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7月 2

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 昼間の熱気がほとんど冷めない。都会の夏は暑い。暁斗は山手線の強いクーラーに髪を撫でられながら、池袋に向かっていた。
 夏の外回りは地獄である。営業マンにとっては試練の季節だ。体調管理はもちろんだが、彼らは如何に汗だくにならずに取引先に向かい、暑苦しさを先方に与えずに話を始めるかに神経を使わなくてはならない。制汗剤に消臭スプレー、汗拭きシートにあぶら取り紙と、女子も愛用するアイテムが鞄の中を陣取る。新入社員たちが、これって経費で落ちないんですかと泣きそうになって言うので、暁斗たちは彼らに、如何にこういうものを安く手に入れるのかを伝授するのである。
 まだ完全に闇が落ちていない裏道を歩いて、いつものホテルの裏側の入り口に向かう。自動ドアを入ると吹きつけてくる冷たい風が心地よい。暁斗はフロントを素通りし、汗が引くのを感じながら、いつもの部屋を目指した。
 ドアをノックすると、半袖のシャツの奏人が顔を覗かせ、すぐに笑顔で迎え入れてくれた。ドアが閉まるなり彼を抱きしめて、確かに彼がここにいることを確認する。暁斗の胸にじわりと幸福感が湧く。

「……もう僕に会うのにお金を使わなくていいって言ってるのに」

 奏人はぽそっと言った。暁斗の背中に回している手は、肩甲骨の下を優しく撫でている。

「俺の部屋暑いから……それに今日は一緒に風呂に入りたいと思って」

 暁斗の言葉は事実だったが、奏人が金を使わせてくれないので、年長者としてのやや陳腐ちんぷなプライドを満足させるためでもあった。それに彼がスタッフである以上、いつも私的に部屋に呼ぶ訳にもいかなかった。

「うん、じゃお風呂用意しますね」

 奏人は少し困ったような笑顔を見せた。彼は敬語混じりで暁斗と話すが、年長者への配慮のようだった。金を使わせて欲しいという思いも実は察しているのだろうし、奏人もスタッフとしてよくない行動を取っている後ろめたさがあるのか、それ以上暁斗が予約を入れて来たことに関して、何も言わなかった。
 先月暁斗の部屋で喧嘩(のようなこと)になって以来なので、この期間LINEでのやりとりはあったものの、微妙な遠慮が二人の間に流れていた。それでも暁斗は、奏人が黒い髪から仄かに甘い匂いをさせながら、絶妙な力加減で背中を流し始めると、ここ数日の過ごしにくい暑さで生じる不快感と共に、わだかまりが流されていくのを感じた。

「桂山さん、変なこと訊きますけど」

 奏人は手を止めずに言った。

「最近尾行されてるとか無いですよね?」
「尾行?」

 わずかな沈黙が落ち、浴槽に湯が溜まる音が響く。

「僕の気のせいだったらいいんですけど……」
「何かあったの?」

 暁斗は自分の腕をスポンジでこする奏人の手を咄嗟とっさに握って、動きを止めさせた。奏人はあ、ごめんなさい、と慌てて言い、じわりと頰を赤らめた。可愛らしくて、ついその頰に唇を寄せそうになるが、我慢する。

「最近いろんな雑誌やら新聞やらで西澤先生を再評価する、みたいな記事が出るようになってるんです、気づいてないですか?」

 奏人の話は、暁斗にも心当たりがある。とあるビジネス誌に、2ページほどを使い西澤遥一の数冊の本の書評が掲載されており、営業1課でも少し話題に上った。

「うん、先週部下にこの人知ってるかって訊かれた……あの本わかりやすくて面白かった」
「さすが営業の桂山さんは話題の最先端いってますよね」
「ええっ、たまたまだから」
「たまたまを味方につけられる辺り、桂山さんは調子が良いんですよ……学術以外の場所で先生のことを知ってもらうのは好ましい流れなんですが」

 奏人は洗いを再開して、続ける。湯気で腕の産毛が光っているのが、何やら艶めかしかった。

「どうしても先生が同性愛者だということをスキャンダラスにピックアップしたい人たちがいるので……」
「まさかそれであなたがつけ回されてるの?」

 考えすぎとも思えないことがあって、と奏人は苦笑し、暁斗に脚を出すよう促す。早春の渋谷での出来事が思い起こされ、暁斗の胸に灰色の雲が広がった。奏人は今も、ICレコーダーを常備しているのだろうか。

