上 下
59 / 80

11月 1

しおりを挟む
 穏やかな天気の日曜に奏人と出かけて楽しく過ごした時間は、彼とこれから歩いていくことに対する暁斗の期待感をいやおうでも高めた。明治神宮周辺をぷらぷらと歩き、テラスのあるカフェでのんびりしたり、小洒落たセレクトショップを覗いたりした。
 暁斗は奏人が誰にでも優しい人間だということを、再認識した。明治神宮では家族とはぐれて半ベソをかいていた腕白そうな男の子の手を引き、家族と引き合わせてやった。道を歩けば、歩道でよろめいた杖をつく老婆のもとに駆け寄っていく。
 カフェではオーダーを間違えた若いウェイトレスが、注意されて涙目になるのを見て、奏人は叱らないであげて、誰にでも間違いはありますからと、穏やかに先輩格のウェイトレスに言った。暁斗なら違う言い方をしただろう、叱責するなら客の前でなく、バックヤードでやってくれ。……そう言うと奏人は、その方が良かったかなと真面目に言い、暁斗が返事に困ると少し笑った。
 奏人はカフェのテラス席でノートを取り出し、濃い鉛筆で何か描き始める。明治神宮で助けた迷子の男の子が、家族を見つけて自分たちにお礼を言った時の笑顔だった。暁斗は男の子のスケッチが巧みに仕上がっていくのに驚く。学生時代は人物を描くのが苦手で、賞を貰ったのは風景画ばかりだったが、今は人の顔や身体を描くのが楽しいと奏人は話した。
 奏人は人が好きなのだと暁斗は思う。いろいろなことに傷つき、他人に対して目に見えないバリアを張り巡らせてしまうようになったけれど、それはきっと本来の彼の姿ではない。
 暁斗が子供の頃、プールではしゃいだ晴夏が自分のそばを離れて迷子になってしまい、ちゃんと妹を見ていろと母から叱られた話をすると、お兄ちゃんって辛いよねと奏人は笑った。奏人は弟が年子なのであまり自分が兄だという意識が無く、お祭りなどで迷子になる時は大体2人一緒だったが、いつも自分ばかりが暁斗と同じように叱られて、子ども心に不公平だと思ったという。長男長女は価値観が似るので、仲良くやっていけるなどと話しながら、奏人も自分も、家を継ぐという古い日本の風習から完全に逸脱したなと暁斗は考えた。……誰にともなく少し申し訳なく感じるのも、長男のさがかも知れない。
 


 朝晩の空気が明らかに冷えて、木々の葉が色づき始めた。そんなある日、暁斗は宇野から、社長が暁斗に来て欲しがっていると聞かされた、蒲田の金属加工会社に向かった。
 暁斗たち営業課は、自社の商品を売るのが主たる仕事だが、部品の全てに国産のものを使う高級ラインの商品を支えてくれる会社と自社を繋ぐのも、大切な仕事である。今回の女子大コラボの新商品は、高級ラインに分類されているため、都内の複数の町工場に大口の仕事を依頼している。軟禁中だった暁斗は、その件に関する連絡を全て部下に任せていたが、ご指名を受けたからには顔を出さない訳にはいかない。
 有限会社ショーワビスの60代後半になる社長は、ベテラン事務パートの女性たちとともに、待ち構えていてくれた。

「少しご無沙汰しました、申し訳ありませんでした」

 暁斗が頭を下げると、あまり町工場の人間らしくない優しい顔立ちの晴山社長は、いやいや、と暁斗に椅子を勧める。小さいが清潔感のある事務所は、変わらなかった。彼はかつて、社員が痴漢の濡れ衣を着せられ、そのとばっちりでマスコミに振り回され苦労した経験がある。暁斗がマスコミのせいでしばらく苦境に立たされたことを知り、ねぎらうつもりで呼んでくれたようだった。

「大変でしたね、もう落ち着きましたか?」

 晴山に問われて、暁斗ははい、と言いながら苦笑を禁じ得ない。

「あの時の社長の心労が察せられます、私はまあ事実を暴露されただけですが、こちらは……そうじゃなかったですからね」
「本当に嫌な連中ですよ、面白ければ何でもいいんですから……面白がる人の品性もどうかと思います」

 自分の苦労など、晴山のあの時の憔悴しょうすいぶりと比べれば、どうということは無かった。それだけに、案じてくれたことが申し訳なかった。あの時濡れ衣を着せられた社員も、元気にしていると社長は教えてくれた。

「この間宇野さんがこれを置いて行ってくれまして、楽しく拝見しました」

 社長がテーブルの脇に詰んである書類の束から、相談室の2枚のニューズレターを出した。暁斗は礼を述べる。

「あの記事を見た時にまさか桂山さんじゃないよなって笑ってたんですよ、でもこれを読んで、あれが桂山さんでゲイだったんだって……みんなでひとしきり驚きました」
「はい、確信したばかりのところを強引にカムアウトする羽目になってしまいまして」

