上 下
24 / 80

6月 3

しおりを挟む
 奏人は約束した19時半きっかりにマンションにやって来た。彼は学生のような軽装で、小さな箱と長細い箱が入った紙袋を持っていた。手一杯で大変そうなので、ドアを開けた暁斗はまずそれを受け取った。

「すみません、強引に押しかけちゃって」

 奏人は脱いだ靴を揃えながら、笑顔で言った。もし夜中に押しかけられたとしても、奏人なら尻尾を振って出迎えるだろうと暁斗は思う。
 暁斗は奏人の顔を見たらまず言いたいことや、たくさん話したいネタを準備していたが、いざ奏人の顔を見ると言葉が飛んでしまい、彼が手を洗いキッチンの椅子に落ち着くまで、まともに口がきけなかった。

「あ、味噌汁作ってくれたんですか?」

 奏人はコンロに乗っている鍋に目をやり、嬉しそうに訊いてきた。

「人の作った味噌汁って興味深いんですよね、その人の食生活の歴史がエッセンスになってるから」

 暁斗はなるほど、と返す。家によって味が違うというのは要するにそういうことなのかと、妙に納得する。
 駅前のスーパーでキャベツの和え物と刺身が目についたので、久しぶりにちらし寿司を作ってみた。炊いたご飯にいわゆる「たね」を混ぜただけのものだったが、ぶ厚めの錦糸卵(これは蓉子が作ってくれたようにはいかなかった)とサーモンやまぐろを乗せてみると、それなりの姿になった。奏人はそれを見て心から感心したように言った。

「桂山さんすごい、女子力高いです」
「それは……褒めてくれてる?」

 賞賛です、と奏人はパックに入ったキャベツを慣れた箸さばきで小鉢に分ける。

「ひな祭りみたい」

 奏人は楽しそうだった。奏人には年子の弟がいて、端午の節句は派手に祝ったが、桃の節句はもちろん無関係な行事だった。そのせいか、一抹の憧れがあったのだという。

「うちは妹がいるからひな飾りもちらし寿司もずっとやってたよ、母と祖母が熱心で」
「いいですよね、華やかで」

 ふと暁斗は、奏人に女性性への傾きがあるのかと思ったが、そうではなく、ただ雛飾りが美しいことに心惹かれるらしい。

「味噌汁は木村家……蓉子の家の味かな、俺結婚するまで家にいたから味噌汁なんて作ったことなかったし」

 暁斗は蓉子の作る具沢山の味噌汁が好きだった。今日はジャガイモと玉ねぎに、少しあげを入れている。

「蓉子さんと交代でご飯作ってたんですか?」
「俺が少し料理を覚えたら即シフトに組み込まれた」

 暁斗は椀に汁をよそいながら答えた。奏人は元妻の名をきれいだと言い、この間は焼きもちを焼くそぶりを見せたのに、会ってみたいと口にしていた。別れた妻と現在の同性の恋人と自分。奇妙な取り合わせだが、別に普通に楽しく話せそうな気もする。
 奏人は今日もきれいな箸づかいで、美味しいと言いながら食べた。今日彼は特別な事情があって来ている訳ではない。ただ、暁斗と共に時間を過ごすために来た。そう思うと、不思議な感じがする。奏人と出会って約半年、月1日しか会っていないのに、どうしてこんなに馴染み、昔から知っているように思うのだろう? 単にそう思いたいだけなのだろうか?

