23 / 36
7 襲い来る過去
7-③
しおりを挟む
篠原がいなくなるなどしたら大変なので、急ぎ足でイベントホールに戻った。彼がハンカチを手にして、しゃんと座っているのを見た三喜雄は、ちょっとほっとした。元々華奢な篠原は、何となく儚い風情を醸し出している。
篠原は三喜雄の差し出した、温かいコーヒーの缶を受け取り、ありがとう、と小さく言う。
「この歌をいつか一緒歌いたいなって話し合った、同いのバリトンがいてさ」
篠原は話しながら、缶コーヒーのタブを起こした。彼の隣でそれに倣いつつ、三喜雄は早まる鼓動を宥めていた。そのバリトンが、一昨年見送った同級生なのだろうか。
「そいつ……森山っていったんだけど、帰り道が一緒だったりして、声楽科の中ではたぶん一番よく話したと思う……古い歌を本格的に勉強したいって言ったのも、森山が最初だった」
人づきあいがあまり得意でない篠原の、数少ない心許せる仲間だったということらしい。既に三喜雄は、この先の話を聞きたくなくなっていた。しかし行きがかり上、聞かなくてはいけないようだ。辛い時間になりそうだった。
「3回生の時の文化祭の企画で、一緒に有名どころの日本歌曲を何曲か歌ったんだ」
篠原は目を伏せたまま、ぽつぽつと話した。その時かなり歌いこんだのではないかと三喜雄は想像する。だからきっと、篠原の歌は日本語がきれいなのだ。
「歌の練習は、夏休みが終わる前から始めたんだったかな……森山は後期授業が始まってすぐの頃から、時々頭が痛いって言ってたんだけど、少なくとも俺はそれを深刻に受け止めてなかった」
篠原は言葉を切る。三喜雄が黙って聞いていると、彼はコーヒーをひと口飲み、溜め息をついた。
「文化祭の練習で俺が無理させたから……本番が終わって1週間後に……」
森山が朝起きてこないので、母親が部屋に行ったら、布団の中で冷たくなっていたのだという。
検死の結果、森山の脳内に出血が見つかった。篠原は呆然としたまま声楽科の同級生と弔問に訪れ、物言わぬ森山と対面した。彼の頭には包帯が巻かれていたが、顔は穏やかで美しく、痛みに苦しんだような痕跡は見られなかった。そのことだけが救いだった。
「信じられないよな、前の日に普通にバイバイって電車で別れてるんだぜ」
三喜雄も一昨年の秋、母方の祖父を見送っていた。10月に本選がおこなわれた声楽コンクールで入選し、その報告をした直後だったので、もしかしたら森山の死と時期が近かったかもしれない。
三喜雄の祖父は80に手が届いていて、入院が決まった時にはもう、長くないことがわかっていた。それでもやはり、いつも自分の歌を聴きに来てくれた祖父が息を引き取った時はショックだった。だから、一緒に歌っていた同い年の友人がいきなり逝ったと聞かされて、篠原がどれだけ衝撃を受けただろうかと思うと、三喜雄は何とも言えない気持ちになる。
「先週の日曜、三回忌の法要だったんだ……あの頃森山と一番長い時間一緒にいた俺が、病院に行って来いってひと言でも言ってたら……」
篠原は諦めたように淡々と語る。しかし、事実を受け止められないまま友人を見送り、2年しか経たないのだから、心の中が整理できているはずがなかった。
だから先月、無理をするなとあんなに俺に言ったのか。
思い当たった三喜雄は、篠原に胸が痛くなるほど同情し、早逝した見知らぬバリトン歌手を思って、悲しくなった。
「今回『恋するくじら』をもらった時、めちゃ複雑な気持ちになったんだ」
篠原はコーヒーの缶を両手で包んで、ちらっと窓の外を見る。
「でも片山くんと歌ってると楽しいから、頑張ろうって思うようになった……今日は調子はめちゃいいんだけど、森山と歌ったらどんな感じになったかなあって、途中から何だかそればっかり頭の中ぐるぐるして……だんだん、自分だけが元気で歌ってることが申し訳なくなってきて、我慢できなくなって」
篠原は三喜雄の差し出した、温かいコーヒーの缶を受け取り、ありがとう、と小さく言う。
「この歌をいつか一緒歌いたいなって話し合った、同いのバリトンがいてさ」
篠原は話しながら、缶コーヒーのタブを起こした。彼の隣でそれに倣いつつ、三喜雄は早まる鼓動を宥めていた。そのバリトンが、一昨年見送った同級生なのだろうか。
「そいつ……森山っていったんだけど、帰り道が一緒だったりして、声楽科の中ではたぶん一番よく話したと思う……古い歌を本格的に勉強したいって言ったのも、森山が最初だった」
人づきあいがあまり得意でない篠原の、数少ない心許せる仲間だったということらしい。既に三喜雄は、この先の話を聞きたくなくなっていた。しかし行きがかり上、聞かなくてはいけないようだ。辛い時間になりそうだった。
