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先生……。
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「先生……っ。」
最初はふざけて呼んでみた。
次はからかいをこめて呼んでみた。
先生、先生、先生。
何度呼んだことでしょう。
その度に、「なんだい?」と困ったように伏し目がちに毎回返事をしてくれた、優しい先生。
それが、私の好きな人でした。
ただ毎日なんとなく、そうなんとなく日々を過ごすことに、
飽きが見えた。
いつまで続くの?
まだ続くの?
終わりはあるの?
変わる?変わらない?
単調な毎日は日に日に自問自答の時間を長くした。
心をときめかせた最後はいつ?
覚えてる?
思い出せる?
それとも、そんな経験、私は一度だってしたことない ?
軽い気持ちだった。としか言えない。
ただなんとく。
恋活とか婚活とか、そんな類のあれで。
流れる検索表示に適当に流れのままに、自然に指を動かしていた。
何も考えないで普通に、ダウンロードしたのがきっかけでした。
出会い系とか、何年前の言葉?最早、死語なんじゃないかとさえ思った。
不倫?片思い?は?なにそれ。美味しいのっていうか、そもそも味なんてあるの?
馬鹿みたい、くだらない、自分には無関係な出来事さえ思ってた。
(私は、思ってばっかだな。)
「こういうアプリは初めてですが、
よろしくおねがいします♪」
最初に発信した言葉はこんな感じだったと思う。
何もかもが全て、普遍的。
超単純。
(こんなんで出会いがあるわけ……?)
半信半疑ともしかしたらという期待の、
妙にドギマギした心拍を感じた。
夜中に何をやっているのかと冷静な自分と、
早く寝よう、どうせ何もないと冷めてる私が居た。
案の定、朝が来て携帯を見ても何も来てなかった。
最早忘れていたと言っても言い、
起きた1秒後までは。
すぐに、もしかしてなんて少しは期待した私が居た、
そんな寝起き。
(やっぱり……。)
2日目は見なかった、アプリを。
3日目は気になって少し眺めた。
4日目は仕事で忙しくて時間がなかった。
5日目はほろよいで見てみた。けど何もなくて、「何?」って感じ。
6日目、7日目、なんて、
時間は平等にあっという間に過ぎていく。
1週間たったけど、
私からアプローチしてないけど、
写真も怖くて載せてないけど、
こんなに、何もないもんなの?
広告のあの文、なに、あれ、嘘?
こんなにたくさんの登録者らしき人の写真はあるのに、
メッセージが1通もこないってありえない。
(全部、サクラなんじゃないの?!)
自棄だったとしか言いようがない。
一人暮らしの部屋で小さい携帯に向かって、
私が出来るのは、
手あたり次第にメッセージを送ることだけだと思った。
もう、正直、誰でもいい。
誰か一人でもいい。
私に返信してほしい。
(私を必要としてほしい……。)
自棄だったとはいえ、
朝目が覚めるとさすがに緊張した。
返事は、何通来てる?
そもそも、何かアクションはあるの……?
朝から仕事なのに、
なんでこんなアプリに気持ちを動かされなくちゃいけないの?
5通来てた。
「 良かった 。」
自然と口から零れていた。
年代も様々だ。
40代、30代、20代。
ありがとう、嬉しい。
単純にそう思った。
中でも目に入ったのは、
30代の方眼紙のアイコンの人だった。
昨日の夜にプロフィール見ながら
一生懸命考えてメール打ったから覚えてる。
職業:作家のこの人。
今のご時世、ライターとかもいっぱいいるだろうし、
珍しいことではない。
営業が多い中、なんか目に留まった。
プロフィールも、周りと少しだけ違った。
--------何か一つでも良い事があればいい、あなたにも、わたしにも。
そう書かれていた文に、
キザだなと思った半面、
物が溢れる今の時代に、
何か一つ、
逆に一つだけでも見つけられることが出来たらどんなにいいかと、
夜中の私は考えたのだった。
住んでる所を見ると、
どうやら近くのようだった。
返事がもらえた嬉しさをかみしめていたら
時間がたっていたようで、
返事を打つ間もなく、
出勤しなければいけなくなってしまった。
適当に時間を見つけて返信しよう。なんて思っていたその日に限って、
忙しく、
携帯をチェックする暇すらもなかった。
久しぶりの残業までもあった。
帰り道、やっと携帯をチェックすることが出来た。
丁度その時だった。
--------突然なのですが、今夜お食事でもどうですか?
と、気になる作家さんからメールが来たのには、
驚いた。
丁度、お腹もすいていた。
でも、服は?
何もオシャレしてない。
でも、これを逃していいの?
またいつもと同じなんじゃないの?
頑張れ、私!
--------こんばんわ。良かったらぜひ。
返信したらすぐにメールは帰ってきて、
家の最寄り駅で会うことになった。
最初のメールを受信したときから、
緊張していた。
心臓は妙に脈打っていて、
手は少し震えて、
息も若干荒い……。
(メールした感じだと、穏やかそうな感じしたし。
うん、大丈夫。
大丈夫?!
はぁ、緊張する……っ。)
--------先に着いちゃいました。
改札横の柱の所で待ってます!
急がなくても大丈夫なので。(笑)
(え、もう?!
私あと10分くらいかかるのに?!)
