックスさせようと努めながら仕事に対峙する。高度な心理戦なんですよ。
この日もそうでした。私は片目でエクセルを睨みながらポッキーを咥え、夏鈴は片手でペンを持ちながら、もう一方の手ではパイの実を口に運んでいた。時折篤郎の陰口を叩いたり、学校の先生の悪口を言ったりして過ごしました。幸せな時間だった。最近特に夏鈴のボディータッチが多くなっているような気がしてドキってするけど、それでも私達は親友同士だから当たり前のことって思わないと。一々ドキドキしてたら、変に思われちゃうだろうし。でもなあ、夏鈴は私に愛してるよとか平気で言うし、ちょっとそういうのは困るんですよね。他の人に言っているのは見たことがないですし。もしかして本当に。いやいや。そんなこと考える方がキモいですよね。
「あ、ちょっと待ってて」
そう言うと、夏鈴は倉庫に私を残して母屋に向かった。手に何かを持ってすぐに戻って来る。
「なにそれ?」
夏鈴が持っているスティックのりくらいの大きさの黒い物体に目を向けて言いました。片方の先端が網目状になっている。夏鈴は「ふふふ」と不敵な笑みを浮かべながらスマホと、のりみたいな機械をコードで繋げる。
「これはね、あれだよ。盗聴録音機。リビングに仕込んでおいたの。さっきママが出かけて家に誰もいないから回収時かと思って」
「盗聴器って夏鈴。なんでそんなの買ったの? ていうかどうして家に取り付ける必要があるのよ」
「買ったんじゃないよ。前のバイト先に、そういうの詳しい人がいるって話したじゃん。ほら、スパイに憧れてる変な人。その人に借りたの」
当たり前のことみたいに言ってました。確かに夏鈴は数ヶ月前にアルバイトをして、すぐにクビになっていた。ホテル清掃のバイトだって言ってたかな。私はそういうの、夏鈴には向いていないって思ってたから、一ヶ月ももたずにクビになったのも不思議じゃなかった。だってこの子、自分の部屋の掃除も出来ないんですもん。他人の部屋の掃除なんて熱心にするわけがないんです。きっと、適当に埃を払うくらいの掃除をしてたのがバレたんだと思います。とにかくその時のバイトで、スパイグッズマニアの変なおばさんと仲良くなったっていうのは前に聞いていました。また妙な人間関係を構築したものだって呆れたけど、それはもしかしたら私以外と仲良く出来る夏鈴への嫉妬なのかもしれなません。
「で、なんでそんなものを使う必要があるわけ? 家族を疑うような真似して、おじさんとおばさんが可哀想じゃん」
「だからさ、家族を守るために使うんだよ。あたしはね、ママを助けたいの。篤郎に騙されてるに決まってる。だっておかしいでしょ、あの二人の関係って。でも直接聞いても『なにもない』の一点張りだし。こうなりゃ実力行使しかないでしょ。それでリビングに盗聴器ってわけ。寝室に仕掛けなかったのはあたしの良心。それと羞恥心。両親がエッチする声なんて聞きたくないし」
言いながら夏鈴はスマホから音声を流しました。私はあんまり聞きたくありませんでした。人様の生活音を盗み聞くなんてあまりに下品だと思ったからです。
「ねえ、ちょっと。私がここにいるよ」
一応存在をアピールしてみたが、夏鈴はお構いなしでした。だから? って顔で一瞬私の顔を確認しましたが、すぐに貧弱なスピーカーから音声を流すスマホに目を落とした。画面には音声の波形みたいなものが映っていた。
居心地が悪くなって時計を確認する。既に十八時は過ぎていた。私が帰るって言っても自然な時間ではあった。スマホからはおばさんの独り言とか、誰にも聞かれていないことを前提でつく悪態とか、家事をする音とかが流れていました。罪悪感があった。音だけだけど、覗き見している気分になったんです。
