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拝啓、北の国から
12月28日 17:00②
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「あら、一緒にごはんとかやっぱり仲良しなんだ」
そう言った速水は三喜雄たちより少し年上で、オペラの出演が多いため、三喜雄は初顔合わせだが、塚山とは知り合いである。塚山は、ですよ、と軽く答えた。
「俺こいつと一緒の舞台で歌うの初めてなんで、実は結構うきうきです」
塚山の言葉に、どうしてこいつはここに来て、こんな攻勢をかけてきたのだろうと三喜雄は疑問になる。彼が学生時代から、三喜雄が自分と友達ではないと他人に話すのが、気に入らないことは知っている。しかしそれも今やネタのようなもので、友人らしい交際はしていなくとも、まあ友人の範疇に入るだろうとは、三喜雄も認識しているのだ。
速水は三喜雄の複雑な気持ちも知らず、笑った。
「片山くん、天音くんの世話するの大変でしょ?」
「……いや、別に一緒に暮らしてる訳じゃないですから……飲むとたまに面倒くさいですね」
たまに、ではないレベルだが、控えめに答えた。ああ、と速水は、三喜雄の返答に納得の声を発する。
「ところで、片山くんにちょいお願いがあって来たのよ、天音くんの惚気は置いといて」
三喜雄はおしぼりで手を拭いて立ち上がった。速水に入るよう促したが、彼女はその場で話し始める。
「片山くん、草野さんが異様に緊張してるみたいだから、後で声かけてあげてもらえない?」
速水はソプラノの草野和佳と同じ楽屋を使っている。わざわざこんなことを言いに来るあたり、本当に草野の様子が心配なのだろう。開演まであまり時間も無いので、とりあえず三喜雄は承知した。
「じゃあ、食べ終わり次第行きます……草野さん、何も食べてないんですか?」
「ええ、たぶん……ごめん、よろしくね」
速水は何か買いに行くために楽屋から出てきたらしく、エレベーターに向かって歩いて行った。
三喜雄はおにぎりを食べ終わり歯を磨くと、塚山がテーブルに広げていた中から、ほうじ茶とハーブティ、それにルイボスティを摘み上げた。塚山は流石にイタリアで大舞台をこなしてきただけあり、冷静だった。
「おまえが緊張感に巻き込まれるなよ、プレイヤーの調整は本人の責任だ」
「わかってる、草野さんは俺なんかより場数を踏んでる人だ……ちょこっと様子を見るだけだよ」
三喜雄は塚山に笑いかけてから、ひとつ奥の楽屋に向かった。軽くノックすると、はい、と小さな返事が聞こえた。
小柄なソプラノ歌手は、ゲネプロの時の恰好のまま、鏡の前でやや所在無さげに座っていた。
「片山くん? どうしたの?」
「塚山がいろいろお茶を持ってきたので、お裾分けに来ました」
三喜雄は扉を開けたまま、化粧品と香水の匂いのする部屋に入った。草野和佳は、後輩を不思議そうに見つめたが、確かに顔色が冴えない。
草野は三喜雄の大学の2年上の先輩である。芸術課程音楽コースを首席で卒業し、パリの大学院に進学した、フランス音楽のプロフェッショナルだ。地道な下積みののちビゼーやグノーのオペラに出演して、フランスでも高い評価を受けたが、乳がんの治療で丸2年のブランクができてしまった。感染症が拡大し始めた頃に帰国し療養していた彼女は、あらゆる演奏会が中止になった日本で干される憂き目に遭わなかったとはいえ、病気で全く歌えなかったことは全く別種の辛さがあったに違いなかった。
今夜のコンサートは、再開した音楽活動がようやく軌道に乗り始めた草野にとって、完全復活をアピールする舞台となる。しかし、最近の演奏会が小規模なものばかりだったこともあり、ソプラノソロが華やかで出番の多いヴェルディの「レクイエム」は、今の彼女には荷が重いのではないかという声がちらほら上がっていた。
