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6月 1

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 雨の多い季節の訪れは、営業マンにとってこれから数ヶ月、外回りが辛い日々がやってくることを意味していた。そんな中で暁斗は、奏人のディレット・マルティールのアドレスからのメールで、自分の誕生日が来たことを知らされた。
 あまり誕生日を大げさに祝うことをしない家庭に育ったせいか、暁斗は自分の誕生日をほぼ毎年失念している。奏人からのメールには、祝いの言葉と、これからのますますの活躍を祈るといったことに、あなたとのご縁が長く続きますように、と添えてある。宇野から半笑いでスマートフォンを見つめているのを突っ込まれたが、誕生日アピールをしてしまうことになるため、適当にごまかした。

 暁斗がロビーで倒れて医務室に運び込まれた話は、しばらく営業課の話のネタになった。体調が悪い時は無理せず休むように、と会社全体で訓示まで出てしまい、暁斗は若干肩身が狭かった。しかし暁斗が有休を使い療養した2日間に、人生最大レベルに幸福な時間を過ごしていたことを知る者はいない。
 暁斗はあの翌朝の、奏人のき物が落ちたような清冽せいれつな表情を忘れることができない。別にあの夜、これまでになく激しく求め合った訳でもないのに、目覚めた奏人は初夜を過ごした処女のように、暁斗に対して恥じらうようなはにかみ笑いを見せた(暁斗はそれを見て悶死しそうになった)。そして朝日に髪を透かせながら、澄んだ目で暁斗を見つめた。そこにいたのは何かとても神聖な生き物のように、暁斗には思えた。
 奏人は自分のお泊まりセットを置いて、暁斗の部屋のスペアキーを持って帰ったが、あの日以来部屋には来ていない。奏人が仕事を減らしているため、指名もなかなか出来ずにいた。ただ、LINEでのやり取りが激増したため、お互いがどう過ごしているかは何となく把握している。
 奏人としっかり気持ちを通わせたことは、暁斗にも微妙な変化をもたらしていた。営業1課が関係の絶えていた会社との取り引きの再開にこぎ着けたり、営業2課が諦めていた案件を軌道に乗せることに成功したりしたのは、暁斗が粘り、細やかな配慮をしたからだった。暁斗は部下たちが頑張ってくれたからだと考えていた。だが、麻疹で寝込んでから桂山課長は悟りを開いたらしいと一部で噂になっていることを、暁斗自身は知らなかった。



 雨の中みんなが外出し、課内にぽつりぽつりとしか人がいない中、部屋にやって来たのは営業部と企画部を統括する、きし圭輔けいすけだった。暁斗のかつての直属の上司である。

「桂山、ちょい顔貸して」
「今ですか?」

 その場にいた全員が、アポ無しで訪れた統括部長――もうすぐ専務になろうかと噂される人物が現れたのに驚いたが、暁斗に対する妙な気安さを見て、1課に配属されたての新入社員たちがあ然とする。

「課長は新入社員の頃あの人の部下だったのよ」
「へぇ……」

 和束がわざわざ説明するのに苦笑しながら、暁斗は部屋を出て、岸についてエレベーターに乗る。向かった先は人事部のフロアで、暁斗はさすがに岸に尋ねた。

「何のお話ですか、人事がらみなんて」

 暁斗の頭に咄嗟とっさに浮かんだのは、自分が同性愛者で、専用のデリヘルを使っていることがバレたのではないかということだった。しかし暁斗は、それがどうしたのだと考え直した。男が好きだということも、風俗店の世話になっているということも、個人の自由で、会社に迷惑はかけていない。暁斗は奏人と関わるうちに自分の性的指向を認め、マイノリティであることへの引け目を、自分でも気づかない間に消化し始めていたのである。

「暁斗に噛んで欲しい案件がある」

 岸は昔のように、暁斗を下の名前で呼んだ。少し気が緩む。暁斗はこの人を尊敬しているし、こうして今でも気安く呼んでくれることは嬉しい。
 人事部の女子社員が小さな会議室の厚い扉を開けると、先に人事部長と企画1課の山中が座っていた。暁斗はぎょっとする。本当にゲイの弾劾だんがい会議なのではないか?

「忙しいのに呼びつけて申し訳ないね、まあ楽にして」

 人事部長の西山は笑顔で言ったが、人事にアポ無しで呼び出されて楽に出来る訳がない。山中はちらりと暁斗に微笑を送ってきて、緊張感は無い様子である。

「我が社でも性的マイノリティの社員に対する配慮を積極的にしていきたいと考えていてね」

 西山は前置き無しに切り出した。

「山中君は早くから同性愛者であることをオープンにしているが、彼のようにしたくてもできない社員が沢山いると思うわけだ」

 西山の言葉を岸が引き継ぐ。

「これまで優秀な社員がちょっとはっきりしない理由で退職することがあった、精査した中にそれを理由に社内で差別的な扱いを受けていた可能性がある人がいるとわかった」

 暁斗にはその気の毒な退職者に心当たりが無かったが、そんなことはあるべきでないと感じた。そして自分がまさしく当事者であることを、この場の議題に挙げられる訳ではなさそうだと考え、やはり胸をなで下ろす。

「最近ではかなりましになりましたが私もいろいろ言われました、取引先の人にからかわれるのはまだしも、同じ社の人間に……例えば気持ち悪がられるなどというのは結構こたえます」

 山中は言った。いつになく淡々とした調子だったが、達観した風情さえある。西山が続ける。

「優秀な社員が個人の自由に関することをとやかく言われて居づらくなるのは会社の損失だ、各種ハラスメントと同様しっかり対応すべき問題だろう……そこで各課の課長クラスから研修を始めて、近々社内で相談室のような組織を作れないかという話になってきている」
「2人には先陣を切って欲しくてね」

 岸は楽しそうに暁斗のほうを見た。

「山中君は当事者だ、桂山君は社内外ともに関係者からの信頼が厚い……それに身内に性的マイノリティがいると聞いた」
 暁斗は山中をちらりと見た。余計なことを言ってくれた。山中は暁斗と目が合うと、顔の前で右手を立てて謝罪の仕草をした。
「まあ山中君が桂山君の身内の話を我々にするのも、好ましくない行為ということになるかな」
「申し訳ありません、岸部長が誰とならうまくやれそうだとお尋ねになるので」

 西山の指摘に、山中は素直に謝る。山中がこの「プロジェクト」に自分を指名したということか。暁斗はどうも落ち着かない。

「桂山君はどうかな? 強制はしない、忙しい君には負担が増えることになるからね……君は多様性を認める懐の広さがあるし、君のような人物が参加してくれると心強い」
「私を買ってくださるのは嬉しいですが」

 暁斗がこの話を断る理由は無かった。性的マイノリティだけでなく、いろいろなマイノリティを認め受け入れる会社、ひいては社会は、マジョリティにとっても生きやすいと思うからだ。ただ、当事者であることを隠しながらでは、精神的にきつくなる予感がする。

「何か疑問や不安があるなら言ってくれるといい」
「いえ……少し荷が重いかなと」

 暁斗の言葉に岸が小さく笑う。

「荷が重いくらいのほうが君のやる気が出るんじゃないかな」
「やめてくださいよ、そうして私の寿命を少しずつ縮めていらっしゃったんですから」

 暁斗はつい岸に対して軽口になった。久しぶりに話したことや、褒めてもらえたことが素直に嬉しかったからだった。
 結局ほぼ承認させられたような形になり、やや困惑気味に人事部を後にした。岸は暁斗に、若い子を連れてみんなで飲みに行こうと言ってくれた。
 岸が先にエレベーターを降り、山中と二人残される。

「飲みに行かね?」

 山中は会議室とはうらはらな軽い口調で言った。

「今日ですか?」
「うん、早いうちに……これたぶん俺ら二人で好きにできそうだろ、意思疎通そつうしとこうや」
 山中は楽しげだった。岸に誘われるほど嬉しくはないが、プライベートでは随分一緒に飲み食いしていないし、まあいいかと暁斗は考える。

「じゃ今日でもいいですよ、たかふみ君と約束は無いんですか?」

 暁斗の嫌味に山中は笑った。

「おまえ良く覚えてるよな、あの子就活始まって俺より忙しいんだよね」
「名刺に書いてあることは脳みそに記録するのが習慣づいてますからね、……大学生なんですか」

 知っていたが突っ込んでおく。

「かなと君はどうよ? ほっといてくれってあの可愛い顔で怒った?」

 山中は反応せず、暁斗に逆に突っ込んでくる。話題選びを誤ったと思った。

「……何も言ってないです、あちらも大人なんだし」
「遠縁だと言いにくいかな、でもあの子はおまえのことしたってる感あるんだろ?」

 どうもやりにくい。奏人の話をするだけで落ち着かないのだ。慕われているんだろうな、早く会いたい、と今関係ない思念が脳内に横入りしてくる。

「何? おまえが何でそんな困るわけ?」

 エレベーターのドアが開いた。暁斗は先に出て急ぐふりをして、振り返る。

「7時でいいですか?」
「ああ、やばそうならメールするわ」

 山中はエレベーターの前で笑顔で手を振っていた。食えない人だ。暁斗は今晩約束したことを少し後悔した。

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