レターレ・カンターレ

穂祥 舞

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7 襲い来る過去

7-②

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 残された篠原は、ペンと紙をジャケットのポケットから引っぱり出した。いるかは、くじらに好きな人ができて、彼がその人に「およめさんになってください」と頼んだことを周囲に報告し、友人代表としてお祝いの招待状をつくるのだ。
 希望に満ちた伴奏と、篠原の透明感のある、うみのみなさん、と呼びかける歌声は、水平線から届く讃美歌のようだった。

「『ほんとうのすきなひとです、いつでも……すきなひとに、きれいだね、といってあげたいので』……」

 何だよこいつ、本気出したらこんなに気持ち入れて歌えるんじゃないか。
 三喜雄は苦笑してしまう。篠原の「きれいだね」は息混じりだが優しく、少し切ないくらいだった。

「『おいわいに、きてください』」

 その時、舞台の前方に3歩進んだ篠原の声と動きが止まった。ピアノの前の牧野が彼を見る。彼女は弾き続けたが、篠原が歌わなくなり、辻井の表情が変わったので、手を止めた。三喜雄もぎくりとして、思わず舞台に駆け寄る。

「どうしたんだ、……あっ」

 三喜雄が覗きこんだ瞬間、篠原の目からぽろぽろと、大粒の涙がこぼれ落ちた。

「大丈夫か、何処か痛むのか」

 三喜雄に訊かれた篠原は首を横に振ったが、彼が倒れてしまうのではないかと思い、三喜雄は自分よりも細い肩を咄嗟に掴んだ。
 いつも白い頬を赤くして泣きじゃくる篠原が、もりやま、と人の名のような言葉を口にした。

「ごめん、ごめん……」

 意味不明な謝罪に、三喜雄は篠原の様子が普通でないと察する。牧野がピアノから離れてこちらにやってきて、三喜雄と篠原を順に見た。

「休憩しましょう……辻井先生、一旦休みます」
「わかった、片山くん、こっちに来て座りなさい」

 辻井が立ち上がり、用意してくれていた椅子に招く。三喜雄はふらふら歩く篠原を連れて、そちらに向かった。篠原は導かれるままパイプ椅子に腰を下ろしたが、隣に座った三喜雄は気が気でなかった。
 今日は合流してから、やや篠原の口数が少なかった。しかし調子が悪いとはひと言も口にしなかったので、本番の会場に来て少し緊張しているのだろうと思っていた。三喜雄自身もそうだったから……違ったのだろうか。
 泣き止まない篠原をしばらく黙って見つめていた辻井は、三喜雄に困惑の表情を向ける。篠原の身に何が起きたのか全くわからない三喜雄は、ありのままを小さく述べる。

「急に泣き始めて、もりやま、って口にして……そのあと謝ってたみたいです」

 人の名のような言葉を三喜雄が口にした時、辻井の眼鏡の奥の目が驚いたように見開かれた。同時に牧野も、眉根を寄せる。

「……一昨年亡くなった篠原くんの同級生だ」

 辻井の低い声に、三喜雄の心臓が跳ねた。
 何だって。
 篠原とのメッセージのやり取りは増えていたが、同級生を最近亡くしているなんて、ちらりと匂わせさえしなかった。いや、きっかけが無ければそんな話はしないだろうが、それにしても。
 牧野は息をついて、辻井に言う。

「先生、先に施設長と職員さんたちと打ち合わせしましょう、しばらく篠原くんは歌えないです」
「わかった、行こう……片山くん、篠原くんを頼んでもいいかな」

 辻井に訊かれて、困りますとも言えず、三喜雄はわかりましたと応じる。ばくばくする心臓を持て余しながら、出て行く2人をその場で見送った。
 三喜雄はピアノの傍に置いていた、自分と篠原の鞄を取りに行った。パイプ椅子に鞄を置いてハンカチを出し、篠原に手渡す。それを手に取った彼は、少し落ち着いたようだった。

「飲み物買ってくるよ」

 三喜雄は篠原に声をかけて、鞄から財布を出した。部屋の外に出ると、ちょうど男性職員が通りかかったので、自動販売機の場所を尋ねる。彼は三喜雄を食堂に連れて行ってくれた。
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