ネットで情報がどんどん拡散し、要らない声まで耳に届く環境は、有り難くないことも多々ある。草野はおそらく、そんな自分の評判を耳にしたのだろう。本番がプレッシャーになるのも仕方なかった。
そう言った速水は三喜雄たちより少し年上で、オペラの出演が多いため、三喜雄は初顔合わせだが、塚山とは知り合いである。塚山は、ですよ、と軽く答えた。
「俺こいつと一緒の舞台で歌うの初めてなんで、実は結構うきうきです」
塚山の言葉に、どうしてこいつはここに来て、こんな攻勢をかけてきたのだろうと三喜雄は疑問になる。彼が学生時代から、三喜雄が自分と友達ではないと他人に話すのが、気に入らないことは知っている。しかしそれも今やネタのようなもので、友人らしい交際はしていなくとも、まあ友人の範疇に入るだろうとは、三喜雄も認識しているのだ。
速水は三喜雄の複雑な気持ちも知らず、笑った。
「片山くん、天音くんの世話するの大変でしょ?」
「……いや、別に一緒に暮らしてる訳じゃないですから……飲むとたまに面倒くさいですね」
たまに、ではないレベルだが、控えめに答えた。ああ、と速水は、三喜雄の返答に納得の声を発する。
「ところで、片山くんにちょいお願いがあって来たのよ、天音くんの惚気は置いといて」
三喜雄はおしぼりで手を拭いて立ち上がった。速水に入るよう促したが、彼女はその場で話し始める。
「片山くん、草野さんが異様に緊張してるみたいだから、後で声かけてあげてもらえない?」
速水はソプラノの草野和佳と同じ楽屋を使っている。わざわざこんなことを言いに来るあたり、本当に草野の様子が心配なのだろう。開演まであまり時間も無いので、とりあえず三喜雄は承知した。
「じゃあ、食べ終わり次第行きます……草野さん、何も食べてないんですか?」
「ええ、たぶん……ごめん、よろしくね」
速水は何か買いに行くために楽屋から出てきたらしく、エレベーターに向かって歩いて行った。
三喜雄はおにぎりを食べ終わり歯を磨くと、塚山がテーブルに広げていた中から、ほうじ茶とハーブティ、それにルイボスティを摘み上げた。塚山は流石にイタリアで大舞台をこなしてきただけあり、冷静だった。
「おまえが緊張感に巻き込まれるなよ、プレイヤーの調整は本人の責任だ」
「わかってる、草野さんは俺なんかより場数を踏んでる人だ……ちょこっと様子を見るだけだよ」
三喜雄は塚山に笑いかけてから、ひとつ奥の楽屋に向かった。軽くノックすると、はい、と小さな返事が聞こえた。
小柄なソプラノ歌手は、ゲネプロの時の恰好のまま、鏡の前でやや所在無さげに座っていた。
「片山くん? どうしたの?」
「塚山がいろいろお茶を持ってきたので、お裾分けに来ました」
三喜雄は扉を開けたまま、化粧品と香水の匂いのする部屋に入った。草野和佳は、後輩を不思議そうに見つめたが、確かに顔色が冴えない。
草野は三喜雄の大学の2年上の先輩である。芸術課程音楽コースを首席で卒業し、パリの大学院に進学した、フランス音楽のプロフェッショナルだ。地道な下積みののちビゼーやグノーのオペラに出演して、フランスでも高い評価を受けたが、乳がんの治療で丸2年のブランクができてしまった。感染症が拡大し始めた頃に帰国し療養していた彼女は、あらゆる演奏会が中止になった日本で干される憂き目に遭わなかったとはいえ、病気で全く歌えなかったことは全く別種の辛さがあったに違いなかった。
今夜のコンサートは、再開した音楽活動がようやく軌道に乗り始めた草野にとって、完全復活をアピールする舞台となる。しかし、最近の演奏会が小規模なものばかりだったこともあり、ソプラノソロが華やかで出番の多いヴェルディの「レクイエム」は、今の彼女には荷が重いのではないかという声がちらほら上がっていた。
ネットで情報がどんどん拡散し、要らない声まで耳に届く環境は、有り難くないことも多々ある。草野はおそらく、そんな自分の評判を耳にしたのだろう。本番がプレッシャーになるのも仕方なかった。
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