 コーヒーとお菓子を持ってきてくれた女性の事務員は、暁斗がこの会社に初めて来た日からずっと変わらず働いている。初め晴山の妻だと思ったのだが、彼女には家庭があり、社長の幼馴染だと話してくれた。晴山は独身で、何故家庭を持たずに来たのかを尋ねたことはない。

「山中さんはゲイだと存じ上げていたんですよ」
「そうなのですか? 今回の新商品の話の前に山中がこちらに伺ったことがありましたか?」

 しかもそんなコアな話を山中が社長にしていたというのが、にわかに信じ難い。

「ええ、そちらが記念誌を作られた時に」

 晴山が微笑しながら話すのに、暁斗はああ、とやや高い声になった。4年前に会社は創業80周年を迎えており、会社の歴史を紹介するカラーの冊子を、広報課と企画課が作成した。記念誌は祝賀パーティの出席者や関係者に配布された。その中で取引先を紹介するページがあり、社内報でも特にその部分を「わが社を支える町工場」といったタイトルをつけて、写真つきでピックアップしたのである。

「山中さんに熱心に取材していただいたんですよ、そちらの記念誌や社内報を見たという人の問い合わせもいただいて、そのうちの幾つかは今も得意先になっています」

 この会社は気の利いた、という表現がぴったりの、変わった形のヒンジやネジを作るのを得意としている。その頃得た得意先に、スポーツ用の車椅子を作る会社があるという。

「そうでしたか、お役に立って何よりでした」
「山中さんや、痴漢冤罪えんざい事件の時に……こんなことで取り引きをやめたりしないと約束してくださった桂山さんには本当に感謝しています」

 暁斗は恐縮する。勧められたのでコーヒーに口をつけた。

「桂山さんが使われたデリヘル……ディレット・マルティールですよね?」

 晴山の潜めた声に、暁斗はガチャンと音を立ててカップを皿に置いてしまった。思わず顔を跳ね上げて、えっ、何ですか、と動揺しながら確認する。

「私もゲイなので」

 苦笑気味の晴山を見て、暁斗はあ然となった。そして山中の言葉を思い出す。

「山中さんにディレット・マルティールを紹介したのって……」
「はい、私です」

 暁斗の視界の隅に、事務員の女性がくすくす笑う姿が入ってきた。彼女は、自分の雇い主がゲイで家庭を持つ気が無かったことや、ゲイ専門のデリヘルを使ったことを知っているのだ。

「変なお話ですが、桂山さんや山中さんにちょっぴり報いることができて良かったと思っていますよ」
「いやまあ、それは、そうなんですが……」
「桂山さんはスタッフさんと個人的に親しくなさっていて、お幸せそうだとも伺いました」

 晴山の言葉に、暁斗は右手で思わず顔を覆った。宇野の軽口が恨めしい。いや、適当にネタにしておけと言ったのは自分だが。

「ああ、すみません、困らせるつもりはなかったんです」
「こちらこそすみません、ちょっとびっくりして……」

 社長が困惑していることに、暁斗は焦る。取引先の相手に対する態度ではないと、気持ちを立て直すべくひとつ深呼吸した。

「失礼しました、取り乱しました……山中は私が仕事を取ってきた会社の人に繋いでもらったとだけ話しました、その人はカミングアウトしていないからそれ以上は教えてやれないと」

 晴山は暁斗の言葉に小さく笑った。

「お二人とも真面目なのですね、私は確かに大々的にカミングアウトしてはいませんが、彼女を含めて古株の社員は皆知っていますし……私をディレット・マルティールに繋いでくれたのも馴染みの同業者なんです」

 晴山は事務員の女性に目を遣りながら話した。彼女は電話に対応していた。

「私は蒲田生まれの蒲田育ちです、この近辺の中小企業のトップはほとんどが中学や高校の同窓生で……私が中学生くらいからおかまと言われていたことを知っている人も沢山います」

 彼はありふれた身の上話のように柔和な口調で語る。暁斗は目の前に座る男性が、ずっと好奇の目に晒されてきたことを知り、同情を覚えると同時に、強い人だと感心する。

「……好きになった人はいないのですか?」
「スタッフさんに本気になった時期もありました、彼が恋人ができたと言って辞めるまでね……その子にそこそこ良い客だと思われている自信があっただけに切なかったですよ」

 暁斗は、まあそれも美しい思い出です、と語る晴山が意外に開けっ広げであることに驚いたが、同じ道を歩んでいたことを聞き、親近感を覚えずにはいられなかった。
 晴山はディレット・マルティールで、3年ほど前まで男の子を指名していたが、本人曰く、最近は歳のせいか、その気になれないらしい。山中に紹介したのは、晴山が最後に使った頃だったという。

