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きみは、もう、ここに、いない
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18時10分前に、待ち人は目黒駅にやって来た。結城は彼を見間違えなかったし、嬉しいことに、彼も結城さん、と確信に満ちた声をかけてきてくれた。
「ああ、元気そうで何よりだ……留学してたんだね、その後どうなの?」
結城はトレンチコートに包まれた、かなとの相変わらずほっそりした体つきや白い肌に、ほとんど見惚れながら言った。彼は結城が軽くはしゃいでいるのを見て、きれいな形の唇をほころばせる。
「しばらくぶりですね、結城さん……少しお痩せになりましたか?」
「……神崎さんから聞いてるんだろう? 片足を棺桶に突っ込んでるようなものさ」
「……お身体もどこか良くないんですか?」
僅かに首を傾ける仕草には、かなとらしい独特の色気があった。優しい子なので、本気で心配してくれているのがわかる。
「いや、少し血圧が上がってきたくらいで……あまり良く眠れないんだけれど」
「綾乃さんからそれは聞きました、でもだいぶ眠剤は緩いものになってきたって」
「神崎さんのおかげだよ」
結城は話しながらかなとを促し、歩き始める。レストランの予約まで1時間あるので、川沿いの桜を眺めながら話したいと考えていた。
すっかり日が長くなり、まだ辺りは明るい。しかし空気はひんやりとしている。花冷えという言葉が相応しいと結城は思う。
「あ……きれいですね」
かなとは、風が吹くとふわりと舞い散る最後の桜を見て言った。舞い上がった淡いピンク色の花びらは、川面にはらはらと落ちていく。辺りを歩く人が皆、その様子に見入っていた。
かなとの黒い髪にも、数枚花びらが落ちる。華奢で何処か浮世離れしている彼は、人でないようにさえ見えた。本当にきれいな子だなと思う。この子の心を掴んだパートナーというのは、一体どういう人なのだろうか。
「かなとは普通に働いてるんだよね、普通って変な言い方だけど」
結城が話を振ると、かなとは屈託なく語る。
「ディレット・マルティールで働いていた頃と同じ仕事を帰国してからも続けています、実は明日……新しい仕事が始まるんですよ」
「新しい?」
「関西の国立大学で非常勤講師をすることになっています、これから毎週金曜日は新幹線で出勤です」
それは凄い、と結城は思わず言った。アメリカで修士論文を仕上げたと聞いたが、帰国して早速お声がかかる辺り、なかなか優秀なのだろう。結城がそう言うと、かなとははにかんだような笑顔を見せた。
「ラッキーなだけですよ、パンデミックのせいで帰国が遅れたので幾つか小さい論文を書いたんですけど、それも留学する際にお世話になった先生がプッシュしてくださって」
「運も実力のうちだよ、この歳になるとほんとにそう思う……優秀でもそういうものを味方にできない人っているからね」
「結城さんがそうおっしゃるならそうなんでしょうね」
かなとは自分のことを「運も実力のうちの人」と言ってくれているのだが、それが申し訳なかった。今の自分は、時流を読み切れなかった敗北者だ。パンデミックがどの業界にとっても、かつてない未曽有の試練であったことは事実だが、結城はすぐに収まってくれるだろうと楽観視し、判断を誤ったのだった。
結城は愚痴っぽくならないように、自分の現状に至るまでの――それはつまり、かなとがディレット・マルティールを去り、アメリカに渡ってからのことであるが、あれこれをざっくり話した。かなとはかつてのように、小さく相槌を打ちながら、大きな黒い瞳をこちらにまっすぐ向けてくる。
「大変だったんですね」
かなとはぽつりと言った。
「こんな言い方をするのはどうかと思いますけれど、僕のお客様の中で結城さんは、いつもご自分のお仕事に誇りをもって……結果を出していらっしゃるかたのうちのおひとりでした、ですから……」
結城はかなとの言葉を待つ。彼は少し暮れの色を帯び始めた空を見上げた。
「きっと復活できます、だってこんな状態は永遠に続くわけじゃない……全く元の通りとはいかないと思います、そこは結城さんならまた工夫なさるでしょう?」
結城は幾許の羞恥をもって昔のことを思い出す。かつてよく、聞き上手のかなとに、今度の店はこんな内装にしたいとか、こんな客層を主なターゲットにしてこんなメニューを提供したいといったことを話した。結城はそれをほぼ実現してきた。
「僕はそう信じます」
かなとは歩調を緩め、結城を真っ直ぐ見上げて、言った。少し強い風が吹き、花をざっと散らす。彼の髪もふわりと吹き上げられ、花びらが流れるのと同じ方向に毛先が踊った。ああ、まるで桜の精だ。こんな美しい子を、他に知らない。
結城は涙ぐみそうになるのを、辛うじて抑えた。そうだった、経営の方向性を間違えていたわけではなかった。キッチンもホールも人材に恵まれたこともあって、お客様はどの店でも良く入っていたし、ネットの口コミ評価も高いほうだった。ただ、店を開けることができないという想定外の事態への対応が遅れただけだ。だけ、と言うにはあまりに大きな痛手だったが……。
