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6 逡巡
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晴也は簡易ドリップのコーヒーを美味しそうに飲む晶を、異星人を見るような気持ちで視界に入れていた。何を考えているのか、全くもって理解不能だ。
椅子が無いので、晴也は踏み台に腰掛けていた。とりあえず、先週末に部屋の掃除をがっつりしておいて良かったと思う。彼の部屋ほどではないが、そこそこ小綺麗に生活していると思って貰えそうだった。
「今日も忙しかった?」
晶は指先でちょっと眼鏡を上げて、普通に訊いてきた。晴也は問い返す。
「昼と夜とどっちの話?」
「うん、両方」
「……どっちもまあまあ」
何ちゃんと答えてるんだ、馬鹿じゃないのか俺。
「乗り切れて良かった、昨日の今日だから心配だったんだ、あんなに泣いてたし寝不足だっただろうし」
晴也は少し視線を落とす。昨日のことを持ち出されると、気持ちが萎む。
「……気を遣わせてごめんなさい」
「こっちが気を遣わせてるんだろうな」
晶の言葉に、ある意味そうかと晴也は思う。
「ハルさんは気にしないでいい、俺が好きでやってることだ」
「そんな訳にはいかないだろ、寒い中遅い時間に来てくれてるんだから」
晶はちらっと笑みを見せたが、コーヒーをひと口飲んでから、探るような視線を送って来た。
「迷惑だと思ってないから家に入れてくれたんだよね?」
晴也は少し迷ってから、うん、まあ、と曖昧に答えた。
「……ちょっと誰もいない家に帰るのが怖かったから、……有り難いとも思ってる」
言葉を選んで、続けた。
「何が怖い?」
「山形さんや知らない人が待ち伏せしてたらどうしようかって……変だよな」
晴也は胸の中に溜まった澱を吐き出したくて、つい言ってしまう。晶は声に同情を混じらせた。
「……ハルさんの反応は普通だ、あんな目に遭ったんだから」
「男なのに情けないよね」
晶は晴也の小さな言葉を聞き洩らさなかった。
「男も女も関係ない、……ロンドンじゃ男が男に襲われるのもありがちだし」
それは聞いたことがある。外国では、トイレなどで男だってレイプされると……嫌な話である。晴也は小さく息をつく。
「ハルさん、うちに来ない?」
晶があまりにあっさり言うので、晴也はうーん、と食事に誘われたかのような反応をしてしまった。はたと目を見開き、言葉の意味を飲み込む。
「……何言ってんの?」
「ハルさんに安心して生活してもらいたいなと思って」
奇妙な沈黙が場を支配する。晴也は晶の眼鏡の奥の目をまじまじと見た。至って真面目な発言のようである。明るい照明の下だとほぼ黒の瞳なんだなと、初めて気づいた。
「……何でおまえと一緒に暮らすのが安心なんだよ、むしろ不安しかねぇよ」
晴也の口調は当然のように雑になった。どうやったら、そんな飛躍した発想が出て来るのか。
晶はしかし少しもめげない。
「どうして? 生活の時間帯も似てるし」
「いやもう全然意味がわからない、おまえマジでどうかしてる、何目指してんの?」
晶はややいやらしく唇を歪める。
「そりゃまあハルさんの貞操は保証しないけど」
晴也は思わず腰を浮かせた。しまった、やはり家に上げるべきでなかった。反射的にその場から逃げ出そうとすると、がっちり左手首を掴まれた。晴也は肩を竦める。
「ああもう、嘘だから……逃げないで」
晴也は晶の手を強く振り払った。これだけのことで、心臓がばくばくする。恐怖は一瞬だけ感じたが、それは奇妙な甘みを纏っていた。
「ハルさんが独りでいるのが怖くなくなるまででいい」
「だからっ、おまえといるほうが怖いからっ、そういう冗談やめろ」
「あのさ、ハルさん……俺あなたのこと真剣に好きだし、からかう気持ちなんか全くないよ……どう言ったら分かって貰える?」