電車に揺られながら焦る気持ちが出てきたが、
最後の一言の、
急がなくても大丈夫なので。という一文に救われた。
初めて会う。
こういうアプリで初めて男の人と、会う。
変に落ち着いていた。
緊張しすぎたのかもしれない。
ふぅーと深呼吸した。
電車のガラスに映る私は妙に楽しそうだ。
でもさすがに、仕事帰りが過ぎる。
一つに束ねていた髪でも解こうか、せめてもの最後の足掻きだ。
早くも遅くもならない、
予定通り、10分後。
私は駅に着いた。
会った事もないけど、
すぐにわかった。
まばらに人は居たけれど、
直感で、彼だ、あの人だと思った。
柱の所に立っていた男性に、
声をかけた。
「 あの 。」
「 ? 佐藤さん?」
「そうですっ。田河さん、ですか?!」
「はい。」
彼は微笑んだ。
(良かった、優しそうだ。)
「お店調べてたんですが、00なんてどうですか?」
「00ですか?!気になってたんです。」
「良かった。じゃぁ、そこに行きましょう。」
「はい。」
私の前を歩く背中にあたふたしながらついていく。
「そういえば、佐藤さんは誰かとこうして会った事あるんですか?」
「ないです!!初めてでっ。」
「そうなんですか?私もですよ。」
彼はそういうと「良かった。」とつぶやき店を目指した。
少し見上げる背丈の彼についていきながら、
私はドキドキしていた。
お店に着くと、
彼は流れるように、
何が食べたいか、
食べれないものはないかなどといい、
私に気を使いながら、
品々を決めていく。
初対面の人とデートなんてしたことない。
いつも、デートする相手は多少は素性を知っているものだったから、
不思議で仕方なかった。
私と彼は、
まだ、名前といっても、
アプリに登録してある苗字しか知らないのだ。
違和感しか感じなかった。
料理を頼み終えて、
待つ間彼は、「突然メールしてすいませんでした。迷惑じゃなかったですか?」と聞いてきた。
「私も、丁度仕事終わりだったので、良かったです。」
「なら良かった。昨日の夜にメール貰って、返事なかったけど、気になって、ね。」
「すいません、返事できてなくて。今日に限って忙しかったんですよ。」
「そういえば、佐藤さんはなんの仕事をしているの?」
「私は、接客です。」
「立ち仕事なの?大変だねぇ。」
「もう、慣れちゃいました。(笑)」
「なにかコツとかあるの?」
「慣れですかね、やっぱり。」
「そうなんだ。」
「田河さんは、作家さんしてるんですよね?」
「そうだよ。」
「どんなお話書いてるんですか?」
「 内緒。」
「え?なんでですか?!」
「もう少し、仲良くなかったら本をプレゼントするよ。」
「えぇ、気になりますっ!」
ふふっと彼は静かに笑った。
来た店はこじんまりした小さい個人経営の居酒屋だった。
焼き鳥、枝豆、出汁巻き卵……。
お酒を飲みながら、
他愛もない話をする。
(こんな感じなんだ。)
男性と2人でお酒を飲むなんて久しぶりなのに、
なぜか彼には緊張しなかった。
1時間はたっただろうか?
酔いも回ってきて、
「先生っ。」と、
ふざけて呼んでみた。
「え?」
彼はそう呼ばれると思わなかったみたいで、
少し驚いていた。
「すいません、酔っちゃって……。」
「大丈夫?お水、貰おうか?」
「大丈夫です!……いや!やっぱりお願いしてもいいですか?」
「もちろん。」
穏やかな川のように話す人だったけれど、
仕事の話だけは職業柄言いたくないのか、
少しだけはぐらかされた。
お会計の時だった。
「いいよ。」と彼は囁くように話し、
私の前に立った。
奢ってくれた。というか、
女の子扱いしてくれた?
少しでも良い所見せようとしてくれた?
ほろ酔いの私は色々自分に都合の良いように考えていた。
お店を出る。
「お会計、ありがとうございましたっ!」
「いいよ、気にしないで。」
(なんて、良い人なんだろう……。)
「駅は、こっちだっただね。」
その一言で、
あぁ、そうか。
もう、お開きかと思った。
帰りたくない、
もう少し一緒に居たいそんな気持ちを
アルコールは背中を押してくれた。
「先生!」
「 ん?」
彼は困った顔ような恥ずかしそうな顔をして
歩いている足を止めて、
後ろを振り返ってくれた。
この時の私には、それだけでとても十分だった。
「先生は、家どこらへんなんですか?」
「 00あたりだよ。」
「近い!」
「そう?(笑)」
「先生はどんなアパートに住んでるの?」
「うーん。
というか、先生と呼ぶの、やめてくれない?」
「何でですか?」
「 恥ずかしいんだよ。」
「先生!先生!!」
「こ、声が大きいっ。」
「ごめんなさい(笑)」
その日のふわふわした出来事を、
私は一生忘れたくない。
何度思いだしても、
こそばゆい、大切な思い出だ。
それから何日かメッセージのやり取りをした。
電話だってした。
関係を持つのは、
当たり前だと思った。
私だって、
彼との未来を望んでいたのだから。
彼と会うのは、
もう何回目だろう?
ふざけて「先生」と呼ぶ度に、
色んな彼の表情を見てきた。
不機嫌な時は本当に嫌そうな顔をしたり、
機嫌が良いときは、本当に嬉しそうに返事をしてくれたこともあった。
あれは、雨の日だった。
ホテルの帰り道、
彼が車で送ってくれた時だった。
彼はおかしなことをいう。
「僕ね、ラジオが嫌いなんだ。」と。
「なんで?」ときいても、
「なんでだろうね?(笑)」と答えてくれなかった。
デートらしいデートが少なくなってきた時だったかな、
そういえば。
彼が会いたいと私にメッセージをくれるなら、
私は大抵は会う為に時間を割いた。
その会いたいが、
ほぼホテルに行くだけでも、
私は別に不満はなかった。
ホテルでだって、
ご飯は食べれる。
お話だって出来る。
何より、
彼に会えて、
彼を誰よりも何よりも1番に感じることができるじゃないか。
好きとか、
付き合って欲しいとか
出会って何ヶ月もたつのに言われなくたって、
私が好きだからいいんだ。
私が酔って
付き合ってるんだよね、私たち?って聞いても、
「ふふ、どうだろうね。」と優しく笑う彼が好きだった。
でも、じゃぁ、私たちの関係って一体なに?