「ああ、元気そうで何よりだ……留学してたんだね、その後どうなの?」
結城はトレンチコートに包まれた、かなとの相変わらずほっそりした体つきや白い肌に、ほとんど見惚れながら言った。彼は結城が軽くはしゃいでいるのを見て、きれいな形の唇をほころばせる。
「しばらくぶりですね、結城さん……少しお痩せになりましたか?」
「……神崎さんから聞いてるんだろう? 片足を棺桶に突っ込んでるようなものさ」
「……お身体もどこか良くないんですか?」
僅かに首を傾ける仕草には、かなとらしい独特の色気があった。優しい子なので、本気で心配してくれているのがわかる。
「いや、少し血圧が上がってきたくらいで……あまり良く眠れないんだけれど」
「綾乃さんからそれは聞きました、でもだいぶ眠剤は緩いものになってきたって」
「神崎さんのおかげだよ」
結城は話しながらかなとを促し、歩き始める。レストランの予約まで1時間あるので、川沿いの桜を眺めながら話したいと考えていた。
すっかり日が長くなり、まだ辺りは明るい。しかし空気はひんやりとしている。花冷えという言葉が相応しいと結城は思う。
「あ……きれいですね」
かなとは、風が吹くとふわりと舞い散る最後の桜を見て言った。舞い上がった淡いピンク色の花びらは、川面にはらはらと落ちていく。辺りを歩く人が皆、その様子に見入っていた。
かなとの黒い髪にも、数枚花びらが落ちる。華奢で何処か浮世離れしている彼は、人でないようにさえ見えた。本当にきれいな子だなと思う。この子の心を掴んだパートナーというのは、一体どういう人なのだろうか。
「かなとは普通に働いてるんだよね、普通って変な言い方だけど」
結城が話を振ると、かなとは屈託なく語る。
「ディレット・マルティールで働いていた頃と同じ仕事を帰国してからも続けています、実は明日……新しい仕事が始まるんですよ」
「新しい?」
「関西の国立大学で非常勤講師をすることになっています、これから毎週金曜日は新幹線で出勤です」
それは凄い、と結城は思わず言った。アメリカで修士論文を仕上げたと聞いたが、帰国して早速お声がかかる辺り、なかなか優秀なのだろう。結城がそう言うと、かなとははにかんだような笑顔を見せた。
「ラッキーなだけですよ、パンデミックのせいで帰国が遅れたので幾つか小さい論文を書いたんですけど、それも留学する際にお世話になった先生がプッシュしてくださって」
「運も実力のうちだよ、この歳になるとほんとにそう思う……優秀でもそういうものを味方にできない人っているからね」
「結城さんがそうおっしゃるならそうなんでしょうね」
かなとは自分のことを「運も実力のうちの人」と言ってくれているのだが、それが申し訳なかった。今の自分は、時流を読み切れなかった敗北者だ。パンデミックがどの業界にとっても、かつてない未曽有の試練であったことは事実だが、結城はすぐに収まってくれるだろうと楽観視し、判断を誤ったのだった。
結城は愚痴っぽくならないように、自分の現状に至るまでの――それはつまり、かなとがディレット・マルティールを去り、アメリカに渡ってからのことであるが、あれこれをざっくり話した。かなとはかつてのように、小さく相槌を打ちながら、大きな黒い瞳をこちらにまっすぐ向けてくる。
「大変だったんですね」
かなとはぽつりと言った。
「こんな言い方をするのはどうかと思いますけれど、僕のお客様の中で結城さんは、いつもご自分のお仕事に誇りをもって……結果を出していらっしゃるかたのうちのおひとりでした、ですから……」
結城はかなとの言葉を待つ。彼は少し暮れの色を帯び始めた空を見上げた。
「きっと復活できます、だってこんな状態は永遠に続くわけじゃない……全く元の通りとはいかないと思います、そこは結城さんならまた工夫なさるでしょう?」
結城は幾許の羞恥をもって昔のことを思い出す。かつてよく、聞き上手のかなとに、今度の店はこんな内装にしたいとか、こんな客層を主なターゲットにしてこんなメニューを提供したいといったことを話した。結城はそれをほぼ実現してきた。
「僕はそう信じます」
かなとは歩調を緩め、結城を真っ直ぐ見上げて、言った。少し強い風が吹き、花をざっと散らす。彼の髪もふわりと吹き上げられ、花びらが流れるのと同じ方向に毛先が踊った。ああ、まるで桜の精だ。こんな美しい子を、他に知らない。
結城は涙ぐみそうになるのを、辛うじて抑えた。そうだった、経営の方向性を間違えていたわけではなかった。キッチンもホールも人材に恵まれたこともあって、お客様はどの店でも良く入っていたし、ネットの口コミ評価も高いほうだった。ただ、店を開けることができないという想定外の事態への対応が遅れただけだ。だけ、と言うにはあまりに大きな痛手だったが……。
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