あきとかな ~恋とはどんなものかしら~

穂祥 舞

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7月 3

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 奏人と30分ほど眠ったあと、やっぱり奏人の手技に1回負かされてしまってから、暁斗は先にホテルを出た。奏人は池袋駅東口にある喫茶店で待つように言った。暁斗は念のために背後に注意を払いながら、人混みを縫って歩く。これでは本当に尾行されていたとしても分からないと、胸の内で苦笑する。
 東口のほうが店が多いので、暁斗は自分のいる場所が言われた店で合っているのかやや心配だったが、奏人は10分もしないうちに店に入って来た。

「ごめんなさい、今から30分でカウントするから」

 奏人はアイスティを頼むと、言った。暁斗が客として奏人を指名した限りは、アフターもホテルの外で30分と、律儀に守るということだった。暁斗に異存はない。

「暁斗さんと関係が無い振りをしようって話なのに矛盾してるんだけど」

 奏人は鞄からクリアファイルを出して、白いチケットを1枚出した。奏人の大学の美術部の展覧会の入場券だった。

「近くを通りかかることがあったら覗いて行って」

 暁斗にチケットを差し出して、奏人は言った。少し照れ臭そうだった。

「ということは……描いた絵が飾られてるの?」

 暁斗は感心しつつ応じる。奏人によると、美術部の創立90周年を記念した、卒業生を交えた大規模な作品展らしかった。小振りなギャラリーが最近沢山できている六本木の、とあるビルの7階が会場である。

「うん、現役の子に頼まれて……僕なんか卒業してからほとんど描いてないのに、無茶振りだよね」

 暁斗は奏人の右手の人差し指の爪の先が、ほのかに青緑に染まっているのに気づいていた。風呂から上がりベッドで戯れていた時、暁斗の頰に触れようとした奏人の白い指に青い色を見て、そのなまめかしさにぞくぞくしたのである。

「それで手に絵の具つけてるんだ、何かなと思ってた」
「あ、うん……油絵具って取れなくて」
「俺学生時代にガチで絵描いてた人って初めて遭遇した、ゼミに文化系クラブの奴は割といたけど美術部はいなかったな」
「えーっ、そんな特殊なクラブじゃないのに」

 化け物の奏人のことだから、無茶振りと言いつつそれなりに、もしかしたらそれ以上に仕上げるのだろう。でなければ現役生も、歴史あるクラブの記念の展覧会に出品を依頼したりはしまい。

「何を描いてるの?」

 暁斗が尋ねると、奏人は来てのお楽しみで、と笑った。暁斗は絵などほとんど分からないが、こういう展覧会なら、ちんぷんかんぷんでもないだろうと思った。

「でも後輩に頼まれてOKするくらいだから、その……画材は常備してるんだね」

 絵の具は買い直したけど、と奏人は答えた。高校生の時から始めたという。顧問の美術教師が熱心な人で、部活全体のレベルは高かったらしい。

「僕はハマると夢中になるから結構一生懸命になって……まあ一年で先生のお眼鏡に叶うくらい伸びたんだと思う、それでやっかまれたみたいで」

 奏人は他人事のように淡々と話す。

「それがきっかけで一年上の先輩をイーゼルで殴ったんだ」

 暁斗は簡単に相槌を打てなくなった。

「言い訳をすれば……先に手を出して来たのはあっちなんだけど、過剰防衛……」

 暁斗のアイスコーヒーのグラスの氷がカラン、と音を立てて沈んだ。奏人は淀みなく整然と話した。暁斗に話すために整理して来たからなのか、もう彼の中で決着がついたことだからなのかはわからなかった。しかしその内容は、暁斗には十分衝撃的だった。
 その「一年上の先輩」は中学生の頃から展覧会で上位の賞を貰うほどの腕前で、札幌市内トップの進学校だった奏人の高校では珍しく、国立の芸術大学を志望していた。奏人が練習熱心なのを見て、一年生の頃はいろいろなことを教えてくれた。奏人は彼に仄かな想いを寄せ始めたが、翌年奏人が道内の中高生向けの展覧会で、その先輩より上位の賞を受けた時から、先輩があからさまに冷淡な態度を取るようになった。
 奏人が2年の時の夏休み中、美術室を開けてもらい、秋の展示会に出す候補の絵に手を入れていたら、彼がやって来た。彼は事もあろうに、奏人が好きだと口にした。奏人は驚き、冷たい態度を取られていたにもかかわらず嬉しくなったが、彼はおかしなことを言い出す。
 君が俺に恋愛感情のようなものを持ってることは分かってる、もちろん俺も同じ気持ちだ、だから秋のコンペティションへの出品を辞退して、卒部する俺に花を持たせてくれないか。
 奏人の返事は否、だった。そのために夏休みは実家にも戻らずキャンバスにずっと向かっていた。それに、確かに顧問の先生は彼か奏人のどちらかの作品を出したいと考えているようだが、まだ奏人だと決まった訳でもない。もしかしたら2人以外の作品が選ばれる可能性もあるのに、何故そんな事を言うのか。
 奏人の正論が頭に来たのか、彼は何故受け入れてくれないのかと怒った。奏人は彼をさとそうとしたが、言葉は伝わらず、遂にその場で彼に襲われた。