友達?セフレ??
と思うと、不安で胸がいっぱいになった。
誤魔化すように、
沈黙が答えのような気がして、
私は彼といると、
普段の倍喋った。
彼から出会えてよかった。君はとても素敵な友人だよとか言われたらどうしようとか思うと、
口を開かずにはいられなかった。
彼はそんなおしゃべりな私の話を聞いているのか、いないのかわからないけど、
特にうるさいとも何も反応することはなくて、
ただいつも少し遠くを見て、
よくお酒をゆっくり飲んでいた。
泊まってくれる。
夜一緒に居てくれる。
それだけがその時の私には
何よりも嬉しかったの。
話題に困った私は車内の彼の言葉をすっかり忘れて、
ホテルでラジオを流してしまったことがあった。
「 ラジオってさ。」と、彼が話し始めた瞬間に、
遅く、思いだした。
ごめんというには、不自然で。
「声だけなのに、その人の何が分かるんだろうね?
何を伝えたいんだろう。
僕は、苦手だな。
きってもらっても、いいかな?」
静かに話す彼に、
私は何にも言えなくて、
黙って、
BGMチャンネルに変えた。
ラジオじゃなくて、
私の話を聞いてとも、
もっと、あなたの話を聞かせてとも、
まだアルコールの入ってない私には
いう度胸はなかった。
その人に聞く姿勢があるなら、
ラジオでも伝わるし、
聞く耳がなければ、
こんな近くにいるのに、
私の何があなたに伝わるっていうんだろう……。
(好きです……。)
こんなにも、私ばかりがあなたに恋をしてしまったね。
恋人という関係に拘らなければいい。なんて自分を鼓舞した。
そんな日だった。
開き直ったのがいけなかったのかな?
いつものように、抱きしめられた時だった。
首元からいつもと違う香りがした。
そこに香水でもかけられたみたいに。
ネクタイの後ろに隠れて、
主張してくる香りがあった。
「香水変えた?」なんて、
野暮なことは聞かない。
(だって、女ものの匂いがするもん。)
強く抱きしめられる度に、
その匂いが鼻に近づく。
嗅ぎたくない気持ちを取るのか、
彼から離れたくない気持ちを取るのか。
私は、やっぱり、選べない。
好きじゃないから告白しないって思ってた。
違うの?
好きだから会ってくれる。
でも、告白できない訳がある、の?
新しい悩みと出会って、
泣いてしまいそうだけど、
鼻から香る匂いが、
泣かせてくれない……。
ずっともやもやしてた。
あれから何回か会ったけど、
日に日に匂いが強くなってくる気がした。
彼の住む家に、一緒に住んでいる女の人がいる。
その事実に嫉妬してしまいそうだ。
なのに、彼は普段と何も変わらない。
彼は気づいてないのだ。
自分のシャツに香水がかけられていることに。
そのくらい、この香りは彼にとって馴染みのある、
日常だということに、
さらに傷付いた。
私を笑顔で抱きしめてくれるけど、
鼻を擦りあてる度に、
香りの主から「あなたは浮気相手なのよ」と言われている気がして、
へこむ。
(私は、彼の本命じゃない。)
分かってるけど、
なにもそんな夢のない事実を教えてくれなくたっていいじゃないか。
やり切れなくて、
彼の飲んでたお酒を貰った。
「先生?」
「珍しいね、お酒飲むなんて。」
「ねぇ?」
「ん?」
「結婚しよ?」
願望だった。
その香りの女の人とじゃなくて、
私と一緒になろ?
住んでるってことは、
同棲?
まだ籍を入れてない?
もう、結婚しちゃってるの?
先生はやっぱり困ったように笑ってるだけだった。
その薄ら笑いが私は嫌いで好き。
「だめ、ですか?」
「付き合っても、ないよ?」
「いいじゃないですか、順番なんて。」
「そうかな、僕はこだわりが強くてね……。」
「だって、付き合ってないのに、もう何回も寝てる。」
「それを言われると、困るね。」
(また、笑った。)
先生の力ない笑顔を見てると、
私も微笑みたくなる。
「いいでしょ、先生?
私、小説家の嫁になるのが夢だったの!」
「それは、初耳だ(笑)」
「今、見つけたもの(笑)」
「じゃぁ、結婚しよっか(笑)」
「うん。」
私がふざけて先生って呼ぶ分、
彼はふざけて結婚しようっていうの。
先にふざけた私が悪かったのかな……?
それから会うたびに、
結婚しようって言えば、
いいよって言ってくれるけど、
関係は特に変わらなかった。
ただ、香りだけが濃くなっていった。
その日は、雨だった。
部屋で彼は先に待っていた。
「ごめんなさい、電車に乗り遅れちゃって。」
もうこのホテルに来るのは何回目だろうか。
彼は思いつめたようにベッドに腰かけていた。
「 どうしたの?具合悪いの?顔、真っ白だよ?」
心配で駆け寄った。
「……。」
「な、なに?」
彼は小声で「奥さんにバレたんだ。」といった。
「え?」
「どうしよう。」
どうしよう。としか言わない彼のみすぼらしい姿、
私は忘れない。
「結婚してた、んだ?」
体が震えた。
女の人が居るのは知ってたけど、
既婚者だったのかとはっきりわかると、
胸が苦しくなった。
「 あ、ごめんね。黙ってて。」
あって。
私ってあ、ごめんねって言う位軽い認識だったの。
そんなに奥さんのことが大事なのに、
なんで浮気なんてするの?
