その歌声に恋をする

穂祥 舞

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2 程よい距離感、大事にします

6月 ④

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 杉原は羽田が恐れていたように、つまらんと言って帰りはしなかった。もし入部して希望するならテノールパートだろうに、バスバリトンパートのパート練習を、真面目に見学していた。
 男声合唱においては、低声部の中でも高い音を担当しハーモニーをつくるバリトンと、低い音で全体を支えるバスとは、楽譜が分けられている場合が多い。パート内で実質2つのパートが共存するため、新譜の譜読みに時間がかかるが、慣れてくると、お互いが何をやっていて、音楽の中で何を求められているのかが、全体合奏をする前から何となく見えてくる。

「はい、ではバス、頭から階名でいきます……1年は間違えていいから、へ音の読み頑張って」

 成田のゆっくりとした手拍子と、浅沼のキーボードに合わせて、ミ、ソ、レ、レ、と男たちの声が響く。難しい楽譜ではないが、颯斗も集中力を高めて読んでいく。
 バスバリトンに主旋律が無くてつまらないと感じるかどうかは個人差で(メロディが来ることもたまにある)、それを理由に辞める人間は案外いない。颯斗は音楽の一番下でハーモニーを支えるのは悪くないと思っているし、自分たちバスが微妙に音を変化させ、転調のきっかけを作るような箇所が出てくると、「おっ!」とときめいてしまう。
 混声合唱部におけるテノールは、グリーで言うならばバリトンのような立ち位置だろう。だから杉原は、バスバリトンパートの練習内容に興味が湧いたのかもしれない。

「せんせ、楽譜ある?」

 音の区切れで、杉原が小山に声を掛けたのが聞こえた。コピーは人数分しか無かったので、颯斗はすぐに自分の楽譜を、左手に座っている杉原に手渡しに行った。
 颯斗が楽譜を差し出すのを見て、杉原は軽く驚いた様子だった。

「あ、ありがと」
「どういたしまして」

 中途半端な笑いを向けてしまったが、成田が待っているので、颯斗はすぐに持ち場に戻った。隣の石橋が、楽譜を見せてくれる。
 まだ迷っていると話した1年生は多少楽譜が読めるらしく、杉原は彼と一緒に楽譜を見ていた。微笑ましい光景と言えなくもない。
 バスバリトンパートの練習が休憩に入ると、小山は3人を連れて音楽室に戻った。今日は譜読みに集中し、全体合奏をしない予定なので、もう見学会は終わりかもしれない。その辺りも小山と秋原に任せることになるが、部長として彼らにこれ以上かける言葉は無いと颯斗は思う。
 どうしても杉原に入部してほしいという焦りを伴った気持ちも、今は少し凪いでいた。本番も練習風景も見てくれたのだから、彼の判断を待つのみだ。面白そうだと感じたなら、入部届を書いてくれたらいい。
 最後に部員全員が音楽室に集まった時には、見学の3人は解散していた。しかし秋原が、にこにこしながら颯斗に報告してきた。

「1年生1人は決定だ、明日入部届を書きに職員室に来てくれる」
「おおっ、あとの2人はどうですか?」

 1人でも嬉しかったが、杉原の動向が気になってつい訊いてしまう。秋原は小山のほうを見た。

「小山先生、どうですかね?」
「そうだな、1年の感触は悪くなかったぞ……杉原もいい感じだったけど、ちょっと決め手に欠けるから、瀬尾がもう一押ししとけ」

 は?
 颯斗は小山の発言に固まった。傍にいた空港コンビと小菅まで、圧のある視線を颯斗に送ってくる。

「さっき話したでしょ、3年が今から入部するのは勇気が要るの」

 小菅に言われて、それもそうかとは思ったが……どうして自分が。あ、部長だからか。
 成田が真面目な顔で言った。

「まさかほんとに、バリトンに代わりたいと思ったんだろか」
「えっ、それってテノールがしょぼいから?」

 パート替えの希望は無いだろうと颯斗は思うが、羽田は相変わらず弱腰である。そうかもな、と成田がにやつきながら答えるので、羽田は眉をハの字にした。
 仕方ないので、颯斗はミッションを継続することにする。

「テノールパートのせいじゃないと思うぞ……まあ明日またアプローチしてみるわ」

 終了時間が迫ったので、全部員に注目を促す。秋原が話しているあいだ、颯斗は杉原の下級生に対する、面倒見の良さそうな振る舞いを思い出していた。
 一高の混声にいたなら、仕切って歌えるスーパー部長になっていたかもしれないのに。理由は様々だろうが、適材が適所に配置されないことが、世の中では普通に起こるのだと思った。
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