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6月 2

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 雨は弱く降り続いていた。山中は19時きっかりに1階に降りて来て、雨は嫌だなぁとぼやきながら大きな傘を開く。暁斗もそれに続く。

「俺この季節になったらほんと営業でなくて良かったと思う」
「企画だって外出するじゃないですか」

 暁斗は道行く人に傘を当てないように気をつけて歩く。雨の日は、昼間に外回りに出るよりも、出勤や帰宅時間のほうが気を遣う。
 山中が選んだのは、東京駅とは反対方向のいくつかの通りを超えた、脇道にある店だった。間口からは想像できない広い店内は、全席が半個室になっていた。
 店員に案内された席に座る。ビールとアテをいくつか頼み、改めてメニューを検分する。グルメな山中が選んだ店なので味は間違いないだろうと暁斗は思う。しかも安い。

「で……あれはどういうイメージでやりたいと思ってるんですか?」
「桂山課長、いきなり仕事の話とか色気無いですよ」
「山中課長と色気のある話なんかしたくないです」

 店員がビールと枝豆を持ってくる。とりあえず乾杯した。よく考えると、寝込んだ時以来初めてのビールだった。美味しい。

「真面目に機能させたいよ、ハラスメント相談室もまともに動いてないのにどうかと思ってるけど……この機会にそういうのを社員の福利厚生として固めたいな」

 山中は色気無く本題に入った。暁斗は本音を口にする。

「人事は本気なんですかね? フォローしてもらえない外向けパフォーマンスに割く時間無いんで」
「おまえきっついなぁ、きっしゃんが噛んでくれてる以上はハコモノでは終わらないと思うんだがな」

 きっしゃんとは岸部長のことである。暁斗は頷く。
 続く山中の話を聞くと、彼は当事者として自分が何ができるのかを考え、彼らしく図面を描いていた。性的マイノリティのための講演や相談会にもおもむき、知識や情報を集めているという。

「マジでやってるんじゃないですか、俺はせいぜいこんな風に飲みながら話聞くくらいしか出来ないですよ、たぶん」

 暁斗は驚き、やや腰が引けて、つい言った。

「うん、それでいいよ」
「話を聞くだけで?」
「そうさ、話を聞いてくれる相手が欲しいんだから……異性愛者でも理解を示してくれる相手な、アライって言うんだけど」

 焼き鳥とサラダがやってきた。空腹には嬉しい匂いが鼻をくすぐる。暁斗は早速焼き鳥を串から外しながら、取り分け皿に盛りつけた。奏人の真似をして、手を合わせていただきます、と呟く。

「いつも思うけどおまえって何でも美味そうに食うよな、見てて気持ちいいわ」

 山中は半ば呆れたように言った。だって美味しいですよ、と暁斗はサラダをトングで分けながら応じた。何作っても嬉しそうだし、という奏人の言葉を思い出して、無意識に頰が緩んだ。

「桂山さん、何にやけてらっしゃるんですか?」
「え? あ……いや、何を作っても喜んでくれるって言われたのを思い出して」

 暁斗は言ってから、口が滑ったと思った。ビールが美味しくて飲むペースが速かった。

「何おまえ、飯作ってくれる女できたの?」
「あー……」

 女じゃないなと冷静に考えた。その時、木のテーブルの上でスマートフォンが震える耳障りな音がした。二人は社畜らしく、仕事用とプライベート用の2台ずつのスマートフォンをテーブルの上に出していたが、震えたのは暁斗のプライベートのものだった。

「お誕生日おめでとうございます! 今日は無理ですけど明日ケーキを買って持って……」

 LINEのメッセージが途中まで表示されていた。奏人からだった。嬉しくなったが、今はそれを出すべきでない。暁斗は山中からスマートフォンの画面が見えないように、角度を変える。

「あらあら桂山さん、どちら様からですか?」

 山中は暁斗のわずかな狼狽ろうばいを見過ごさなかった。半笑いでスマートフォンを覗こうとする。暁斗は焦った。

「いや俺のプライベートはいいじゃないすか、俺だっていろいろありますから」
「もう離婚して5年だもんな、そりゃいろいろあるわ、でも蓉子ちゃん以上の女はなかなかいないんじゃなかったのか?」
「そうですよ、蓉子以上の女は今だっていないですよ」

 山中は眉をひそめた。暁斗は酒無いすよ、と彼の気をらせるためにメニューを取り上げて、その中に書かれているサービスに目をつけた。
 そこには誕生月のお客様にプレゼント、とでかでかと書かれていた。誕生月を迎える本人と連れ3人まで、無料ドリンクサービスがあるらしい。