「なんで、アプリしてんの?」
私だって、聞きたいこといっぱいあるのに。
彼には眼中にないみたいだ。
酷く悲しい。
「なんで……。
小説に行き詰まちゃって。
僕なんて才能ないのに。
そうだ、君に本をあげるって約束してたよね。
恥ずかしいんだよ。僕は。
だから!君がふざけて僕のことを先生って呼ぶ日は、びくびくしちゃって。
やめてくれって言ったじゃないか……。
って、言ってないかもしれないね。
君に嫌われたくなくて、言えなかったんだよ、ずっと。」
(なにそれ。
辞めてって言えば呼ばなかったよ、多分。
呼ばなきゃ、もっとちゃんと考えてくれたの、私のこと?)
ふざけて呼んでた「先生」という言葉が、
無意識にも彼に罪悪感を与えていたと思ったら、
私は自ら彼に抱き付いた。
雨で流れたのか、
久しぶりに彼の匂いを嗅いだ。
「ごめんなさい。」
「君が謝ることはない。
僕が悪いんだ。
ごめんね。」
彼はそういって私の頭を撫でてくれた。
2人で抱き合ったまま寝ころぶ。
(ずっと一緒に居れたらいいのに。)
私がそう思った時だった。
「離れたくない。」
彼が初めて私を求めてくれた。
その一言がどんなに嬉しかったことか。
彼の顔にシーツをかぶせた。
彼は少し驚いて、
すぐに受け入れてくれた。
(一緒になろう?)
私にもシーツをかぶせて……?
彼は突然起き上がり、
私を風呂場に連れて行った。
「一緒にはいろう?」
彼の手には鞄から出したカッターナイフがあった。
「うん。」
湯船にお湯をためて、
ジャグジーをつけて。
照明も消して。
結婚指輪の交換はできなかったけれど、
あの世に一緒にいけるなら別にいいかなとか思って。
お互いの腕を切りあった。
初めて一緒にお風呂に入った。
手首から赤い血が流れていく。
痛いとか怖いとか恥ずかしいとか嬉しいとか虚しいとか、
全部、排水溝に流れちゃえと思って。
「綺麗。」
そう彼に寄りかかって目をつぶった。
目が覚めたら、
ベッドに居た。
手首には包帯が巻いてあって、
彼は一人静かに椅子に座って、
タバコを燻らせていた。
裸にバスローブで、
手首に包帯って、
私は何をやっているんだ。
という、想いがふいに溢れた。
彼の手首にも、
包帯が巻いてある。
お揃いが手首の傷と包帯って、
バカげてる。
目が覚めた私は、
彼からも目が覚めたようだ。
だって、
カッターも包帯も、
準備が良すぎる。
なにより、
彼はあんなことをしたのに、
いつもと変わらないじゃないか。
(慣れてる。)
ふいにそう思った。
浮気するのも、
ばれるのも、
ばれて泣くのも、
手首を切るのも、
死なないのも、
彼は何回経験しているの ?
「 初めてだったから。」
「ん?目、覚めたんだね。」
「私は、初めてだったから。切ったの。」
「 あぁ。気にしないで。」
「気にするよ。」
「死ねなかったね。」
「そんな気、ないでしょう、先生は。」
「だから、その呼び方は止めてくれないか?」
「わざと呼んだの。わざと。」
「なんで、そんないじわるをするんだい?」
「先生が、嘘つくからよ。」
「嘘なんて。」
「既婚者だった。死ぬ気なかった。私と結婚なんてする気もない。」
「 すまなかったよ 。」
「謝ればいいと思ってる。」
「 どうしたら、許してくれるんだい?」
(あぁ、私ばっかりが好きだった 。)
先生は、
私に許してもらうつもりなんて1ミリもない。
今、この瞬間、
居心地が悪くなきゃいい、
それだけで、
私に言葉を話す。
(ひどい。)
もう会わない。
会いたい。
会いたくない。
そんな気持ちでぼんやりと彼と
彼から吐き出されるタバコの煙を見ていた。
泣きたくないのに、
涙がこぼれる。
包帯を目に当てる。
(先生は、ずるい。)
帰り際も、
またねとも、
さようならも何もなくて、
本当いつも通りだった。
(疲れた。)
部屋に入って真っ先にそう思った。
(もう嫌。)
あんな嘘つき。
(うんざり。)
煮え切らなくてバカみたい。
(呆れた。)
私って本当しょうもない。
(でも、大好きだった。)
嗚咽しても、
先生はいなくて、
でも、いても、
優しく背中をさすってくれたんだろうか?
意外と、おろおろして、
泣きたいのは、
僕だよなんて言いだしかねない、
今日のあの情けない先生を見てしまったから。
止めることにした。
アプリも、
先生のことも。
悔いはなかった。
好きだから会いたいけど、
先生は私のことをちっとも考えてくれないのだから。
無駄なことに思えた。
そんな時だった。
消したはずのアプリから最後の1通を受信したのは。
こんにちわ。
プロフィール見ました!
良かったら、
今度お食事でもいかがですか?
なんてことない、
普通のメールだ。
新しい出会いで、
先生のことを忘れたい。
そんな邪な想いがいけなかったのかな ?