「先生のかかりつけだったお医者さんのところに怪しい取材依頼のメールが来たり……僕が外回りをしている時にフリーライターと称する人から電話があったりしたんですよ」

 暁斗は眉間にしわを寄せた。何というくだらない連中なのだ、西澤のプライベートを暴き面白おかしく記事を書こうなどと。主治医や奏人に何を訊こうというのか。

「会社にも報告して警察に言うといい」

 暁斗の強い声に奏人は驚いて顔を上げた。

「桂山さんにしては厳しい対応……」
「それくらいやればいい、ああいう連中はつけあがって有る事無い事書くぞ」

 数年前、暁斗が新規で縁を結んだ小さな会社の社員が、不幸にも通勤途中に痴漢と間違われた。濡れ衣が晴れるまで、その社員本人はもちろん、会社の社長や他の社員まで記者と称する連中につけ回されて、会社のコンプライアンスに関していい加減なことも書かれたために、社長が心労から身体を壊してしまった。
 病院に見舞いに行った暁斗は、全て誤解だから取り引きを止めないで欲しいと社長が涙目で頼むのに深く同情した。現在は社員も社長も元気にしているが、暁斗はあの時のマスコミのやり方を許せないと今でも思っている。

「桂山さん、そんな怖い顔しないで」

 奏人は暁斗の足を丁寧に洗いながら、暁斗を見上げていた。目が合うとちょっと笑う。

「僕は塩っ気の強い桂山さんは結構好きだけど」

 言って奏人はまた視線を落とし、暁斗の足の指の間にまでスポンジを通す。少しくすぐったいが、悪い気分ではない。

「ちょっと痺れるから、ふふ」
「……ごめん、勝手にヒートアップして」

 暁斗はやや反省する。腰回りだけは自分で洗い、石鹸を流してもらうと、それだけでさっぱりした。ぬる目の湯に二人して浸かる。

「とにかく気をつけて、変だと思ったらすぐ警察に言えばいいよ、何ならお世話になった弁護士にも話しておけば?」

 暁斗は真剣に奏人を心配していた。一緒の時はともかく、普段は奏人を守れない。奏人は頷いて、入浴剤の入った湯を両手ですくい、軽く匂いを嗅いだ。

「……だから部屋に先に入ったのか」
「一応ね、僕がつけられてるとして……交際範囲に桂山さんが入ってることを知られたくないから」

 俺は知られても別に構わない、と暁斗は言いかけたが、奏人が先に口を開いた。

「僕はあなたを守る」

 肩先まで湯に浸かり暁斗を見つめる奏人には、おかしがたい美しさがあった。黒い瞳には確固とした意志が宿っているように思えた。

「僕は今までずっと……西澤先生やいろんな人に雑音にわずらわされないよう守られてきました、今度は僕が誰かにそうする番だと思うんです」

 暁斗には返す言葉がすぐに見つからない。それは自分が特別だからという意味なのだろうか。

「誰にもあなたを煩わさせない」

 奏人さん、と暁斗は力のある目を見つめて呼びかけた。が、やはり言葉が続かなかった。

「……でも僕が時々あなたを煩わせるのは大目に見て欲しいな」

 奏人は微笑して少し首を傾けた。その仕草に、暁斗はつい吸い寄せられてしまう。華奢な身体を腕の中に取り込んで、力をこめた。彼の何もかもが愛おしく思えた。

「俺は大丈夫、これでも今までそこそこ面倒なこともやり過ごしてきたから」
「……とも思うんだけどちょっと心配な時も多いから……」
「……ごめん」

 暁斗が素直に謝ると、奏人はくすっと笑った。

「暁斗さんにぎゅっとしてもらうの大好き」

 名前を呼ばれてちょっとどきっとした。奏人は暁斗の胸の中にすっぽりと収まって、安らいでいる様子だった。頼りないかもしれないが、こうして自分といることでほっとしてくれるなら、それでいいと思う。
 暁斗は意見がぶつかるような時も含めて、奏人と時間を共有することが、自分にとって必須であるように最近感じている。出会った頃のような、どうしても顔が見たいといった渇望は少し落ち着いていたが、何か楽しいことや感動するようなことがあると、何故すぐに会って奏人に話せないのだろうと、自分でも驚くくらいがっかりするのである。
 暁斗は以心伝心という言葉を信じていない。仕事の場面でも、親しい人――それが家族であっても、思いは伝えないと相手にわからないと、経験で悟っていた。奏人は察しが良い人間だが、やはり話し合うことで互いの理解は深まるのだから、沢山の時間を一緒に過ごしたいのだ。
 奏人はどうなのだろう。暁斗は若干の眠気を覚えながら、腕に抱く青年の髪の中に鼻先を埋めてみる。たぶん相手を欲する気持ちは、暁斗のほうが強いと思う。でも奏人は、自分を必要としてくれてはいるらしい(自惚れでなく、それは確信していた)。どれくらいの気持ちなのだろう。例えば……一つ屋根の下に暮らしてみるとか。お互いの仕事を思えば、そんなに一緒には過ごせないかも知れないけれど。