夏鈴は舌打ちをするとスマホを操作して、目当ての音声が流れるまで早送りを開始した。なにが目当てなのかは知らないが、きっと彼女が希望している音が流れることはないだろう。それに、もし篤郎がおばさんを直接脅しているような音声が本当に流れたとしたらどうなるの? ただ嫌な気持ちになるだけです。内容にもよるけど、私達に出来ることなんてほとんどないでしょう。夏鈴は悲しむ? いや、キレちゃってとんでもない行動に出るかもしれない。私は今すぐに帰るのをやめた。腰を据えて夏鈴に付き合うことにしました。どうせなにも録音されていないはずですし。
「何分くらい録音出来るの?」
「これ? 音に反応して勝手に録音のオンオフをしてくれる高性能なやつだって言ってから結構録れるんじゃない? 千時間くらい? でも今回はテストも兼ねてるからそんなに録ってないよ。仕掛けたの三日前とかだし。さっきママ、買い物に出かけたじゃん? パパも夕方現場に向かってから帰ってきてないし、篤郎の馬鹿はポスティング中だし。誰もいないからちょっと盗聴がどんなものか確認したくてさ」
「それなら早く聞いちゃお」
「夢乃も意外と出歯亀だねえ」
夏鈴はわざといやらしい表情を作ってにやりとしました。私達は音声を早送りにしながら、時折スキップなんかもしつつ耳をそばだてます。
「どうするの? 私達本当にまずいんだよ」
夏鈴がスマホから指を離したその時だった、おばさんの深刻そうな声が流れました。
「そんなこと言ったってさ。仕方がないじゃないか」
おじさんの声だ。きっといつもみたいにおばさんに責められてバツの悪い表情をしているのだろう。夏鈴は顔を上げて私に頷いた。深刻そうではあるけれど、私には普通の夫婦の会話に聞こえました。でも夏鈴のセンサーが働いたのだろう。スマホから完全に指を離して聞く体勢を整えていました。
「はあ」とおばさんのため息。「元から自転車操業みたいなものだったけど、今回はもう打つ手がない。色んな所に迷惑かけて支払いだってずっと待ってもらってるし、今更銀行から融資も受けられない。私達に待っているのは破産だけ。もう終わり。このギリギリの生活でさえ後三ヶ月もてば良い方ね。それから先は高校生の娘を抱えて路上生活だよまったく」
「そんな悲観的なこと言うなよ。大丈夫だよ。俺、頑張るからさ」
なんの話か分かりませんでした。夏鈴の家が破産? そんなことってあり得るの? そりゃ拝島家はお金持ちって感じではないけど、ごく一般的な庶民の家庭っていう感じでしたし。なにより、新しい事業に乗り出したばかりじゃないですか。大口スポンサーがこんな弱気では困ります。
とっさに夏鈴の顔を確認しました。夏鈴は首を振りながら「話半分で聞いてよ。ネガティブ過ぎるんだようちの親。いつもこんなことばっかり言って、実際なんとかなってるんだから。それにさ、うちが潰れるなんて根拠がないでしょ。自転車操業なのは確かにそうなんだろうけどさ、これまでもなんとかやってきてるんだし」と言った。
「大体、パパが夏鈴に甘いから。マグネットの件だっていくらかかってると思ってるの? もう予算オーバーしてるんだよ? 子どもに任せるなんてどうかしてる。あの子にそういう感覚があるわけないじゃない。まだまだ要求してくるわよ。大体夏鈴はうちの状況を理解してないの。私達が敢えて話さないっていうのもあるけど世間を甘く見てるから。うちが破産なんてするわけないって思い込んでる。だから平気で予算の増額を求められるし、おまけにバイトも欲しがる。そんなお金潰れる寸前の水道屋のどこにあるの?」
「でもバイトの件は、結局ママも許可したじゃないか。それに蔵前君はよくやってくれてるよ。ちょっと口数が少ないけど、若い子にはない機転が効くし」
「そういうことじゃないの。意識の問題」
おばさんは痛い所を突かれたのか少し歯切れ悪く答えました。
「だよな。結局うちの経営が傾き始めたのって水道詐欺集団が現れたからだもんな。あいつらのせいで受注が減っているわけだし。原因ははっきりしてる」
「パパ、本当にそう思ってるの?」
「え、だってそうだろ?」
「それだけじゃないでしょ?」