居酒屋で会えば、
彼は先生と違って正直に私にこう言った。
「実は俺、結婚してて。
ダメですか?」
良いも悪いもあるものか。
心ではなく、
あの時切った手首がなぜか痛んだ。
あまりの素直さに、
今度は私が先生みたいに、
うすら笑ってしまった。
最初はふざけて呼んでみた。
次はからかいをこめて呼んでみた。
先生、先生、先生。
何度呼んだことでしょう。
その度に、「なんだい?」と困ったように伏し目がちに毎回返事をしてくれた、優しい先生。
それが、私の好きな人でした。
ただ毎日なんとなく、そうなんとなく日々を過ごすことに、
飽きが見えた。
いつまで続くの?
まだ続くの?
終わりはあるの?
変わる?変わらない?
単調な毎日は日に日に自問自答の時間を長くした。
心をときめかせた最後はいつ?
覚えてる?
思い出せる?
それとも、そんな経験、私は一度だってしたことない ?
軽い気持ちだった。としか言えない。
ただなんとく。
恋活とか婚活とか、そんな類のあれで。
流れる検索表示に適当に流れのままに、自然に指を動かしていた。
何も考えないで普通に、ダウンロードしたのがきっかけでした。
出会い系とか、何年前の言葉?最早、死語なんじゃないかとさえ思った。
不倫?片思い?は?なにそれ。美味しいのっていうか、そもそも味なんてあるの?
馬鹿みたい、くだらない、自分には無関係な出来事さえ思ってた。
(私は、思ってばっかだな。)
「こういうアプリは初めてですが、
よろしくおねがいします♪」
最初に発信した言葉はこんな感じだったと思う。
何もかもが全て、普遍的。
超単純。
(こんなんで出会いがあるわけ……?)
半信半疑ともしかしたらという期待の、
妙にドギマギした心拍を感じた。
夜中に何をやっているのかと冷静な自分と、
早く寝よう、どうせ何もないと冷めてる私が居た。
案の定、朝が来て携帯を見ても何も来てなかった。
最早忘れていたと言っても言い、
起きた1秒後までは。
すぐに、もしかしてなんて少しは期待した私が居た、
そんな寝起き。
(やっぱり……。)
2日目は見なかった、アプリを。
3日目は気になって少し眺めた。
4日目は仕事で忙しくて時間がなかった。
5日目はほろよいで見てみた。けど何もなくて、「何?」って感じ。
6日目、7日目、なんて、
時間は平等にあっという間に過ぎていく。
1週間たったけど、
私からアプローチしてないけど、
写真も怖くて載せてないけど、
こんなに、何もないもんなの?
広告のあの文、なに、あれ、嘘?
こんなにたくさんの登録者らしき人の写真はあるのに、
メッセージが1通もこないってありえない。
(全部、サクラなんじゃないの?!)
自棄だったとしか言いようがない。
一人暮らしの部屋で小さい携帯に向かって、
私が出来るのは、
手あたり次第にメッセージを送ることだけだと思った。
もう、正直、誰でもいい。
誰か一人でもいい。
私に返信してほしい。
(私を必要としてほしい……。)
自棄だったとはいえ、
朝目が覚めるとさすがに緊張した。
返事は、何通来てる?
そもそも、何かアクションはあるの……?
朝から仕事なのに、
なんでこんなアプリに気持ちを動かされなくちゃいけないの?
5通来てた。
「 良かった 。」
自然と口から零れていた。
年代も様々だ。
40代、30代、20代。
ありがとう、嬉しい。
単純にそう思った。
中でも目に入ったのは、
30代の方眼紙のアイコンの人だった。
昨日の夜にプロフィール見ながら
一生懸命考えてメール打ったから覚えてる。
職業:作家のこの人。
今のご時世、ライターとかもいっぱいいるだろうし、
珍しいことではない。
営業が多い中、なんか目に留まった。
プロフィールも、周りと少しだけ違った。
--------何か一つでも良い事があればいい、あなたにも、わたしにも。
そう書かれていた文に、
キザだなと思った半面、
物が溢れる今の時代に、
何か一つ、
逆に一つだけでも見つけられることが出来たらどんなにいいかと、
夜中の私は考えたのだった。
住んでる所を見ると、
どうやら近くのようだった。
返事がもらえた嬉しさをかみしめていたら
時間がたっていたようで、
返事を打つ間もなく、
出勤しなければいけなくなってしまった。
適当に時間を見つけて返信しよう。なんて思っていたその日に限って、
忙しく、
携帯をチェックする暇すらもなかった。
久しぶりの残業までもあった。
帰り道、やっと携帯をチェックすることが出来た。
丁度その時だった。
--------突然なのですが、今夜お食事でもどうですか?
と、気になる作家さんからメールが来たのには、
驚いた。
丁度、お腹もすいていた。
でも、服は?
何もオシャレしてない。
でも、これを逃していいの?
またいつもと同じなんじゃないの?
頑張れ、私!
--------こんばんわ。良かったらぜひ。
返信したらすぐにメールは帰ってきて、
家の最寄り駅で会うことになった。
最初のメールを受信したときから、
緊張していた。
心臓は妙に脈打っていて、
手は少し震えて、
息も若干荒い……。
(メールした感じだと、穏やかそうな感じしたし。
うん、大丈夫。
大丈夫?!
はぁ、緊張する……っ。)
--------先に着いちゃいました。
改札横の柱の所で待ってます!
急がなくても大丈夫なので。(笑)
(え、もう?!
私あと10分くらいかかるのに?!)
