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5月 1

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 品川で蓉子と話した1時間半は、暁斗の気持ちをかなり晴れやかなものにした。自分の性的指向をカミングアウトする相手として元妻はどうかとも思うが、いつも客観的で心の広い蓉子は、暁斗にとってそうするのにベストな相手だった。しかし暁斗は、奏人と何処で出会ったのか、本当の話をすることだけはできなかった。自分は風俗業についている人間に対しても偏見がある、そう認めざるを得ない。
 新入社員たちは各課の体験的研修を終えて、配属を決めるための最終研修に入った。営業1課には、フレッシュな風が吹き荒れた後の静けさに、ほっとすること半分、寂しく感じること半分の空気が流れている。
 様々なことに一息ついた暁斗は、ゴールデンウィークが明けてすぐに体調が良くない兆候を自分の喉の違和感でとらえた。実家の両親と晴夏を、蓉子お勧めの熱海の温泉旅館に連れて行ってやったのだが、久しぶりの家族旅行に3人がはしゃぎ過ぎるので、暁斗のほうが疲れてしまったのである。

「熱海で実家サービスですか? いいですねぇ」

 休み明けにお土産を渡すと、平岡は本当に羨ましそうに言った。

「ディズニーランドに行ってきたんだろう?」
「わかってたけどクッソ混みでした、疲れに行ったみたいでしたよ」

 暁斗は彼女が暇さえあればテーマパークに足を運んでいるのを知っている。暁斗も何度か付き合いで行ったことはあるが、混雑していると分かっている時期に行く者の気が知れない。
 ロッカーの前のテーブルには、課の人間がそれぞれ長期休暇中に訪れた地のお土産が積んであった。今日の昼休みと午後の茶の時間に、振舞われる予定だ。本日ここに来た取引先の担当者は、おこぼれに預かることができる。
 奏人の夜の仕事は、ゴールデンウィークも休みは無い様子だった。ディレット・マルティールのスタッフは、21歳の現役の大学生が一番若く、暁斗と同世代の者まで年齢層が広いが、奏人の話から察するに、どうもほとんどが兼業らしい。そのためか、スタッフ自身が特別に客に許可した場合を除き、日曜は全員が休みだった。祝日はその限りではなく、奏人を含めたほとんどのスタッフが、カレンダーに出勤の緑色を入れていた。
 平日の夜よりも、土曜や休日にゆっくりスタッフと楽しみたいと考える客も多いのだろう、奏人のゴールデンウィークのカレンダーは昼間から予約で一杯だった。1人1時間なら1日に最高4人。暁斗は奏人を思うと、ほとんど苦悩に近いようなものに締めつけられた。あの華奢な身体を痛めつけるかのように、何故そんなに客に奉仕するのか。お金なんて別にいいのだと言わなかったか。あんな刹那せつなの、すぐにでも忘れ去られる関係に何を求めているのか。

「課長、コーヒー……どうかしました?」

 暁斗のマグカップを盆に載せて来た平岡は、ぼんやりしている彼に心配そうな視線を送ってきていた。ごめん、ありがとうと無理に笑顔をつくる。喉が痛い、昼休みにうがい薬とのど飴を手に入れなくては。




 社員食堂で久しぶりに1人で静かに昼食を取ってから、暁斗は会社のビルに一番近いドラッグストアに向かった。風邪薬も切らしていた気がしたので、ついでに買っておく。
 まだ時間があったので、東京駅の構内にある一番大きな書店を覗きたくなった。奏人の「大切なひと」西澤をモデルとした人物が登場する小説があるという情報を得たからだった。
 西澤遥一、東京出身、フランス文学者。旧帝大の国立大学を卒業後、パリに留学し、博士号を取得。ヨーロッパ中を遊学ののち帰国し、教壇に立つかたわら著書・論文・翻訳多数、専攻はフランスの古典文学だが、ロマンス語圏のあらゆる学問に精通していた。同性愛者であることは、30代から公表している。国立大学で学生たちを厳しく指導したが、カルチャーセンターで知的好奇心を持て余す老人にも分け隔てなく教え、良くも悪くも仕事を選ばない人だと言われた。ディレッタントと批判する者も多かったが、常にさらりと受け流した。奏人と同類――何もかもを最高レベルでこなす化け物。暁斗はこの人物に興味を持っていた。
 果たして入った書店の奥には、マニアックな店員がいるのか、「追悼・西澤遥一先生」という小さなコーナーができていた。題名だけで難解だとすぐわかる本ばかり(きっと奏人にはそうではないのだろうが)で、暁斗に読めそうなのは、『フランス・イタリア文学入門』というタイトルの新書くらいである。そばにいた、暁斗より少し若く見える店員に声をかけてみる。