「気立てが良くて賢い子ばかり、どこから見つけてくるのか……不思議なクラブです」

 暁斗は奏人しか知らないので何とも言えなかったが、きっと彼の言う通りなのだろうと思う。

「桂山さんが熱を上げるくらいだから、そのスタッフさんも良い子なんでしょうね」
「ええ……年内で辞めるんですよ、アメリカに留学する準備をしていて」

 ほう、と晴山は目を見開いた。

「安心して帰って来れるように段取りしながら待つつもりです」
「いやはや、桂山さんが女房役なんですね」

 晴山は楽しげに言った。相手が若く、可能性がまだまだあるのだから、それで良いと思う。会社に縛られ、真面目に働くくらいしか能の無い自分には、奏人のために環境を整えてやることは、大いにやり甲斐のある仕事だ。そう話すと、そんなもったいないことを、と晴山が少し困ったような顔になる。

「桂山さんだって若い、パートナーに人生を捧げるような考え方はどうなんでしょう」
「私はただの社畜ですからね」
「……私はこの辺りの町工場では一二を争うインテリだと自負していますが……」

 晴山は冗談めかして言ったが、彼が偏差値の高い大学の工学部を出ており、その知識と人当たりの良さを特に先代に買われて、この会社を引き継いだことを暁斗は知っている。

「桂山さんは読みやすくて的確な文章を書かれる、こういう形で会社以外でも自己表現なさるのも良いと思いますよ」

 意外な言葉に、暁斗は返事ができなかった。晴山はそんな暁斗を見て笑う。

「そちらの会社の工場の技術者さんと一緒にいらっしゃった時のことを覚えてませんか? 技術者さんが何を作って欲しいのかまではまあ良かったんですが、試作のチェックや納品のスケジュールの説明がよく分からなくて、桂山さんが整理してくださったんですよ……私にとってあれは翻訳レベルでした」

 暁斗はその出来事を、もちろん良く覚えていた。技術者は優秀な人物なのだが、やや話が下手で、専門的な話以外は任せられなかった。その時も案の定、話が混乱しかけたのである。

「あの時はご迷惑をおかけしましたね、社長が気の長いかたで助かりました」
「いやいや、怒るようなことではなかったんですが……まああれを含めてこれまでのおつき合いでね、桂山さんは言葉を使うのが上手な人だと私は認識しています」

 暁斗は恐縮する。奏人はニューズレターを読んで、暁斗さんの文章は好きだと言ってくれたのだが、言霊ことだまを操るレベルの奏人が言うことなので、軽いお世辞だと受け取っていた。

「それにしても桂山さんが思ったよりお元気な様子でほっとしました、もちろん経験の無いご苦労があったことはお察ししますが」
「ご心配をおかけしました、周りが比較的好意的なんです……有り難いことです」
「時代が変わりましたね、少なくとも直接的に揶揄やゆされたり侮辱されたりすることは減ったと思います」

 晴山は言って、ふと遠い目になった。暁斗はコーヒーカップを、今度は静かに皿に戻して、彼の言葉を待つ。

「うちの社員が冤罪で追いかけ回されたあの時……私が一番に考えたのは自分が同性愛者であることがバレないかどうかでした」

 晴山の気持ちは痛いほどわかった。暁斗だって、何度となく同じ思いをしたからだ。

「それがなければ……彼のためにもっと積極的にしてやれたことがあったと、未だに思うんです」

 それで自分を責めているとしたら、彼が気の毒だったし、それは違うと言いたかった。しかし、良い言葉が見つからない。

「そういう意味でも辛い事件でした、もちろんうちの社員が一番きつい思いをしたのですから、これは私の愚痴だと考えてください」

 同性愛者が奇異な目で見られない世の中になればいいのに。心からそう思う。
 その後晴山と今後のスケジュールを確認して、暁斗は会社を辞した。また来てくださいねと言って、晴山と事務員が見送ってくれた。その言葉にこれまで以上に親しみがこもっているように感じられた。風は少し冷たかったが、心の中はポッと暖まるような気がした。
 直帰すると言って会社を出て来たので、予定通り帰路につく。夕焼けのオレンジがほとんど残っていない空を見て、日が落ちるのが早くなったなと思った。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

あなたに愛や恋は求めません

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:101,481pt お気に入り:8,927

浮気症の婚約者様、あなたと結婚はできません

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:13,122pt お気に入り:2,199

魔女のなりそこない。

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:5,212pt お気に入り:769

【完結】攻略対象は、モブ婚約者を愛している

恋愛 / 完結 24h.ポイント:49,701pt お気に入り:422

どうしようもない幼馴染みが恋人に!?

BL / 完結 24h.ポイント:28pt お気に入り:613

私の婚約者は、いつも誰かの想い人

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:61,806pt お気に入り:4,057

【R18】嫌いになりたい、だけなのに

恋愛 / 完結 24h.ポイント:2,541pt お気に入り:608

愛さないで

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:1,775pt お気に入り:1,015

処理中です...