電車に揺られながら焦る気持ちが出てきたが、
最後の一言の、
急がなくても大丈夫なので。という一文に救われた。
初めて会う。
こういうアプリで初めて男の人と、会う。
変に落ち着いていた。
緊張しすぎたのかもしれない。
ふぅーと深呼吸した。
電車のガラスに映る私は妙に楽しそうだ。
でもさすがに、仕事帰りが過ぎる。
一つに束ねていた髪でも解こうか、せめてもの最後の足掻きだ。
早くも遅くもならない、
予定通り、10分後。
私は駅に着いた。
会った事もないけど、
すぐにわかった。
まばらに人は居たけれど、
直感で、彼だ、あの人だと思った。
柱の所に立っていた男性に、
声をかけた。
「 あの 。」
「 ? 佐藤さん?」
「そうですっ。田河さん、ですか?!」
「はい。」
彼は微笑んだ。
(良かった、優しそうだ。)
「お店調べてたんですが、00なんてどうですか?」
「00ですか?!気になってたんです。」
「良かった。じゃぁ、そこに行きましょう。」
「はい。」
私の前を歩く背中にあたふたしながらついていく。
「そういえば、佐藤さんは誰かとこうして会った事あるんですか?」
「ないです!!初めてでっ。」
「そうなんですか?私もですよ。」
彼はそういうと「良かった。」とつぶやき店を目指した。
少し見上げる背丈の彼についていきながら、
私はドキドキしていた。
お店に着くと、
彼は流れるように、
何が食べたいか、
食べれないものはないかなどといい、
私に気を使いながら、
品々を決めていく。
初対面の人とデートなんてしたことない。
いつも、デートする相手は多少は素性を知っているものだったから、
不思議で仕方なかった。
私と彼は、
まだ、名前といっても、
アプリに登録してある苗字しか知らないのだ。
違和感しか感じなかった。
料理を頼み終えて、
待つ間彼は、「突然メールしてすいませんでした。迷惑じゃなかったですか?」と聞いてきた。
「私も、丁度仕事終わりだったので、良かったです。」
「なら良かった。昨日の夜にメール貰って、返事なかったけど、気になって、ね。」
「すいません、返事できてなくて。今日に限って忙しかったんですよ。」
「そういえば、佐藤さんはなんの仕事をしているの?」
「私は、接客です。」
「立ち仕事なの?大変だねぇ。」
「もう、慣れちゃいました。(笑)」
「なにかコツとかあるの?」
「慣れですかね、やっぱり。」
「そうなんだ。」
「田河さんは、作家さんしてるんですよね?」
「そうだよ。」
「どんなお話書いてるんですか?」
「 内緒。」
「え?なんでですか?!」
「もう少し、仲良くなかったら本をプレゼントするよ。」
「えぇ、気になりますっ!」
ふふっと彼は静かに笑った。
来た店はこじんまりした小さい個人経営の居酒屋だった。
焼き鳥、枝豆、出汁巻き卵……。
お酒を飲みながら、
他愛もない話をする。
(こんな感じなんだ。)
男性と2人でお酒を飲むなんて久しぶりなのに、
なぜか彼には緊張しなかった。
1時間はたっただろうか?
酔いも回ってきて、
「先生っ。」と、
ふざけて呼んでみた。
「え?」
彼はそう呼ばれると思わなかったみたいで、
少し驚いていた。
「すいません、酔っちゃって……。」
「大丈夫?お水、貰おうか?」
「大丈夫です!……いや!やっぱりお願いしてもいいですか?」
「もちろん。」
穏やかな川のように話す人だったけれど、
仕事の話だけは職業柄言いたくないのか、
少しだけはぐらかされた。
お会計の時だった。
「いいよ。」と彼は囁くように話し、
私の前に立った。
奢ってくれた。というか、
女の子扱いしてくれた?
少しでも良い所見せようとしてくれた?
ほろ酔いの私は色々自分に都合の良いように考えていた。
お店を出る。
「お会計、ありがとうございましたっ!」
「いいよ、気にしないで。」
(なんて、良い人なんだろう……。)
「駅は、こっちだっただね。」
その一言で、
あぁ、そうか。
もう、お開きかと思った。
帰りたくない、
もう少し一緒に居たいそんな気持ちを
アルコールは背中を押してくれた。
「先生!」
「 ん?」
彼は困った顔ような恥ずかしそうな顔をして
歩いている足を止めて、
後ろを振り返ってくれた。
この時の私には、それだけでとても十分だった。
「先生は、家どこらへんなんですか?」
「 00あたりだよ。」
「近い!」
「そう?(笑)」
「先生はどんなアパートに住んでるの?」
「うーん。
というか、先生と呼ぶの、やめてくれない?」
「何でですか?」
「 恥ずかしいんだよ。」
「先生!先生!!」
「こ、声が大きいっ。」
「ごめんなさい(笑)」
その日のふわふわした出来事を、
私は一生忘れたくない。
何度思いだしても、
こそばゆい、大切な思い出だ。
それから何日かメッセージのやり取りをした。
電話だってした。
関係を持つのは、
当たり前だと思った。
私だって、
彼との未来を望んでいたのだから。
彼と会うのは、
もう何回目だろう?
ふざけて「先生」と呼ぶ度に、
色んな彼の表情を見てきた。
不機嫌な時は本当に嫌そうな顔をしたり、
機嫌が良いときは、本当に嬉しそうに返事をしてくれたこともあった。
あれは、雨の日だった。
ホテルの帰り道、
彼が車で送ってくれた時だった。
彼はおかしなことをいう。
「僕ね、ラジオが嫌いなんだ。」と。
「なんで?」ときいても、
「なんでだろうね?(笑)」と答えてくれなかった。
デートらしいデートが少なくなってきた時だったかな、
そういえば。
彼が会いたいと私にメッセージをくれるなら、
私は大抵は会う為に時間を割いた。
その会いたいが、
ほぼホテルに行くだけでも、
私は別に不満はなかった。
ホテルでだって、
ご飯は食べれる。
お話だって出来る。
何より、
彼に会えて、
彼を誰よりも何よりも1番に感じることができるじゃないか。
好きとか、
付き合って欲しいとか
出会って何ヶ月もたつのに言われなくたって、
私が好きだからいいんだ。
私が酔って
付き合ってるんだよね、私たち?って聞いても、
「ふふ、どうだろうね。」と優しく笑う彼が好きだった。
でも、じゃぁ、私たちの関係って一体なに?