おばさんはほとんど叫んでいました。ぎょっとして夏鈴と視線を合わせてしまう。夏鈴は冗談めかして肩をすくめ、うちの親がなんかすみませんみたいな表情を作った。だけど、その顔が強張ってきていることに気付きました。一体私達は何を聞いてしまっているのだろう。夏鈴だってこの盗聴で、こんなことが聞きたいわけじゃなかったはずです。篤郎がママを脅している証拠が録れたら最高。二人が不倫関係にあったら最悪。とか、そういう話だったはずです。拝島家の危機を知りたかったわけじゃない。
「それは、まあ、そうなんだけど」
「倉庫にあるウォシュレットの在庫。今私達を苦しめているのはあれでしょ? その話をしてるの。騙されて妙な業者から三百個も買ったあの型落ちのウォシュレットの話をさ。あのせいで元々傾いていたうちの経営が一気に悪化したんでしょうが」
「いや、あれは相場よりも随分安く買えたんだよ。売れればかなりの利益が出る。勝算だってある。ほら、近所の団地に外国人がたくさん住み始めただろ? 昔は若い家族が多かったけど、今じゃほとんど外国人だ。外国人が日本で感動することってなんだ? ウォシュレットに決まってるだろ。マーケットは開かれてるんだよ。必ず売れる。今はあんまり結果出てないように見えるかもしれないけど、蔵前君にも手伝ってもらってるし。それに、なにもしないで詐欺集団に屈するのか? そんなの俺は嫌だね。どうせなら前のめりに死にたい。拝島水道をなんとか立て直そうと行動しているわけだよ。そこら辺は評価できないですかね?」
色々語っていたけど、最後は懇願のような形になっていました。おばさんはまたため息をつきます。
「パパ、この話になるといつもそうやって夢みたいなこと語って誤魔化そうとするよね。この前もそう。夏鈴が途中で割り込んでき助かったって思ったでしょ? でも今日こそ現実的な解決策を出してもらうから。さあ、どうするの?」
そこで夏鈴はスマホをタップした。音声が止まる。それ以上は聞きたくないと思ったのか、それとも聞いても意味がないと思ったかもしれない。どう声をかければいいのか分かりませんでした。口を開いてもいいのかさえ分からなくなっていました。視線も動かせなかった。間違っても、倉庫の四方を取り囲むウォシュレットが入った段ボールの山を見てはいけない。最早ただの壁のように感じて、気にも止めていなかったそれらが拝島水道の蛇口を閉め、カラカラに乾かしていたなんて思いませんでした。もし視線を送ってしまったら、そのことについて話さなくてはならなくなります。そして喋り出したらきっと夏鈴を傷つける。だから、もう何も表示させていないスマホをぼんやりと眺めるしかなかった。
「なんてこった」
静寂を破ったのは私でも夏鈴でもなかった。篤郎でした。声がした方向を見ると、意外なほど近くに篤郎がいて驚いた。すぐそばまで来て頭を伸ばし、同じスマホを覗き込んでいる格好をしていました。音声に集中し過ぎて篤郎がポスティングから帰ってきたことには気付きませんでした。そうじゃなくても篤郎は無礼なところがあって、帰社した時にただいま戻りましたの一言も言わないことがあるから。社会人としていつか注意してやらなければと思っていたけど、つい面倒で後回しにしていました。だってそんなの大人としての常識ですから。レベルの低いことを注意しなければならない方の身にもなってほしいです。とにかく。篤郎は面倒な時に黙って帰ってきて、録音を聞いてしまったのだ。
「どうしよう?」
夏鈴が震えた声を出します。
「どうしよう?」
篤郎は心底困っている様子でした。二人が答えを求めるように私のことを見ます。
「どうしよう?」
緊張して喉のひだが張り付いているみたいでした。でもなんとか「どうしようか?」って答えました。いや、答えになんてなってません。ゴール前に回ってきたボールがタッチラインを割るのをそのまま見送っただけだ。シュートなんかして結果を出すのが怖かったんです。得点しても、枠を外しても正解じゃないような気がしました。私ってこんなに意気地なしだったんだってがっかりした瞬間でした。
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