「3回生の時の文化祭の企画で、一緒に有名どころの日本歌曲を何曲か歌ったんだ」
篠原は目を伏せたまま、ぽつぽつと話した。その時かなり歌いこんだのではないかと三喜雄は想像する。だからきっと、篠原の歌は日本語がきれいなのだ。
「歌の練習は、夏休みが終わる前から始めたんだったかな……森山は後期授業が始まってすぐの頃から、時々頭が痛いって言ってたんだけど、少なくとも俺はそれを深刻に受け止めてなかった」
篠原は言葉を切る。三喜雄が黙って聞いていると、彼はコーヒーをひと口飲み、溜め息をついた。
「文化祭の練習で俺が無理させたから……本番が終わって1週間後に……」
森山が朝起きてこないので、母親が部屋に行ったら、布団の中で冷たくなっていたのだという。
検死の結果、森山の脳内に出血が見つかった。篠原は呆然としたまま声楽科の同級生と弔問に訪れ、物言わぬ森山と対面した。彼の頭には包帯が巻かれていたが、顔は穏やかで美しく、痛みに苦しんだような痕跡は見られなかった。そのことだけが救いだった。
「信じられないよな、前の日に普通にバイバイって電車で別れてるんだぜ」
三喜雄も一昨年の秋、母方の祖父を見送っていた。10月に本選がおこなわれた声楽コンクールで入選し、その報告をした直後だったので、もしかしたら森山の死と時期が近かったかもしれない。
三喜雄の祖父は80に手が届いていて、入院が決まった時にはもう、長くないことがわかっていた。それでもやはり、いつも自分の歌を聴きに来てくれた祖父が息を引き取った時はショックだった。だから、一緒に歌っていた同い年の友人がいきなり逝ったと聞かされて、篠原がどれだけ衝撃を受けただろうかと思うと、三喜雄は何とも言えない気持ちになる。
「先週の日曜、三回忌の法要だったんだ……あの頃森山と一番長い時間一緒にいた俺が、病院に行って来いってひと言でも言ってたら……」
篠原は諦めたように淡々と語る。しかし、事実を受け止められないまま友人を見送り、2年しか経たないのだから、心の中が整理できているはずがなかった。
だから先月、無理をするなとあんなに俺に言ったのか。
思い当たった三喜雄は、篠原に胸が痛くなるほど同情し、早逝した見知らぬバリトン歌手を思って、悲しくなった。
「今回『恋するくじら』をもらった時、めちゃ複雑な気持ちになったんだ」
篠原はコーヒーの缶を両手で包んで、ちらっと窓の外を見る。
「でも片山くんと歌ってると楽しいから、頑張ろうって思うようになった……今日は調子はめちゃいいんだけど、森山と歌ったらどんな感じになったかなあって、途中から何だかそればっかり頭の中ぐるぐるして……だんだん、自分だけが元気で歌ってることが申し訳なくなってきて、我慢できなくなって」
34
あなたにおすすめの小説
マキノのカフェ開業奮闘記 ~Café Le Repos~
Repos
ライト文芸
カフェ開業を夢見たマキノが、田舎の古民家を改装して開業する物語。
おいしいご飯がたくさん出てきます。
いろんな人に出会って、気づきがあったり、迷ったり、泣いたり。
助けられたり、恋をしたり。
愛とやさしさののあふれるお話です。
なろうにも投降中
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
マキノのカフェで、ヒトヤスミ ~Café Le Repos~
Repos
ライト文芸
田舎の古民家を改装し、カフェを開いたマキノの奮闘記。
やさしい旦那様と綴る幸せな結婚生活。
試行錯誤しながら少しずつ充実していくお店。
カフェスタッフ達の喜怒哀楽の出来事。
自分自身も迷ったり戸惑ったりいろんなことがあるけれど、
ごはんをおいしく食べることが幸せの原点だとマキノは信じています。
お店の名前は 『Cafe Le Repos』
“Repos”るぽ とは フランス語で『ひとやすみ』という意味。
ここに訪れた人が、ホッと一息ついて、小さな元気の芽が出るように。
それがマキノの願いなのです。
- - - - - - - - - - - -
このお話は、『Café Le Repos ~マキノのカフェ開業奮闘記~』の続きのお話です。
<なろうに投稿したものを、こちらでリライトしています。>
彼はオタサーの姫
穂祥 舞
BL
東京の芸術大学の大学院声楽専攻科に合格した片山三喜雄は、初めて故郷の北海道から出て、東京に引っ越して来た。
高校生の頃からつき合いのある塚山天音を筆頭に、ちょっと癖のある音楽家の卵たちとの学生生活が始まる……。