友達?セフレ??
と思うと、不安で胸がいっぱいになった。
誤魔化すように、
沈黙が答えのような気がして、
私は彼といると、
普段の倍喋った。
彼から出会えてよかった。君はとても素敵な友人だよとか言われたらどうしようとか思うと、
口を開かずにはいられなかった。
彼はそんなおしゃべりな私の話を聞いているのか、いないのかわからないけど、
特にうるさいとも何も反応することはなくて、
ただいつも少し遠くを見て、
よくお酒をゆっくり飲んでいた。
泊まってくれる。
夜一緒に居てくれる。
それだけがその時の私には
何よりも嬉しかったの。
話題に困った私は車内の彼の言葉をすっかり忘れて、
ホテルでラジオを流してしまったことがあった。
「 ラジオってさ。」と、彼が話し始めた瞬間に、
遅く、思いだした。
ごめんというには、不自然で。
「声だけなのに、その人の何が分かるんだろうね?
何を伝えたいんだろう。
僕は、苦手だな。
きってもらっても、いいかな?」
静かに話す彼に、
私は何にも言えなくて、
黙って、
BGMチャンネルに変えた。
ラジオじゃなくて、
私の話を聞いてとも、
もっと、あなたの話を聞かせてとも、
まだアルコールの入ってない私には
いう度胸はなかった。
その人に聞く姿勢があるなら、
ラジオでも伝わるし、
聞く耳がなければ、
こんな近くにいるのに、
私の何があなたに伝わるっていうんだろう……。
(好きです……。)
こんなにも、私ばかりがあなたに恋をしてしまったね。
恋人という関係に拘らなければいい。なんて自分を鼓舞した。
そんな日だった。
開き直ったのがいけなかったのかな?
いつものように、抱きしめられた時だった。
首元からいつもと違う香りがした。
そこに香水でもかけられたみたいに。
ネクタイの後ろに隠れて、
主張してくる香りがあった。
「香水変えた?」なんて、
野暮なことは聞かない。
(だって、女ものの匂いがするもん。)
強く抱きしめられる度に、
その匂いが鼻に近づく。
嗅ぎたくない気持ちを取るのか、
彼から離れたくない気持ちを取るのか。
私は、やっぱり、選べない。
好きじゃないから告白しないって思ってた。
違うの?
好きだから会ってくれる。
でも、告白できない訳がある、の?
新しい悩みと出会って、
泣いてしまいそうだけど、
鼻から香る匂いが、
泣かせてくれない……。
ずっともやもやしてた。
あれから何回か会ったけど、
日に日に匂いが強くなってくる気がした。
彼の住む家に、一緒に住んでいる女の人がいる。
その事実に嫉妬してしまいそうだ。
なのに、彼は普段と何も変わらない。
彼は気づいてないのだ。
自分のシャツに香水がかけられていることに。
そのくらい、この香りは彼にとって馴染みのある、
日常だということに、
さらに傷付いた。
私を笑顔で抱きしめてくれるけど、
鼻を擦りあてる度に、
香りの主から「あなたは浮気相手なのよ」と言われている気がして、
へこむ。
(私は、彼の本命じゃない。)
分かってるけど、
なにもそんな夢のない事実を教えてくれなくたっていいじゃないか。
やり切れなくて、
彼の飲んでたお酒を貰った。
「先生?」
「珍しいね、お酒飲むなんて。」
「ねぇ?」
「ん?」
「結婚しよ?」
願望だった。
その香りの女の人とじゃなくて、
私と一緒になろ?
住んでるってことは、
同棲?
まだ籍を入れてない?
もう、結婚しちゃってるの?
先生はやっぱり困ったように笑ってるだけだった。
その薄ら笑いが私は嫌いで好き。
「だめ、ですか?」
「付き合っても、ないよ?」
「いいじゃないですか、順番なんて。」
「そうかな、僕はこだわりが強くてね……。」
「だって、付き合ってないのに、もう何回も寝てる。」
「それを言われると、困るね。」
(また、笑った。)
先生の力ない笑顔を見てると、
私も微笑みたくなる。
「いいでしょ、先生?
私、小説家の嫁になるのが夢だったの!」
「それは、初耳だ(笑)」
「今、見つけたもの(笑)」
「じゃぁ、結婚しよっか(笑)」
「うん。」
私がふざけて先生って呼ぶ分、
彼はふざけて結婚しようっていうの。
先にふざけた私が悪かったのかな……?
それから会うたびに、
結婚しようって言えば、
いいよって言ってくれるけど、
関係は特に変わらなかった。
ただ、香りだけが濃くなっていった。
その日は、雨だった。
部屋で彼は先に待っていた。
「ごめんなさい、電車に乗り遅れちゃって。」
もうこのホテルに来るのは何回目だろうか。
彼は思いつめたようにベッドに腰かけていた。
「 どうしたの?具合悪いの?顔、真っ白だよ?」
心配で駆け寄った。
「……。」
「な、なに?」
彼は小声で「奥さんにバレたんだ。」といった。
「え?」
「どうしよう。」
どうしよう。としか言わない彼のみすぼらしい姿、
私は忘れない。
「結婚してた、んだ?」
体が震えた。
女の人が居るのは知ってたけど、
既婚者だったのかとはっきりわかると、
胸が苦しくなった。
「 あ、ごめんね。黙ってて。」
あって。
私ってあ、ごめんねって言う位軽い認識だったの。
そんなに奥さんのことが大事なのに、
なんで浮気なんてするの?
