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「いやいやだって、そんな厚かましいこと普通しないだろ」
「えーっ……俺もう帰国したらハルさんと暮らせるものだと信じてたのに……」
「だから先走るなっていうのに……話の続き、夕ご飯買って持って行くから、何が食べたい?」
晴也の話に晶は文句を言うのを止め、うーん、と真剣に考え始める。空港で食べて帰っても良かったのだが、早く晶をほっとさせてやりたかった。
「お寿司が食べたい」
「わかった、あと調味料とか明日の朝食べるものとかも買ってくから休んで待ってて……冷蔵庫に水とお茶しか入ってないから、すぐに欲しいものは買って帰れよ」
晴也が考えていた段取りを伝えると、晶はひとつ息をついて目を閉じた。
「ハルさんが世話を焼いてくれる幸せ……」
「大袈裟だな」
冷ややかに返したものの、世話を焼きたいのは晴也のほうだった。晶は明日、整形外科の診察の予約を取ったと聞いている。月曜から会社に出勤し、水曜にはルーチェに復帰する予定だ。晴也は晶が来週から通常モードで滞りなく動けるよう、この週末、準備を手伝う。
晶はスーツケースの陰で左手を伸ばしてきて、鞄の上に置いていた晴也の右手の甲をそっと包んだ。少し驚いたが、その手の中指が黒子を撫でるのを、そのままにしておく。晶の手は温かかった。晴也より少し大きな、優しい手。これからこの手を取って歩くのかと思うと、晴也の頬が熱くなった。あまり話さなかったが、軽く電車に揺られながら、心地良い時間を過ごした。
品川で山手線に乗り換え、晶は人に紛れて新宿で降りた。スーツケースを人にぶつけないようにしながら、晴也を振り返りちょっと笑う。その途端、一度別れなくてはいけないことに、自分でも驚くぐらいがっかりしてしまった。早く帰って着替えの準備をしよう。帰国の労いだから、お寿司は新宿のデパートで、ちょっといいものを買おう。
レストランの食材の買い出しを命じられたアルバイトのように、両手をいっぱいにして晶のマンションに到着した晴也は、鞄から何とかハンドタオルを出して額の汗を拭いた。ひと息ついて鍵を取り出し、セキュリティのロックを外した。一緒になったサラリーマンに気遣われながら、エレベーターに乗り降りする。
全く下がらない外気温に耐えながら部屋の鍵をそっと回し、静かに扉を開けた。晶が眠っているかもしれないと思ったからである。中は少し涼しく、薄暗かった。寝室の扉が閉まっているところをみると、晶は横になっているのだろう。ヒースローからのフライトは13時間と言っていたので、疲れただろうし時差ボケもあると思う。
晴也は足を忍ばせてキッチンに向かい、明かりをつけた。汗で貼りついたTシャツを背中から剥がしてから、勝手知った冷蔵庫に買ってきたものを入れ始める。調味料の多くが賞味期限を迎えてしまったので、中は閑散としていたのだが、免税店の袋がいくつか入っていた。実家や職場へのお土産なのだろう。先に買って入れておいた水のペットボトルには、開けた痕跡があった。
お寿司のパックをネギとキャベツと一緒に野菜室に入れて、どうしたものかと迷う。晶を起こすのはかわいそうだが、時差ボケ解消には、まず食事などの時間を戻すといいと聞いたことがある。晴也は腕時計を見て、30分経ったら晶を起こし、夕飯にしようと決めた。
晴也は着替えの入ったトートバッグを持ってリビングに入り、明かりをつけてソファに腰を下ろした。緩く冷房がかかっているのにほっとする。足許にぱっかり開いたスーツケースが横たわっていることに気づき、勝手に触るのもどうかと思いつつ、晴也は放置された荷物を解いた。服と洗面道具はもう出したようだったが、文房具類や本、それに靴はそのままである。ナイロン袋の中にはスニーカーと、布の袋が入っていて、布袋には革のダンスシューズと布のバレエシューズが詰め込んであった。扱いがよくわからないが、とりあえずスニーカーは玄関に置き、踊りの靴は窓際に並べておく。
スーツケースの隅に残された2つの紙袋は、小さく折りたたまれていた。晴也は袋を伸ばし、テーブルに出した本の横に並べた。小洒落たショップのものなのか、紙袋はどちらも色柄が洗練されている。ロンドンで晶の舞台を観て、日本で売っていないメイクブランドの店を覗きたかったなと晴也は思った。
背後で軽い足音がして、晴也は振り返る。髪をくしゃくしゃにした晶が、欠伸をしながらこちらにやってきた。シャワーを浴びて寝入っていた様子である。彼はソファに座る晴也を見て、照れくさそうに笑った。
「ハルさん、おかえり」
そんな風に言われて、晴也は返事に困る。晶は晴也の横に腰を下ろして、ほっとしたように息をついた。晴也は気恥ずかしさをごまかすために、自分のバッグからニシキアナゴのぬいぐるみを出し、彼の膝に置く。
「やっと飼い主のもとに返せた」
「あ、チンアナゴは俺と寝てた」
晶はニシキアナゴをソファに置き、立ち上がって寝室に戻った。すぐに白くて細長いものを手に出てくる。彼と一緒に旅してきたチンアナゴを、晴也は受け取った。