「襲って来たって……その……レイプって意味?」

 暁斗は慎重に問う。奏人は苦笑してそういうニュアンス、と答えた。男子校だったせいか、同性愛的関係に近い友情を育む者もちらほらいたのだという。

「あっちはびびらせるくらいのつもりだったんだと思うけど、僕もおぼこかったから殺されるかと思ったんだよね……で、手に触れたものを叩きつけた」

 美術室の様子を見に来た顧問が2人の言い合いに気づいて、先輩の所業の一部始終を目撃していた。奏人は正当防衛と見做されたし、先輩の怪我も命に関わることは無かったが、変にスキャンダラスに噂が広まったこともあり、奏人は自主退学して帯広に戻り、2学期から地元の高校に転入した。美術部の顧問は絵は辞めるなと言ってくれたが、流石に高校を卒業するまでは画材に触る気にはなれなかった。
 北海道から離れたくて選び合格した大学だったが、キャンパスの中にある教会が好きで、礼拝堂が開放される時間に一人でちょこちょこ行くようになった。祭壇をスケッチしていると、神父がいたく感心してくれた。神父が美術部の顧問と親しかったため、流されて入部してみると、意外と居心地が良いし、週に1回訪れるトレーナーの画家も面白いので、大学で部活動をする気は無かった奏人だったが、続けることにした。

「卒業してからも繋がってる友達も出来たから良かったと思ってる、絵を描くと高校時代の嫌なことをどうしても思い出すけど、それもまあ人生の一つの風景かなって」

 穏やかな笑みを浮かべる奏人を見ていると、彼が自分よりもずっと若いのに、ずっと沢山の傷を負っていることが、暁斗には痛々しく思えた。彼に比べると、暁斗は平和で幸福な人生を送っていると感じる。
 その高校時代の先輩とやらも、今も誰かに同じような圧力をかけ、せこい人生を送っているのだろうか。そう考えると、腹立ちもさることながら、多少気の毒にも思える。大体、奏人のような者にかなう訳がないと早々に悟らなければならないのだ。
 レベルは違えど、暁斗も大学のテニス部で似たような思いを味わった。先輩らしく、お前凄いよなと、妬ましい気持ちを押し込めて言えばいい。そのほうが相手の敬意も得られ、相手への妬ましさをバネに成長出来る。

「久しぶりにがっつり描いて楽しいんです、だから観に来て欲しいな」

 奏人は強いと暁斗は思う。壊れそうになる時もあるが、もし暁斗が居なくても、自分一人で立ち上がってくるだろうとも。ただ、立ち上がって歩き出す手助けが出来るのであれば、そばに居てやりたいとも考える。今だって、手を取り抱きしめてやりたい。誰の目があるかわからないので、流石にそれは出来なかったが。

「うん、行かせてもらう……これ誰かと行くなら人数分要るの?」
「あ、入場無料だし単なる整理券だから気にせず入って」

 誰と来てくれるの? と奏人はからかうような笑みを浮かべて訊いた。

「いや、一人かも知れないし……美術館や博物館が好きな部下がいるから、彼とあの辺りを回る機会があればちょうどいいと思って」
「色気が無いなあ」

 暁斗の返事に奏人は眉のすそを下げて笑った。誰と行くという言葉を期待していたのだろう。

「暁斗さん、ごめんなさい」

 奏人は少し俯き加減になり、ぽつりと言った。

「何を謝ってるの」
「僕のことを知りたいと言ってくれたからいろいろ話すんだけど……楽しくない話ばかりしてるなと思って」

 暁斗は馬鹿、と言って笑う。好きな相手のことを知るということは、相手の影の部分も知るということだ。いやむしろ、影を知ることで理解が深まる場合が多いだろう。そして、それを話すに足る相手だと信頼してもらうことが大切だから――。

「まあ俺はかなり能天気に人生送ってるけど」

 暁斗は苦笑混じりに言う。奏人は否定しない。

「あー……自分がゲイだから離婚しなくちゃいけなくなったって言う割には明るいなとは思った」
「たぶんあなたや神崎さんが考えたほど悩んでないな」
「いや、自覚してる以上に悩んではいると思うよ、暁斗さんがまだまだ消化できていないことも多いってのがわかるし……でも明るいのはたぶん……何かな、少し天然ボケ?」

 遂に天然呼ばわりされ、今度は暁斗が俯いた。奏人は声に笑いを混じらせながら続けた。

「でも僕はそういう暁斗さんの抜け感に癒されるんだよね、あっもう寄っかかっちゃおうってなるの」

 暁斗は当初奏人との関係が、共依存と呼ばれるものになるのではないかと少し危惧していた。しかし最近は、男と女の関係とは違うバランスの良さがあるように感じている。女性が相手だとどうしても、こちらがしっかりしなくてはと頑張り過ぎてしまうが、相手が男だとそういう気張りが無くていい。奏人は暁斗に寄りかかろうとする時もあるが、暁斗をしっかり抱きとめてくれることも多い。

「……大型犬みたいなものか」
「そうそう、レトリバー種かな」

 暁斗には自虐だが、動物が好きな奏人には、褒め言葉に近いようである。こういう齟齬そごも楽しむ余裕が出てきた。
 大切にしたいと思う。奏人も、奏人との関係も。暁斗は貴重な30分が、今日も目の前の人の新しい一面を知るための時間になって良かったと思った。先月も今日も、ヘビーな展開ではあったが、受け止められない訳ではない。
 展覧会が楽しみになった。きっとまた奏人の違う面を見ることができるに違いなかった。
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