夜は異世界で舞う

穂祥 舞

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「おかえり、お疲れさま」
「俺に言ってる? それともチンアナゴ?」
「両方」

 晶は少し晴也を見つめて微笑み、晴也の上半身に腕を回してきた。チンアナゴを抱いたまま、晴也はその温かい場所に身体を預ける。ああ、……嬉しい。そうとしか言葉にならなかった。

「……何か日本に帰って来た実感が湧かない」

 晶の言葉に晴也は笑う。

「まだ夢なのかもな」
「かな、ハルさんがおとなしすぎるぞ」

 晶は晴也の背中から腕を解いて、身を引き晴也を見つめた。やはり何となく引き締まったなと、晴也は彼の顔を見て思う。
 晴也は口を開きかけたが、その瞬間唇を塞がれて言葉を飲んだ。急な口づけに心臓が早鐘を打つ。晶の唇は温かく、包み込まれると幸福感がその場所から全身に広がる気がした。
 そっと唇が離れると、晶はテーブルの上に並んだ紙袋に目をやった。

「これはハルさんに……現地人にお勧めをリサーチした」

 現地人という言い方に少し受けたが、お土産を用意してくれたこと自体に晴也は驚く。晶は2つの紙袋を手許に引き寄せ、ひとつずつ晴也にあらためて手渡す。

「ひとつは男のハルさんに、ひとつは女のハルさんに」

 え、と晴也は思わず言う。晶が開けて欲しそうなので、紺色の紙袋の中をまず覗き込む。入っていたのは、深緑に紅色を差したタータンチェックのネクタイだった。しっかりとした生地で、柄も美しい。

「スコットランドのものなんだ、ウールだから今ちょっと暑いし秋冬に使って」
「きれいだな、タータンチェックって子どもっぽいと思ってたけど、シックで……」

 ネクタイに見惚れている暇もなく、晶はもうひとつの黄緑色の紙袋を開けるよう急かす。そちらには化粧品が入っていた。アイシャドウのパレットとリップグロス、それにチーク。

「日本未上陸のブランドだよ」

 晶は得意気に言う。イエローベースのパレットは、見ているだけで気持ちが弾んだ。ケースのデザインも、韓国のブランドと似ているけれど、イギリスらしいスパイシーさがある。

「ありがとう、どっちもすごく嬉しい」

 晴也は、晶の目が嬉し気に細められるのを見ながら言った。そうだった、晶は出会った時から、昼間の男の晴也も、夜の女の晴也も好きだと言ってくれたのだった。
 あの頃晴也は、夜の自分こそが本当の自分だと考えていた。もちろんそれは事実ではあったが、晴也は夏紀のように中身が女ではない。そのため、夜の自分でいても、望むところが全て満たされていた訳ではないと、今ならわかる。
 晶はそんな晴也の、見え隠れする心の隙間にうまく滑り込んできた。男でも、女でもありたい。いや、男だとか女だとかは、もうどうでもいいのかもしれない。晴也という一個の人格を見つめ、丸ごと受け入れて欲しい。晶は馬鹿にしたり笑ったりせず、全てを肯定してくれたのだ。

「ああもうそんな嬉しそうなハルさんを見たら、今すぐもっといいことをしてあげたくなる……」

 晶はとろけた顔になった。そんな表情も久しぶりに見ると、やたらと愛おしく思えたが、晴也は赤面しそうになるのをこらえ、気持ちを引き締める。

「夕飯が先だ、お寿司買ってきたから、ぱぱっと味噌汁作るよ」
「ハルさんのちんこのほうがいい」
「そんなの……後でいくらでも食わせてやるから、寿司が先」

 晴也の言葉に、晶はぱっと顔を輝かせた。

「言ったな? 本当だな?」
「いや、その、……好きにしろよ、もう……」
「イギリスのゲイたち御用達のローションを教えて貰って買ったんだ、今夜早速試そう」

 晴也はその言葉に呆れて、甘いムードもすっかり吹っ飛ばしてしまった。

「おまえあっちで何やってたんだよ! 必死で練習してたんじゃなかったのか!」
「もちろんしてたぞ、でもあれだけ毎日同じ顔が集まったら、夜にテンションが変になってエロ話にも走るんだって」

 大学生の部活の合宿かよ! 晴也は晶を睨みつけていたが、そのうち可笑しくなってきた。これからもこいつと、こんなやりとりばかりするのかな。まあ、それも悪くないな。晶はにやける晴也を覗き込んできた。

「ハルさん?」

 晴也は晶の首に腕を回した。きゅっと抱きしめると、頬に黒い髪が触れ、首の辺りから晴也の好きな匂いがした。可愛い、と晶は笑って、晴也の背中をそっと抱く。
 これから俺は、ショウさんとごちゃごちゃ言いながら歩いていく。昼間も、夜も。ショウさんと一緒なら、夜の新宿も異世界じゃなく、俺のホームになる。そしてショウさんにとっても、俺のいるところがホームになれば、嬉しい。

「味噌汁はお豆腐とキャベツだよ」

 晶はうん、と言って晴也の頬にひとつキスをした。晴也は晶の耳許に囁く。

「……ありがと」

 晶は晴也の後頭部を優しく撫でてくれた。

「何に対するお礼? お土産? ローション?」
「それもひっくるめて、ショウさんがここにいること」

 ちょっと鼻の奥がつんとした。そうだ、好きな人に好きと言ったら、泣けるんだった。こいつ調子に乗るから、これくらいにしておこう。
 どちらからともなく腕を解くと、晶は晴也をじっと見つめて、指先で頬に触れた。

「少し見ない間に目がしっかりしたな、きっとこれが本当の晴也だ」

 そんな風に見られていると思うと、やけにどきっとした。自分に向けられる黒い瞳は、あくまでも優しい。
 晶は立ち上がって、晴也に手を差し出した。晴也は迷わずその手を取る。キッチンに向かうだけなのに、手を繋ごうとする自分たちが可笑しい。でも、それもやっぱり悪くなかった。


《夜は異世界で舞う 完》
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