「えーっ……俺もう帰国したらハルさんと暮らせるものだと信じてたのに……」
「だから先走るなっていうのに……話の続き、夕ご飯買って持って行くから、何が食べたい?」
晴也の話に晶は文句を言うのを止め、うーん、と真剣に考え始める。空港で食べて帰っても良かったのだが、早く晶をほっとさせてやりたかった。
「お寿司が食べたい」
「わかった、あと調味料とか明日の朝食べるものとかも買ってくから休んで待ってて……冷蔵庫に水とお茶しか入ってないから、すぐに欲しいものは買って帰れよ」
晴也が考えていた段取りを伝えると、晶はひとつ息をついて目を閉じた。
「ハルさんが世話を焼いてくれる幸せ……」
「大袈裟だな」
冷ややかに返したものの、世話を焼きたいのは晴也のほうだった。晶は明日、整形外科の診察の予約を取ったと聞いている。月曜から会社に出勤し、水曜にはルーチェに復帰する予定だ。晴也は晶が来週から通常モードで滞りなく動けるよう、この週末、準備を手伝う。
晶はスーツケースの陰で左手を伸ばしてきて、鞄の上に置いていた晴也の右手の甲をそっと包んだ。少し驚いたが、その手の中指が黒子を撫でるのを、そのままにしておく。晶の手は温かかった。晴也より少し大きな、優しい手。これからこの手を取って歩くのかと思うと、晴也の頬が熱くなった。あまり話さなかったが、軽く電車に揺られながら、心地良い時間を過ごした。
品川で山手線に乗り換え、晶は人に紛れて新宿で降りた。スーツケースを人にぶつけないようにしながら、晴也を振り返りちょっと笑う。その途端、一度別れなくてはいけないことに、自分でも驚くぐらいがっかりしてしまった。早く帰って着替えの準備をしよう。帰国の労いだから、お寿司は新宿のデパートで、ちょっといいものを買おう。
レストランの食材の買い出しを命じられたアルバイトのように、両手をいっぱいにして晶のマンションに到着した晴也は、鞄から何とかハンドタオルを出して額の汗を拭いた。ひと息ついて鍵を取り出し、セキュリティのロックを外した。一緒になったサラリーマンに気遣われながら、エレベーターに乗り降りする。
全く下がらない外気温に耐えながら部屋の鍵をそっと回し、静かに扉を開けた。晶が眠っているかもしれないと思ったからである。中は少し涼しく、薄暗かった。寝室の扉が閉まっているところをみると、晶は横になっているのだろう。ヒースローからのフライトは13時間と言っていたので、疲れただろうし時差ボケもあると思う。
晴也は足を忍ばせてキッチンに向かい、明かりをつけた。汗で貼りついたTシャツを背中から剥がしてから、勝手知った冷蔵庫に買ってきたものを入れ始める。調味料の多くが賞味期限を迎えてしまったので、中は閑散としていたのだが、免税店の袋がいくつか入っていた。実家や職場へのお土産なのだろう。先に買って入れておいた水のペットボトルには、開けた痕跡があった。
お寿司のパックをネギとキャベツと一緒に野菜室に入れて、どうしたものかと迷う。晶を起こすのはかわいそうだが、時差ボケ解消には、まず食事などの時間を戻すといいと聞いたことがある。晴也は腕時計を見て、30分経ったら晶を起こし、夕飯にしようと決めた。
晴也は着替えの入ったトートバッグを持ってリビングに入り、明かりをつけてソファに腰を下ろした。緩く冷房がかかっているのにほっとする。足許にぱっかり開いたスーツケースが横たわっていることに気づき、勝手に触るのもどうかと思いつつ、晴也は放置された荷物を解いた。服と洗面道具はもう出したようだったが、文房具類や本、それに靴はそのままである。ナイロン袋の中にはスニーカーと、布の袋が入っていて、布袋には革のダンスシューズと布のバレエシューズが詰め込んであった。扱いがよくわからないが、とりあえずスニーカーは玄関に置き、踊りの靴は窓際に並べておく。
スーツケースの隅に残された2つの紙袋は、小さく折りたたまれていた。晴也は袋を伸ばし、テーブルに出した本の横に並べた。小洒落たショップのものなのか、紙袋はどちらも色柄が洗練されている。ロンドンで晶の舞台を観て、日本で売っていないメイクブランドの店を覗きたかったなと晴也は思った。
背後で軽い足音がして、晴也は振り返る。髪をくしゃくしゃにした晶が、欠伸をしながらこちらにやってきた。シャワーを浴びて寝入っていた様子である。彼はソファに座る晴也を見て、照れくさそうに笑った。
「ハルさん、おかえり」
そんな風に言われて、晴也は返事に困る。晶は晴也の横に腰を下ろして、ほっとしたように息をついた。晴也は気恥ずかしさをごまかすために、自分のバッグからニシキアナゴのぬいぐるみを出し、彼の膝に置く。
「やっと飼い主のもとに返せた」
「あ、チンアナゴは俺と寝てた」
晶はニシキアナゴをソファに置き、立ち上がって寝室に戻った。すぐに白くて細長いものを手に出てくる。彼と一緒に旅してきたチンアナゴを、晴也は受け取った。
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