晶は立ったままの晴也をじっと見上げて言う。彼がそんな風にするのが、近眼が理由だということも晴也は理解しつつあったが、普段他人と目を合わさずに話す癖がついている晴也には、きつかった。耐えられずにぷいと横を向く。
椅子が無いので、晴也は踏み台に腰掛けていた。とりあえず、先週末に部屋の掃除をがっつりしておいて良かったと思う。彼の部屋ほどではないが、そこそこ小綺麗に生活していると思って貰えそうだった。
「今日も忙しかった?」
晶は指先でちょっと眼鏡を上げて、普通に訊いてきた。晴也は問い返す。
「昼と夜とどっちの話?」
「うん、両方」
「……どっちもまあまあ」
何ちゃんと答えてるんだ、馬鹿じゃないのか俺。
「乗り切れて良かった、昨日の今日だから心配だったんだ、あんなに泣いてたし寝不足だっただろうし」
晴也は少し視線を落とす。昨日のことを持ち出されると、気持ちが萎む。
「……気を遣わせてごめんなさい」
「こっちが気を遣わせてるんだろうな」
晶の言葉に、ある意味そうかと晴也は思う。
「ハルさんは気にしないでいい、俺が好きでやってることだ」
「そんな訳にはいかないだろ、寒い中遅い時間に来てくれてるんだから」
晶はちらっと笑みを見せたが、コーヒーをひと口飲んでから、探るような視線を送って来た。
「迷惑だと思ってないから家に入れてくれたんだよね?」
晴也は少し迷ってから、うん、まあ、と曖昧に答えた。
「……ちょっと誰もいない家に帰るのが怖かったから、……有り難いとも思ってる」
言葉を選んで、続けた。
「何が怖い?」
「山形さんや知らない人が待ち伏せしてたらどうしようかって……変だよな」
晴也は胸の中に溜まった澱を吐き出したくて、つい言ってしまう。晶は声に同情を混じらせた。
「……ハルさんの反応は普通だ、あんな目に遭ったんだから」
「男なのに情けないよね」
晶は晴也の小さな言葉を聞き洩らさなかった。
「男も女も関係ない、……ロンドンじゃ男が男に襲われるのもありがちだし」
それは聞いたことがある。外国では、トイレなどで男だってレイプされると……嫌な話である。晴也は小さく息をつく。
「ハルさん、うちに来ない?」
晶があまりにあっさり言うので、晴也はうーん、と食事に誘われたかのような反応をしてしまった。はたと目を見開き、言葉の意味を飲み込む。
「……何言ってんの?」
「ハルさんに安心して生活してもらいたいなと思って」
奇妙な沈黙が場を支配する。晴也は晶の眼鏡の奥の目をまじまじと見た。至って真面目な発言のようである。明るい照明の下だとほぼ黒の瞳なんだなと、初めて気づいた。
「……何でおまえと一緒に暮らすのが安心なんだよ、むしろ不安しかねぇよ」
晴也の口調は当然のように雑になった。どうやったら、そんな飛躍した発想が出て来るのか。
晶はしかし少しもめげない。
「どうして? 生活の時間帯も似てるし」
「いやもう全然意味がわからない、おまえマジでどうかしてる、何目指してんの?」
晶はややいやらしく唇を歪める。
「そりゃまあハルさんの貞操は保証しないけど」
晴也は思わず腰を浮かせた。しまった、やはり家に上げるべきでなかった。反射的にその場から逃げ出そうとすると、がっちり左手首を掴まれた。晴也は肩を竦める。
「ああもう、嘘だから……逃げないで」
晴也は晶の手を強く振り払った。これだけのことで、心臓がばくばくする。恐怖は一瞬だけ感じたが、それは奇妙な甘みを纏っていた。
「ハルさんが独りでいるのが怖くなくなるまででいい」
「だからっ、おまえといるほうが怖いからっ、そういう冗談やめろ」
「あのさ、ハルさん……俺あなたのこと真剣に好きだし、からかう気持ちなんか全くないよ……どう言ったら分かって貰える?」
晶は立ったままの晴也をじっと見上げて言う。彼がそんな風にするのが、近眼が理由だということも晴也は理解しつつあったが、普段他人と目を合わさずに話す癖がついている晴也には、きつかった。耐えられずにぷいと横を向く。
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