「山中さん、これ好きなもの頼んでください、俺当てはまります」

 給料日直前の平日とあって店は割に空いており、店員がすぐやって来る。店員は暁斗の免許証を見て、今日じゃないですか、と高い声になり、おめでとうございます、とやけに明るく言ってくれた。

「そうなの? 何で黙ってるんだよ」

 山中まで高い声になる。彼は誕生月サービスリストからハウスワインの白をデキャンタで頼み、白ワインに合うものをお任せで2品、と慣れた様子で言った。そして暁斗に向き直り、呆れたように言う。

「言えよ、もっといい店でご馳走するのに」
「誕生日アピールなんて微妙でしょ、誕生日が嬉しい年齢でもないし」
「いくつになっても誕生日は誕生日だよ、今誰からか知らないけどお祝いメッセージでも来たんだろ? 返事しとけ」

 暁斗はその言葉に甘えて、奏人に短く礼を述べ、少し迷ってから明日家に来るという話を了解した。最近ダウンロードした、「ぺこり」という文字とともに頭を下げるうさぎのスタンプをつけておく。

「で、誰なんだよ、おまえに飯作ってお祝いを言ってくるのは」

 暁斗は奏人に返事をする間に、アルコールに侵され始めた脳をフル回転させ、言い訳を考えていた。

「ご飯は母親です、最近実家に帰ることが続いたから……今のLINEは蓉子です」
「えっ、より戻したのか?」
「違います、この間品川で少し話しただけですよ、妹がずっと繋がってるんで」

 山中は疑惑をたたえた目で暁斗を見つめた。どうも泥沼化しそうな様相である。調子に乗ってビールを飲んだ暁斗は、ざると名高い山中に対して分が悪かった。

「あのさ、おまえにずっと確認したいことあるんだけど」

 ワインがやってきた。店員は、お誕生日のプレゼントですと言って、イベリコ豚の胡椒焼きにチーズを乗せたおつまみを一緒に出した。

「うわっ、禁断の高カロリー感!」
「そんなことありませんよ、イベリコ豚とオリーブオイルなのでヘルシーです」

 山中は店員と楽しげにやり取りする。暁斗は店員にごちそうさまと言いつつ、気が気でなくなっていた。店員が笑顔で去ると、山中はグラスに冷えたワインをなみなみと注いだ。

「あ、これめちゃ美味い」

 暁斗はイベリコ豚をつまんで呟いた。奏人に食べさせてやりたいなと、この期に及んでこの店に二人で訪れる妄想に没入しそうになりながら、ワイングラスを手にする。

「……おまえほんとは男が好きなんじゃないの?」

 山中の言葉に、暁斗は口に含んだワインを口に含んだまま固まった。3秒の沈黙の後、音を立てて飲み下す。

「桂山くん、いい反応だねぇ」

 山中は苦笑しながら言った。

「おまえが蓉子ちゃんと離婚する前に2人で飲んだよな、あの時かなり飲まさないと話してくれなかったけど、セックスレスだって」

 暁斗は返事が出来ない。とりあえずグラスをテーブルに置き、ひとつ息をついた。

「実はその後俺が蓉子ちゃんの職場の近くに行ったことがあってさ、蓉子ちゃんのほうから声かけてきて……時間作って話したら同じことを言った」

 蓉子が大学の先輩として、結婚式の二次会で知り合って以来山中に気安いことは知っていた。しかしそんな話までしていたとは。暁斗は衝撃を受けた。

「確かにおまえがゲイでも違和感ないんだよ、何かエロ感希薄だし、結構女の子から秋波を送られてるのに新入社員の頃から興味無さげで……俺おまえが結婚するって聞いた時あれっと実は思ったわ」

 山中は最早暁斗に否定の余地も与えなかった。

「自分でも気づかずに蓉子ちゃんと結婚したんだな、離婚してからはっきりしたのか」
「……確信したのは最近です」

 暁斗は諦めて正直に答えた。半ば自棄やけになりワインをあおる。店員が料理を持ってきて、空いた皿を片づけていった。

「同類のにおいがするから昔から気にしてくれてたってことですか?」
「うーん、別にそういう訳じゃない」

 暁斗は右手で顔を覆って天井を仰ぐ。山中は何でそんな絶望モードなんだよ、と笑い混じりに言った。

「もちろん誰にも言わない、蓉子ちゃんにもな……まあ彼女に会うこともないか」
「蓉子は知ってます」

 は⁉ と山中は頓狂とんきょうな声を上げた。暁斗はやけくそになり話す。

「その……俺が相手と一緒にいるのを偶然見かけて……変に思ったらしくて妹に連絡してきたんです、で……吐かされました」
「おまえってほんと嘘つけないよな、ウケるわ……相手ってどういう人?」

 暁斗はさすがに口をつぐんだ。山中にそれを聞き出す権利は無いはずだ。

「……あの子か、かなと」

 山中の潜めた声に暁斗は顔から血が引くのを自覚した。山中は容赦なく続ける。

「ビンゴだな、身内でもないんだ? おかしいと思ってたんだよ! めちゃくちゃ腑に落ちまくり! 」
「そうして俺が真剣に悩んでることを暴き立てて何が面白いんですかっ!」

 暁斗はほとんど楽しげな山中に腹が立ってきて、彼に噛みついた。

「わり、ごめん」

 山中は真面目な顔になりあっさり謝る。拍子抜けして、暁斗はそれ以上言えなくなってしまう。

「てかおまえ……偶然あの子と知り合ったんじゃないよな、いつの間に会員になった?」
「山中さんが嬉しげにたかふみの名刺をひらひらさせてた日ですよ、電話してお悩み相談をしたら来てくれたのが奏人さんだったんです、ええ、親戚でも何でもないです」
「恐るべし、敏腕営業マンの記憶力……何で勝手に電話するんだよ、紹介するって言っただろうが」

 暁斗は愕然がくぜんとした。山中は暁斗にわざとディレット・マルティールの名刺をちらつかせたのだ。暁斗は見事にかかった、ただし山中が思ってもみなかった大胆な方法で。

「しかしあの子って指名するのに金かかるじゃないか」
「別に、給料の許す範囲です……山中さんみたいに着る物や食う物に金かけてませんしね、使うとこ無いですから」

 暁斗は憮然ぶぜんとなって答えた。酔いも手伝って、どうでも良くなってくる。山中が暁斗と奏人の関係に興味津々なのは仕方ないだろうと、妙に冷静に考えてもいた。

「何であの子が会社に来たりおまえに飯作ったりするんだよ」
うらやましいですか? 俺あの子にチョー気に入られてますからね、会社に来た日はガチで落ち込んでましたから慰めたし……こないだ俺が寝込んだ時は看病しに来てくれました」
「開き直るなよ、確かに羨ましいけどそれってスタッフ的にNGなんじゃないのか」
「だったらどうだって言うんですか」

 ワインを自分で注いで飲む暁斗に、山中はあ然となって、言った。

「……お互いマジになってるってことか?」
「ふん、勝ち組でしょう? 10も年下の美形で育ちが良くてほんとに優しい子ですよ」

 暁斗は山中に顔を近づけて、小声で続ける。

「しかもめちゃくちゃテクニシャンです、……羨ましいですよね?」

 山中は暁斗の頭を右手で押しのけた。

「ほんと開き直るとおまえ強いな、羨ましいし結構ムカつく」

 暁斗は声をあげて笑った。そうだ、奏人は自慢の彼氏だ。行く先々に連れて行って、鼻高々に会う人みんなに紹介したい。……それが出来るのであれば。

「誕生日だって祝ってくれますよ、……もういいでしょう、そういうことになってるんです、報告は以上です」

 山中は小さく笑った。馬鹿にしている訳ではなさそうだった。

「うん、おまえがあの子にベタ惚れだってことはよく分かった」

 暁斗は山中の言葉にひとつため息をつき、喋り過ぎたと気づいて気恥ずかしくなった。フライドポテトをひとつつまんで、空になりかけの山中のグラスにワインを注ぐ。

「俺は桂山を応援するし支えたいと思う、ただ男同士女同士に対する世間の目は冷たい、あの子と一緒にやっていくのはいろいろきついぞ……覚悟しとけ」

 山中の言うことは事実なのだろう。別に多くを望んではいない。たまに顔を合わせて、食事をしながら他愛ない会話に興じ、抱き合って眠る。一緒に暮らせたらという思いは、現時点ではあくまでも暁斗の妄想レベルでしかなかった。

「お互いに抱えてる空洞みたいなものを埋め合いたいだけです、少なくとも俺は奏人さんにそうしてもらってるし……俺もあの子にそうしてやりたい」

 暁斗はぽつりと言った。山中は嘘が下手で不器用な後輩を覗きこむ。

「驚いた、本気で惚れてるんだ、そんな顔初めて見るわ……蓉子ちゃんと結婚しようって頃にもそんな良い顔してなかったぞ」
「そうでしょうとも、会社の女子たちも噂してるみたいですからね」