魅力的な声を持つバリトン歌手と、彼の周りの音楽男子大学院生たちの、たまに距離感がおかしいあれこれを描いた連作短編(中編もあり)。音楽もてんこ盛りです。
☆表紙はtwnkiさま https://coconala.com/users/4287942 にお願いしました!
BLというよりは、ブロマンスに近いです(ラブシーン皆無です)。登場人物のほとんどが自覚としては異性愛者なので、女性との関係を匂わせる描写があります。
大学・大学院は実在します(舞台が2013年のため、一部過去の学部名を使っています)が、物語はフィクションであり、各学校と登場人物は何ら関係ございません。また、筆者は音楽系の大学・大学院卒ではありませんので、事実とかけ離れた表現もあると思います。
高校生の三喜雄の物語『あいみるのときはなかろう』もよろしければどうぞ。もちろん、お読みでなくても楽しんでいただけます。
私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない
文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。
使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。
優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。
婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。
「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。
優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。
父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。
嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの?
優月は父親をも信頼できなくなる。
婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。
一級魔法使いになれなかったので特級厨師になりました
しおしお
恋愛
魔法学院次席卒業のシャーリー・ドットは、
「一級魔法使いになれなかった」という理由だけで婚約破棄された。
――だが本当の理由は、ただの“うっかり”。
試験会場を間違え、隣の建物で行われていた
特級厨師試験に合格してしまったのだ。
気づけばシャーリーは、王宮からスカウトされるほどの
“超一流料理人”となり、国王の胃袋をがっちり掴む存在に。
一方、学院首席で一級魔法使いとなった
ナターシャ・キンスキーは、大活躍しているはずなのに――
「なんで料理で一番になってるのよ!?
あの女、魔法より料理の方が強くない!?」
すれ違い、逃げ回り、勘違いし続けるナターシャと、
天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。
そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、
少しずつ距離を縮めていく。
魔法で国を守る最強魔術師。
料理で国を救う特級厨師。
――これは、“敵でもライバルでもない二人”が、
ようやく互いを認め、本当の友情を築いていく物語。
すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚!
笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。
一億円の花嫁
藤谷 郁
恋愛
奈々子は家族の中の落ちこぼれ。
父親がすすめる縁談を断り切れず、望まぬ結婚をすることになった。
もうすぐ自由が無くなる。せめて最後に、思いきり贅沢な時間を過ごそう。
「きっと、素晴らしい旅になる」
ずっと憧れていた高級ホテルに到着し、わくわくする奈々子だが……
幸か不幸か!?
思いもよらぬ、運命の出会いが待っていた。
※エブリスタさまにも掲載
靴屋の娘と三人のお兄様
こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!?
※小説家になろうにも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる