その歌声に恋をする

穂祥 舞

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2 程よい距離感、大事にします

6月 ③

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 音楽室の引き戸を開けると、教室を移動し始めていたバスバリトンパートの面々からちらちらと送られる視線もものともせず、スーパーテノールが廊下に立っていた。颯斗が出てきても彼が何も言わないので、気まずいことこのかたないが、部長という立場なのでこちらから声をかけた。

「いらっしゃい、ちょうど今から練習始まるんだけど」

 思い出したように笑顔を作った颯斗だが、まさか入部届を書きに来たとは思えない。そこまで楽観的にはなれなかった。
 何か自分に尋ねたいことがあるのか、入部しないとはっきり伝えに来たのか。杉原は口を引き結んでいて、明らかに気まずい空気が漂った。
 その時、見学の1年生にグリーの年間行事を説明していた小山が、廊下に出てきた。

「おう、杉原……ちょうどいい、今日は2人見学者がいるから、一緒に覗いて行かないか?」

 小山は9組での授業を担当しているので、杉原も彼に雑な口の利き方はしなかった。

「先生グリーの顧問なの?」
「一回引退してる、副顧問だ」

 小山は颯斗のほうを見た。

「それじゃこいつも一緒に見学な」

 杉原は小山の言葉を否定せず、そんなつもりで来たんじゃないと反論もしなかった。どういうつもりなのかわからないので、颯斗は小山に投げることにする。

「あ、じゃあ先生に任せます」
「うん、瀬尾もパー練行けよ」

 お言葉に甘えて、颯斗は一度音楽室に戻り、自分の楽譜を持ち出した。杉原は見学の1年生と一緒に机に座っていたが、1年生たちは突如現れた美青年に驚きの視線を送っている。
 秋原と小菅と打ち合わせをしていた羽田が、音楽室を出た颯斗のほうにささっと走ってきた。

「おい、あれが例の杉原なのか」
「うん、テノールのパー練から見るみたいだからよろしく」

 羽田は不安げに眉間に皺を寄せた。

「俺が不甲斐なくて途中退場したらごめん」
「いや、小山っちがたぶん最後まで見学させるはず」

 小山がいてくれてよかったと思いつつ、颯斗は極力何でもない風に答えたが、羽田は声を潜めて心情を吐露した。

「何だこれしょうもないって顔されたら、俺耐えられる自信無いわ」

 そうなってしまったら仕方ない。羽田のせいではない。それにしても、羽田にしては弱気なので、ちょっと発破をかけておく。

「でもパートリーダーは羽田なんだし、上手いと言ってもあいつ同学年だぞ? ビビり散らかすな」

 颯斗も杉原にはいつもビビり散らかしているのだが、ここは棚に上げておいた。
 噂のスーパーテノールが、入部希望の1回生と一緒にテノールのパート練習を見学しているという話は、バスバリトンパートの面々をざわめかせた。

「こっちも見に来るのか?」
「1年生には見せるだろうし、一緒に来るんじゃね?」

 発声練習が一通り済んで、新しい楽譜が揃っているか皆で確認しながら、雑談が交わされる。羽田と違い、成田は落ち着いていた。

「俺たちのハーモニーが素晴らし過ぎて、杉原がバリトンに代わりたいって言ったらどうする?」

 くすくすと笑いが広がり、石橋が温度の無い声で答えた。

「代わりに俺テノール行きます」
「石橋がテノール歌えるんだったら、このパート全員テノールだな」

 浅沼が間髪入れずに突っ込んだので、全員が笑う。石橋は本当に低音がよく出るが、バリトンの高い目の音域になるとたまに厳しいのだ。
 A3サイズにコピーされた楽譜を皆でちまちまと折っていると、教室の扉ががらっと開いた。小山がずかずかと入ってくる。

「もう休憩してるのか、見学者に声を聞かせてやれ」
「休憩じゃないですよ、楽譜のスタンバイです」

 成田は言い訳しながらも立ち上がる。颯斗が入り口に目を遣ると、1年生2人がおずおずと中を覗いていて、その後ろに杉原が立っていた。

「ほれ、入れ」

 杉原の優しい声が聞こえて、颯斗は意外な思いでそちらを見守った。彼は自分より頭一つ小さい下級生たちを、教室に入るようそっと促していた。
 杉原が前の高校では後輩ができなかったことに、颯斗は思い至った。後輩には優しいのかもしれない。だったら今から入部しても、歌以外で存在感を発揮できるはずだ。
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