「暁斗さん、寝ちゃだめだよ、のぼせる」
「……二度とやらかさないよ」

 奏人は無邪気な笑顔になった。

「初めてあなたとここに来た日、すごく寒かったよね……それでお湯の温度を高めに設定したのが良くなかったんだった」
「そうか、年末だったなぁ……寒かったこと自体が思い出せないな」


 神崎綾乃から、年の瀬に初めての客を頼みたいと言われた時、奏人は少し驚いた。奏人は常連を沢山抱えながらあまりシフトに入っていなかったので、新規客はそれまで半年近く受けていなかったのだ。綾乃は不思議な能力を持っていて、情報が少なくても、人の相性をかなり正確に見分ける。たぶん合うと思うの、と彼女はあの時も言ったが、彼女の見立ては正しかったのだろう。
 暁斗の人や物に対する感じ方は、本人は気づいていなさそうだが、独特だ。姿形や雰囲気、色や音や香り、その他彼が五感で捉えうる全てにおいて、「うつくしい」モノやコトをとにかく好むのが、面白い。どうも自分は暁斗にとって、「うつくしい」と感じさせる部分が多いようなので、気に入られていると奏人は理解している。かと言って暁斗は、一般的に美しいと言えないものをみだりにけなしたりはしない。そこが奏人は好きだ。

「暁斗さん、どうしますか……上がって少し眠る? それとも一回すっきりしますか?」

 奏人はとろんとした目になっている特別なひとに声をかける。彼は自分と同じく、基本的に性的に淡白だ。でも火をつけるのは至って容易たやすい。2度肌を触れあわせて、奏人は暁斗の何処をどうすれば、その目覚めたばかりの本当の情熱を掻き立てることが出来るのかをほぼ把握した。

「あ、一緒に眠りたい」

 暁斗はこめかみに唇を触れさせながら答える。こんな風にされて、奏人がどきりとすることにも気づかずに。眠らせてやろうか、少しなぶってやろうか。奏人はやや意地悪な気持ちになって思案する。暁斗を弄り始めると、結構夢中になってしまい、一人で困惑することにもだいぶ慣れたのだが、彼が悦楽に溺れることに自分でブレーキをかけようとするのが、ひどく愛おしく、彼の知らない高みに昇る幸せをもっと教えたくて、ついやり過ぎてしまう。きっと別れた妻にも見せなかった顔を見せてくれているのだろうと考えると、奏人の男性的な支配欲が満たされる。

「じゃ出ましょうか、気持ち良かったですね」

 浴室を出て、暁斗の身体をバスタオルで包み、水滴を吸い取っていく。

「奏人さんと……温泉旅行に行きたいな、興味ある?」

 奏人の動きを見つめていた彼は子どもみたいに訊いてきた。

「あります、温泉は好きですよ」
「たまには奏人さんの背中を流してあげたい」
「え……嬉しい」

 今でこそ拒否はされないが、男二人で泊まると従業員が変な目で見る旅館はまだまだある。しかし暁斗の嬉しそうな顔を見て、奏人は厳しい現実をまだ伝えないことにする。彼の幸せそうな笑顔を曇らせることからは、彼を極力遠ざけたいし、……故意にそのような行為に及ぶ者はどんな手を使ってでも排除する。そんな自分の激しい思いに奏人は驚き、少し恐れ、そのうち笑えてきてしまう。
 暁斗がバスタオルを取って、自分が彼にしたのと同じように、上半身を包んで拭いてくれた。こわれものを扱うように、丁寧に、優しく。自分にはそんな価値は無いのに。

「あなたが好きだ」

 奏人は暁斗を見上げて、これまで誰一人として、客には与えたことのない言葉で、自分の気持ちを集約した。古い昔から今に至るまで、数多あまたの人が綴り歌ったように、そう口にするだけで涙ぐみそうになる。何故好きなんだと問われると、まだ上手く答えられない。でも、そう感じるのだから仕方がない。
 暁斗はふわりと嬉し気に表情を緩めた。こんな時の、緊張が抜けたように下がる目尻も、奏人のお気に入りだ。そしてこの後、自分に遠慮がちに与えてくれるであろう口づけも。
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