 やけくそモードを鎮めない暁斗に、山中がモテ期かよ、と大仰に言う。

「俺も愛が欲しいっ」

 今度は山中が天井を仰ぐ。何の話をしに来たのだったか、暁斗は酔いの回った頭でさらい直す。少なくとも自分と奏人の話をしに来たのではない。

「それでその相談室だか何だかは気合い入れてやっていいんですね?」

 暁斗はため息混じりに確認する。

「やるぞ、ちゃんとやろう……おまえちょっと自分のスタンスだけ固めとけ」

 山中は気を取り直したように、サラダに入ったオリーブの実を箸でつまんで口に入れた。

「スタンス?」
「カミングアウトするか隠してやってくか」

 暁斗はだし巻き卵に箸をいれる。白ワインにはあまり合わない気もしたが、それそのものは美味である。すぐに返事はできなかった。

「ゆっくり考えろ、ただいつも最悪の事態は想定しとけ」
「最悪の事態?」

 山中の言葉にやや不安が湧く。

「例えばおまえがカミングアウトしたとして……俺らの大学は変な奴ばかり輩出してくるとか言う奴が出てきて、後輩に迷惑がかかる可能性とか」
「はぁ⁉」

 暁斗の叫びに山中が笑うかと思いきや、彼は真剣な表情を崩さない。

「偏見とたたかうというのはそういうことなんだよ、うちの会社のじいさんどもは、同性愛者は変態だって言う奴も多いぞ……それにおまえはかなと君とも話し合わなくちゃいけない」

 奏人は基本的にゲイであることを隠していると話した。バレても構わないというスタンスではあるようだが。

「俺はしばらく様子見をすることを勧める、社内でそういう差別はいけないぞという空気感がもっと醸成じょうせいされて……かなと君がOKするならカムアウト、ってのがスマートじゃないか?」
「はあ……」

 暁斗は白ワインのグラスをゆっくり回しながら頷いた。もう2人もの人間に話したのだから、誰に話しても同じではないかと思い始めていた。そう言うと山中は眉間にしわを寄せた。

「甘いぞ、蓉子ちゃんは寛大な人だし俺は当事者だ、最初にこくる相手としては上出来だがおまえの周りにいる全員が俺たちと同じ反応はしない……試しに実家の家族に話してみろよ」
「……山中さんご家族には話してるんですか?」
「ああ、親父に家の敷居をまたぐなと言われてる」

 そんな、と暁斗は思わず声をあげた。

「姉は割とあっさり受け入れてくれたし、母親は何とか自分を納得させたって去年から連絡をくれるようになったんだ、女性のほうが柔軟で懐が広いって実感したわ」

 暁斗は両親と妹の顔を思い浮かべる。この間、旅館で子どもみたいにはしゃいでお土産を選んでいた母と晴夏、いつもよりビールの量が多くてすっかり酔っ払った父。3人とも、自分がゲイだと話したら、嫌な顔をするのだろうか。弟夫婦や甥っ子たちは? 暁斗は奏人が実家の家族の話をしないことに思い至る。もしかすると、彼の性的指向が原因で、折り合いが悪いのだろうか。
 黙り込んだ暁斗を見て、山中はそう深刻になるな、と優しく声をかける。

「誰が自分にとって大切な人間なのかが明らかになる、意外な人が理解してくれることも沢山あった」
「おかしいじゃないですか、男が好きだというだけでどうしてそんな扱いを受けないといけないんですか」

 そうなんだよなあ、と山中は遠い目になる。

「まあここ数年でだいぶ世間の見方も変わったとは思うけどな、おまえ愛されキャラだから案外うまくやっていけるかも知れないし」

 山中の言葉は全然慰めにならなかったが、奏人の言った通り、このチャラい目の3年上の先輩は、頼りになりそうだった。
 奏人に会い、尋ねたくなった。実家とは行き来があるのか、神崎綾乃や客以外に、自分のことを話せる相手はいるのか……。

「焼酎でも頼むか? 俺おにぎり食べたいけどどうする?」

 山中はメニューに手をのばした。ちゃんぽんはまずい気がしたが、飲む気になってしまっていた。たかふみの話を聞きたいと思った。
 当たり前のことが当たり前に出来ない人たちがいる。その人たちのためのオアシスを作る。喜んで貰えるはずだと飛び込み営業をかける時のように、暁斗はこの「プロジェクト」を山中とプランニングすることに高揚感を覚え始めていた。
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