「なんで、アプリしてんの?」
私だって、聞きたいこといっぱいあるのに。
彼には眼中にないみたいだ。
酷く悲しい。
「なんで……。
小説に行き詰まちゃって。
僕なんて才能ないのに。
そうだ、君に本をあげるって約束してたよね。
恥ずかしいんだよ。僕は。
だから!君がふざけて僕のことを先生って呼ぶ日は、びくびくしちゃって。
やめてくれって言ったじゃないか……。
って、言ってないかもしれないね。
君に嫌われたくなくて、言えなかったんだよ、ずっと。」
(なにそれ。
辞めてって言えば呼ばなかったよ、多分。
呼ばなきゃ、もっとちゃんと考えてくれたの、私のこと?)
ふざけて呼んでた「先生」という言葉が、
無意識にも彼に罪悪感を与えていたと思ったら、
私は自ら彼に抱き付いた。
雨で流れたのか、
久しぶりに彼の匂いを嗅いだ。
「ごめんなさい。」
「君が謝ることはない。
僕が悪いんだ。
ごめんね。」
彼はそういって私の頭を撫でてくれた。
2人で抱き合ったまま寝ころぶ。
(ずっと一緒に居れたらいいのに。)
私がそう思った時だった。
「離れたくない。」
彼が初めて私を求めてくれた。
その一言がどんなに嬉しかったことか。
彼の顔にシーツをかぶせた。
彼は少し驚いて、
すぐに受け入れてくれた。
(一緒になろう?)
私にもシーツをかぶせて……?
彼は突然起き上がり、
私を風呂場に連れて行った。
「一緒にはいろう?」
彼の手には鞄から出したカッターナイフがあった。
「うん。」
湯船にお湯をためて、
ジャグジーをつけて。
照明も消して。
結婚指輪の交換はできなかったけれど、
あの世に一緒にいけるなら別にいいかなとか思って。
お互いの腕を切りあった。
初めて一緒にお風呂に入った。
手首から赤い血が流れていく。
痛いとか怖いとか恥ずかしいとか嬉しいとか虚しいとか、
全部、排水溝に流れちゃえと思って。
「綺麗。」
そう彼に寄りかかって目をつぶった。
目が覚めたら、
ベッドに居た。
手首には包帯が巻いてあって、
彼は一人静かに椅子に座って、
タバコを燻らせていた。
裸にバスローブで、
手首に包帯って、
私は何をやっているんだ。
という、想いがふいに溢れた。
彼の手首にも、
包帯が巻いてある。
お揃いが手首の傷と包帯って、
バカげてる。
目が覚めた私は、
彼からも目が覚めたようだ。
だって、
カッターも包帯も、
準備が良すぎる。
なにより、
彼はあんなことをしたのに、
いつもと変わらないじゃないか。
(慣れてる。)
ふいにそう思った。
浮気するのも、
ばれるのも、
ばれて泣くのも、
手首を切るのも、
死なないのも、
彼は何回経験しているの ?
「 初めてだったから。」
「ん?目、覚めたんだね。」
「私は、初めてだったから。切ったの。」
「 あぁ。気にしないで。」
「気にするよ。」
「死ねなかったね。」
「そんな気、ないでしょう、先生は。」
「だから、その呼び方は止めてくれないか?」
「わざと呼んだの。わざと。」
「なんで、そんないじわるをするんだい?」
「先生が、嘘つくからよ。」
「嘘なんて。」
「既婚者だった。死ぬ気なかった。私と結婚なんてする気もない。」
「 すまなかったよ 。」
「謝ればいいと思ってる。」
「 どうしたら、許してくれるんだい?」
(あぁ、私ばっかりが好きだった 。)
先生は、
私に許してもらうつもりなんて1ミリもない。
今、この瞬間、
居心地が悪くなきゃいい、
それだけで、
私に言葉を話す。
(ひどい。)
もう会わない。
会いたい。
会いたくない。
そんな気持ちでぼんやりと彼と
彼から吐き出されるタバコの煙を見ていた。
泣きたくないのに、
涙がこぼれる。
包帯を目に当てる。
(先生は、ずるい。)
帰り際も、
またねとも、
さようならも何もなくて、
本当いつも通りだった。
(疲れた。)
部屋に入って真っ先にそう思った。
(もう嫌。)
あんな嘘つき。
(うんざり。)
煮え切らなくてバカみたい。
(呆れた。)
私って本当しょうもない。
(でも、大好きだった。)
嗚咽しても、
先生はいなくて、
でも、いても、
優しく背中をさすってくれたんだろうか?
意外と、おろおろして、
泣きたいのは、
僕だよなんて言いだしかねない、
今日のあの情けない先生を見てしまったから。
止めることにした。
アプリも、
先生のことも。
悔いはなかった。
好きだから会いたいけど、
先生は私のことをちっとも考えてくれないのだから。
無駄なことに思えた。
そんな時だった。
消したはずのアプリから最後の1通を受信したのは。
こんにちわ。
プロフィール見ました!
良かったら、
今度お食事でもいかがですか?
なんてことない、
普通のメールだ。
新しい出会いで、
先生のことを忘れたい。
そんな邪な想いがいけなかったのかな ?
居酒屋で会えば、
彼は先生と違って正直に私にこう言った。
「実は俺、結婚してて。
ダメですか?」
良いも悪いもあるものか。
心ではなく、
あの時切った手首がなぜか痛んだ。
あまりの素直さに、
今度は私が先生みたいに、
うすら笑ってしまった。
0
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