「この西澤先生がモデルになった人が出てくる小説があるって聞いて探してるんですけど」
「あ、これです」

 店員はコーナーの隅に積んである本を一冊取り上げ、大切そうに暁斗に手渡した。意外な内容だった。太平洋戦争時に、学徒兵として出征し亡くなった在日朝鮮人の物語である。

「4年前の直木賞の候補作のうちのひとつでした、作者は研究者でこれ以降小説は書いていないと思います……僕はこの本とても好きなんですけど、時代考証も正確で」
「この時代だと先生はまだ少年ですよね?」
「ええ、主人公は同性愛者で……彼が愛した美少年が若き西澤遥一がモデルだということです、ご本人も認めてらして作者に資料を提供されたそうです」

 暁斗は仕事の性格上、話題になった本や漫画にはひと通り目を通している。しかし直木賞の受賞作はさておき、候補作までは網羅もうらしていない。こんな作品があったことも知らなかった。

「今日来てくださって良かったです、このコーナーは明日の昼には引く予定ですから」

 暁斗は店員に礼を言い、『フランス・イタリア文学入門』と一緒にその本を買った。



 3日後の夜、暁斗は冷蔵庫から缶ビールを取り出したものの、風邪薬が効かなくなりそうな気がしたことと、本の中身がとてもではないが酒のアテにならないので、元あった冷蔵庫の扉の内側に戻した。代わりに買ったばかりのアイスコーヒーのペットボトルを開けて、グラスに注ぐ。
 暁斗の体調はじわじわと悪化していた。仕事が忙しい。営業課で風邪が流行り始め、課のメンバーが順番に休むようなことになっている。彼らに代わり、暁斗も外回りに出るのだが、やたらに気温と湿度の高い日があることが、暑さに慣れない身体に負担をかけていた。軽く咳き込みながら、リビングで本を開く。夜はまだ窓を開ければ十分涼しかった。
 若き西澤遥一がモデルの美少年が登場するその本は、ダブルマイノリティ――在日外国人であり同性愛者である主人公の悲劇的な生涯を、淡々とした筆致で描写していた。作者は在日外国人史の研究者であるらしい。そのせいか、大げさな表現や煽情せんじょう的な描写が少なく、暁斗には読みやすく思えたが、面白くないと感じる読者もいるかも知れなかった。
 主人公は、大阪の旧制中学ではそんなに感じなかった差別的な視線に、進学のために希望に満ちてやってきた東京で激しくさらされる。優秀な彼を妬む日本人のエリート層の学生たちの低劣ないじめ、公的機関の職員たちの冷淡な対応。その不条理から逃れるように、彼は休日に図書館や映画館に通う。そこで出会う人々との交流に安堵するも、彼の大学は文系学生の学徒出陣を決めてしまう……。
 主人公が図書館で知り合った12歳の美少年は、主人公がフランス文学を専攻していると聞き、フランス語を教えて欲しいと言い出す。自分の本当の名はキムなのだと意を決して告白しても、その意味が分からない筈がない(彼は利発で主人公をその知性で翻弄するのだ)のに、そうなの、と軽く受け流す。その後も彼はにこにこしながら主人公をカナさん、と呼んでついて回り、自分の大学生の従兄が主人公をいじめている連中の一人だと知ると、従兄を激しく糾弾して騒ぎを起こす。主人公は少年に心惹かれる自分を認めつつも、ある日、私にくっついていると君まで白い目で見られる、とたしなめる。すると彼はあっさり言い放つ。誰と会って話をするかは僕が決めます、僕はあなたを選ぶ、それだけです。
 暁斗はこの、抑えた筆致からも匂う蠱惑こわくまとう美少年に、奏人の姿を確かに見た。これは奏人だ。しかしこの少年が、主人公をカナさんと呼んでいるのも暁斗には引っかかった。西澤遥一はこの少年のモデルが自分であることを認めていたという。では奏人は、西澤にとって……自分自身でもあり、少年時代に愛し戦火に散った恋人でもあったというのだろうか。
 暁斗は章の区切りでしおりを挟んだ。何となく気分が悪くなってきた。西澤は複雑な感情を奏人に対して持ち続けていて、奏人はそれを知った上で西澤を受け入れていた。……確信めいたものが、暁斗の胸の内に湧いた。西澤は奏人を自分から解放してやりたいと考え、死期を悟ってからあの仕事を辞めろと奏人に言ったのではないのか……。
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