あいみるのときはなかろう

穂祥 舞

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立夏の頃

5月⑤

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 そういう意味だったのか。三喜雄はサラリーマンの父に申し訳なく思い、藤巻に言い募った。

「だって先生、進むたびにお金を払うんでしょう? 本選なんか東京じゃないですか、交通費も……」
「本選まで残る気でいるのか」

 三喜雄を遮った藤巻はにやにやしていた。彼はいつも弟子を煽って、それにまんまと乗ってきたら、こんな顔をする。三喜雄は憮然としてしまった。

「ああ、残る訳ないですよね、予選を冷やかすだけでした」
「このコンクールは予選で落ちる人のほうが少ないんだ、落ちたら僕は君に、声楽を専攻するのは辞めろと言わなきゃならん」
「はぁっ? どっちなんですか」

 藤巻は腕を組む。
 
「本選まで行く気で出ろ、現実的に東京まで行くのが難しいなら、準本選突破で辞退してもいいだろう」

 三喜雄は何となく泣きたくなってきた。目標設定が高過ぎる。本番慣れするためだけなら、予選落ちでもいいのではないのか。
 休憩時間が終わり、ベッリーニとトスティをもたもたと歌った三喜雄は、まずイタリア歌曲はこの辺りから選ぶと宣言された。

「持ち時間6分ということは、今の三喜雄くんには歌曲2曲がベストだ……もう1曲は新曲にしようか?」
「……暗譜できないから去年歌ったやつがいいです」

 楽譜が、というよりは、外国語の歌詞が覚え辛い。藤巻は弟子の悩みを理解していた。
「2曲ともイタリア語ってのもちょっと芸が無いなぁ、日本の曲やってみようか? 詩は直ぐに入るだろうから」
「『さくら横ちょう』ですか?」

 三喜雄が応じると、藤巻はああ、と思い出したように言う。

「そう言えば渡してたな、あれはなかなか難しいんだけど……チャレンジしてみる価値はあるかな」

 今すぐ歌わせるつもりじゃなかったのか、と三喜雄は突っ込みたくなる。藤巻は見たことの無い歌曲集を楽譜の棚から出した。

「中田喜直は三喜雄くんの声に合うと思うんだ、何の歌か見てみた?」
「あー、失恋の歌です」

 若い弟子の貧しい語彙に、藤巻は苦笑した。

「まあそうだね、失くした恋を桜の季節に想うって感じかな? 三喜雄くん失恋の経験は?」
「は?」

 いきなり問われてついていけなかった。間の抜けた沈黙が場に落ちる。

「別に恋愛の歌を歌うのに経験は必要無いよ」

 三喜雄はあまり恋だの愛だのに興味が無いという自覚がある。どうしても女子に近づきたいとも思わないから、男子校生活も苦にならない。それでも、惚れた腫れたを歌っている歌は、決して嫌いではなかった。

「日本歌曲は特に言葉が理解できるから、感情移入をしてしまいがちなんだけど……それをやり過ぎると気持ち悪い歌になるから要注意だね」

 藤巻は深井と同じことを話す。

「まずは歌詞をはっきり発音して、楽譜通りに歌えばいい、曲が恋愛を作ってくれる」

 藤巻は前奏を弾き始めた。どこが、とは言えないが、高崎とは違う。藤巻はピアニストではないので当たり前だが、高崎のタッチのほうが柔らかく、春の宵の憂いのようなものを出していたように思えた。
 少し緊張しながら1フレーズ歌うと、うんうん、と言いつつ、ダメ出しの嵐を藤巻は繰り出した。

「まず母音唱いこうか、アエイオウのどれも口の中を狭めないように意識するのはイタリア語と一緒だよ」

 それでも三喜雄は、高崎が弾いてくれたのを聴いておいて良かったと思う。何とか曲の最後まで辿り着くことができた。
 初めての曲を見た1回目としては、順調な滑り出しだと三喜雄は満足する。こんなことで喜んでいる場合ではないのだが、たまには自分を褒めないとやっていけない。
 スケジュールを整理しなくては、とにかく時間が足りない。アルバイトは受験生あるあるで、夏には辞めることになるだろうけれど、それまでは続けたい。しかし週末のバイトの時間を練習に充てることができたら、かなり捗りそうな気がする。模試も入ってくるだろうから、バイトを土曜日だけにしてもらおうか。
 三喜雄は密かに溜め息をついた。歌うのは楽しい。でも時々、とてつもなく疲れる。これが自分の求めているものなのかと考えると、ちょっと気が塞いだ。
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