「あ、お酒良かったですか?」

 奏人はちらし寿司を半分ほど食べてから、思い出したように言った。ビールや缶チューハイを冷蔵庫に冷やしてあったのである。

「昨日散々飲んだから俺はいいよ、あなたの好きなものを選んで」
「そうでしたか、お祝いで?」
「いや、仕事の話で……シュッとした先輩と」

 奏人はふうん、と興味を惹かれた表情になった。山中穂積は、自分のことを関西風にスマートだと奏人が言っていたということを聞くと、何故かご満悦な顔になった。

「何か出すよ、言って……実は職場で性的マイノリティを支援するための組織を作る話が出ていて」

 奏人は梅酒のソーダ割りを選んだ。缶が開く高らかな音がダイニングに響く。

「それを桂山さんと山中さん……でしたよね、二人でたたき台を作ると?」
「まあそうなんだけど……」

 どうしても歯切れが悪くなった。奏人が黙ってキャベツを噛む音が微かにする。続きをうながしているのだ。

「山中さんにいろいろバレちゃって」
「……そうかと思いました、でも信頼できる人に知っておいてもらうことは自分の気持ちを楽にします、いいと思いますよ」

 奏人は静かに言った。

「奏人さんは職場では隠してるんだよね? ……家族はどう?」
「同部署の何人かは知ってます、桂山さんが言ったような組織も社内に一応あるので風通しは悪くないかな」

 奏人の会社のほうが進んでいるらしい。

「家族も知ってます、まあはっきり言って僕のせいでぎくしゃくしてます」
「……そうなんだ」

 奏人は暁斗を澄んだ目で――暁斗は彼がこんなきれいな瞳をしていることをこの間まで知らなかった――見つめた。

「桂山さんがそんな悲しそうな顔をしなくていいですよ」

 暁斗はその言葉にぎくりとする。今自分は、この強くて時にもろい青年に憐れみを覚えたが、それは彼に対してひどく失礼だったのではないかと感じた。

「正確には僕がゲイだということよりも……」

 奏人は梅酒の缶をあっという間に空けていて、両手でもてあそんでいた。

「高校生の時一年上の先輩に怪我をさせたからなんですけど」
「えっ」

 暁斗は驚きを禁じ得なかった。この華奢で優しい青年に最もふさわしくない罪……上級生を暴力でもって傷つけた……家族の関係が悪くなるくらいだということは、かすり傷ではなかったのだろう。何があったのだろうか。
 奏人はふいと俯いた。少し上目遣いになり、暁斗の反応を探っている。ためらいがちに口を開きかけた彼を制した。

「無理に話さなくていい、気にならない訳じゃないけど……話したいとあなたが思った時に聞く」
「……桂山さんは優しい」

 奏人は困ったような顔になり、首を少し傾ける。可愛らしい仕草だったが、何処か寂しげだった。

「その言葉に甘えます」
「うん、そうして」
「桂山さんたぶん相談室員向いてますよ」

 奏人は言うが、彼が相手だからこそだ。会社の顔も知らない相手だったら、同じような気持ちで接することができるとは、暁斗には思えなかった。
 気を取り直したように、奏人は紅茶を淹れてケーキを用意してくれた。箱の中には、白と赤の小振りのケーキが一つずつと、プリンが2個入っていた。

「プリンは明日の朝食べましょう、どっちがいいですか?」

 暁斗は奏人が皿の上に出したケーキを見比べる。

「フランボワーズとショコラブラン……木苺系とホワイトチョコです」

 昨夜の山中の、禁断の高カロリー感という言葉が頭に浮かぶ。「禁断」とはよく言ったもので、食欲をかなりそそる容姿なのだ。なかなか決められない暁斗に奏人はぷっと笑う。

「じゃ半分こしましょう」
「うん、ごめん」

 奏人は2つのケーキに順番にナイフを入れた。そして大変なことのように言った。

「あっ、ろうそくつけてもらうの忘れた」
「いいよ、そこまでしなくても」

 暁斗は笑った。昨日は山中が結局ごちそうしてくれて、今日は奏人か来てくれた。こんな楽しい誕生日は久しぶりだ。ケーキは甘過ぎず、もし鼻が詰まっていたら感じ取れなさそうな仄かなブランデーの香りが、上品だった。奏人のマンションの近くで、奏人が言うには、夫婦でひっそりと営業している、知る人ぞ知る洋菓子店のケーキらしい。

「僕勝手に桂山さんが甘いもの割と好きだって決めつけてて、ケーキ買ってからこれはちょっと、って言われたらどうしようかと……」

 奏人の言葉に暁斗は笑った。

「営業始めてそれまで食べたことなかったものデビューをめちゃくちゃしたんだけど、ケーキやクッキーはその最たるものだったかなぁ」
「どういう意味で最たるもの?」
「何で女子が優先的に食ってるんだとムカついた」

 奏人はティーカップを置いて、声をあげて笑った。

「誰も女子が優先だって言ってないのにね、わかる」
「でもあなたならともかく、俺が可愛らしいケーキの並んだショーケースを真剣にのぞいてたらたぶん店員と女性客に笑われるよね」
「うーん、かも……」

 奏人の心から楽しそうな表情に、暁斗まで嬉しくなる。思い出したことがあり、あ、と水を向けた。

「現在のところひげ脱毛経験者を4名確認しております」

 暁斗の言葉に、奏人はおお、と大仰おおぎょうな声を出した。

「総務課に1名、うちの部下に1名、大学のテニス部の同期に1名、シュッとした企画課長」
「なかなか脱毛男子繁殖してますね、山中さんはお洒落さんっぽいですもんね」

 暁斗はわざとしかめっ面を作る。

「自分はそんなところに金を使ってるくせに、俺があなたを指名してるって知って俺をセレブだ何だって冷やかすんだ」

 奏人は可笑しそうに笑う。ああ、来てくれて良かった。こんなに笑ってくれるこの子を見るのは初めてかも知れない。……愛おしい。

「ひげ脱毛するならエステ紹介します、声かけてくださいね」
「検討しようかな、部下も楽だしお勧めだと言ってた」

 デザートの時間が終わると、キッチンに二人並んで片づけをした。奏人が手早く食器を洗い、暁斗が洗いかごから出して拭く。蓉子とも新婚時代に、こんな風に片づけをした。あの頃きっと、幸せを感じていたと思う。しかし今ほどときめいていただろうか。暁斗は思い出せなかった。ただ、蓉子と再会して話していなければ、追想はもっと苦痛なものになっただろう。そういう意味でも暁斗は幸せだった。
 リビングに落ち着くと、奏人は紙袋に入っていた長細い箱を持ってきた。黒い箱に赤いリボンがかかっている。暁斗はプレゼントだと言われて驚く。

「ありがとう、俺3月に何もしてないのに……申し訳ない」
「着替えを買ってもらいましたよ」

 暁斗は奏人の言葉に余計に恥ずかしくなった。確かにあの時、誕生日のプレゼントだと思っておいてと言って、着替えの代金を受け取らなかった。改めて何が欲しいか尋ねようと思ううち、機を逸した。奏人ならあんなファストファッションよりも、もっといいブランドの服を何でも着こなすだろうに。

「僕あのコーデすごく気に入ってます、いろんな人に褒めてもらったし」

 暁斗の思いを見透かしたように、奏人は微笑して言った。暁斗はためらいながらリボンを解き、箱を開ける。黒いかぎ型のものが覗いた。

「傘? ……人から傘なんて初めて貰うよ」

 少し太くて長い傘は、開いてみると骨の数が多かった。黒だと思ったが、わずかに青みがかっている。骨のカーブと傘自体の大きさに、均整のとれた美しさがある。

「ビニール傘よりは重いです、でもちょっとやそっとじゃひっくり返ったり曲がったりしません」
「へえ……立派だなぁ」

 暁斗は傘の形と微妙な色合いの美しさに見惚みとれた。昨年のちょうど今頃、気に入っていた傘を、居酒屋で間違われたか盗られたかして失くしてしまった。結構落ち込んだ暁斗は、傘を選んで買い直す気になれず、以来ビニール傘を使っていたのである。

「嬉しい、ありがとう……あ」

 暁斗は黒い柄にアルファベットが刻まれていることに気づいた。A.Kayamaと繊細な銀色の筆記体で書かれている。

「素敵でしょう? 名入れサービスがあるんです、何気に僕とお揃いだったりして……」

 奏人は笑いを悪戯いたずらっぽいものに変えて言った。あの傘か、西澤先生のお通夜の時に持っていた黒い傘。奏人を泊めた翌朝、傘立てにあるのを見て良い傘だなと思ったことを、暁斗は思い出した。奏人は続ける。

「僕のは真っ黒ですけどこれは新色なんです、桂山さんに似合うかと思って……営業課長ともなればやっぱりスーツやネクタイに気を遣ってるなと思ってたんです、それだけにビニール傘はちょっといただけないかなと」

 暁斗はどう言葉を返せばいいのからわからなかった。機能だけでなく見た目にも好感が持てるものを選ぶ美意識、こちらが欲しいと思っていて、なおかつ必要なものを感じ取るアンテナ、それらを踏まえて気に入ってくれるだろうと提案してくる自信。どこまで奏人は……化け物なのか。こんな風に、ありとあらゆる場面で接した相手の琴線に触れることができる魔物が、何故平凡な自分なんかの特別になりたいと言ってくれるのだろう。
 暁斗は慎重に傘をたたみ、ソファの背もたれに柄をひっかけると、隣に座り自分を見上げている奏人を、そっと腕の中に取り込んだ。驚いた奏人は小さくあ、と言ったが、すぐに暁斗の背中に腕を回してきた。

「気に入ってもらえたみたいで良かったです」
「うん……ほんとに嬉しい」

 暁斗は感激のあまり涙ぐみそうになっていた。ふと、抱きしめた奏人の鼓動が随分早いことに気づく。

「どうしたの、あまり調子が良くないの?」

 暁斗は少し身体を離して奏人を覗きこむ。え? と彼は顔を上げ、暁斗を見た。

「心臓どきどきしてるみたいだから」

 暁斗の言葉に、奏人はふわりと頰をピンク色に染めた。それは、と目を逸らしながら小さく言う。

「何というか……今夜はこれまでここにお邪魔した時みたいに特殊な事情があるわけじゃないから……ちょっと緊張してるというか……」
「緊張? 俺相手に?」

 暁斗は冗談かと思ったのだが、奏人はええ、まあ、と困ったように呟いた。愛おしいという気持ちが風船のように膨らむ。そして、不思議なような可笑しいような思いが湧く。池袋のホテルで会う時は、いつもあんなに大胆で堂々としていて、こちらが振り回されるのを楽しんでいる節があるのに。

「……じゃ緊張が解けるまでこうしていよう」

 暁斗は華奢な身体をもう一度抱きしめ直した。奏人は小さく息をついた。

「僕結構面倒くさい奴だと思います」
「たぶん面倒くさいのはお互い様かな」
「僕は桂山さんのこと面倒くさくないですよ」

 可愛いことを言うなと思う。どきどきしているのは暁斗も同じだった。自分を落ち着かせるためにも、静かな部屋の中で、ただ自分以外の人の息遣いを感じ、そこに自分の呼吸を溶け込ませるようにしていた。

しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

令嬢は魔王子と惰眠したい。

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:28pt お気に入り:2,014

醒めない夢に悪魔の口づけを

キャラ文芸 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:19

わが家のもふもふ様

キャラ文芸 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:45

キュートなカレシの美味しいレシピ

BL / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:25

(完結)妹の婚約者である醜草騎士を押し付けられました。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:647pt お気に入り:8,017

呪いの蛇は恋の鎖

恋愛 / 完結 24h.ポイント:28pt お気に入り:6

恵と凛の妄想幕末... 新撰組を捨てた男  

歴史・時代 / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:6

処理中です...