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きみの黒い、見開かれた目を見ると
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小田亮太は、芸大生の自主コンサートで共演するバリトンの片山三喜雄と、ピアニストの松本咲真の3人で、三喜雄がアルバイトをしている、千駄木駅前のドーナツショップで打ち合わせをしていた。ランチタイムコンサートの主催者であるヴァイオリニストの柳瀬から、少し遅れるので曲順辺りから決め始めてくれとメッセージが来ていた。
昨年秋はシューベルトばかりを演奏したが、今回はオール・モーツァルト・プログラムだ。出演者も7名と、なかなか大掛かりである。
「え、長調短調の入れ替わりでええんちゃうの?」
咲真が関西弁でのんびりと言う。亮太は突っ込んだ。
「おまえのためにセトリ考えてるんだよ、ずっと弾きっぱなしになるのに」
「俺はかまへんで」
咲真は自分のソロ曲も持っているが、あと3曲は伴奏だ。亮太が演奏する、クラリネット五重奏曲の第1楽章をピアノ伴奏に編曲したものは、かなり体力が要るはずだった。
三喜雄がドーナツ片手に言う。
「クラリネットかヴァイオリンがトリがいいんじゃないか?」
「ほなその前に、学部の子らに出てもらお、そこで俺休むわ」
今回は、学部生にも声をかけた。2回生が「魔笛」のパミーナとパパゲーノの二重唱を用意していて、ピアニストも連れてきてくれる。
三喜雄はドーナツを飲み下し、半笑いで言った。
「柳瀬さんと松本がどっちも泣かせの2楽章だからさ、俺が間でおちゃらけとくといいかな」
亮太はそれに同意した。三喜雄は歌曲を2曲用意していて、おちゃらけてはいないが、どちらも明るく美しい歌だ。
歌曲はあまり知らない亮太だが、三喜雄の歌はとても好きである。まろやかで包み込んでくるような声と、明瞭な詞。
咲真が、思いついたように笑った。
「片山が歌う『クローエに』って、何かエロくない?」
亮太はコーヒーに咽せそうになったが、そうだよ、と三喜雄はあっさり答える。
「俺あの曲初めてもらったのが大学2回生になったばっかりの時で、その頃は気づかなかった」
「まだ童貞やったからかなぁ?」
「うるさいぞ」
2人の会話に、今度こそ亮太は咽せた。何故咲真は三喜雄にそんな突っ込み方をするんだと、嫉妬混じりに思う。この2人はどちらも外部、しかも首都圏外からの入学者で、そのことをきっかけに仲良くなったと三喜雄から聞いていたが、そんな話もする仲だとは。
亮太は気になって、つい三喜雄に詞の訳を訊いてしまった。
「えっと、『君を抱きしめてその薔薇色の頬にキスをする』くらいから盛り上がってきて、最後は『酔った目を暗い雲が覆い隠して、僕は君の隣で疲れてしまった』」
ヤッてイッてるってことか。亮太はあの可愛らしい歌のかなりあけすけな内容に、ややあ然とする。三喜雄はそれこそ、童貞然とした無邪気な表情でさくっと訳したが、そんな三喜雄がエロいと感じてしまった。
「ソプラノ結構よくこれ歌うよな、みんなわかってて歌ってるんだろか?」
「どうかな? 歌詞の意味をちゃんと噛み砕かないで、ぼんやり歌ってるとわからないってとこが、エロ面白かったりするんだけど」
亮太と三喜雄が真面目に語っていると、咲真は何を思ったのか、いきなり訊いてくる。
「おまえらの初めてのセックスがいつやったか正確に教えろ」
亮太はうっかり高2、と口走りそうになったが、その話は今どうでもいい。大学院生の会話ではないし、ここは飲み屋ではない。
しかし三喜雄は、これもさくっと答えた。
「2回生の秋」
亮太は思わず突っ込む。
「遅いな」
「そうかな?」
咲真が嬉々として割り込んでくる。
「俺は1回の夏、片山に勝った」
「……俺は高2の冬ですけど」
何やら我慢できずに口にしてしまった亮太に、2人が同時におおっ、と感嘆した。その様子にやや自尊心をくすぐられる自分はバカだと、亮太は自分を密かに恥じた。
ただしこれは女との話だ。亮太は男とも経験があるので、それなら2人の初体験よりも遅い。しかし亮太がバイセクシャルであることは、三喜雄しか知らないから、口にチャックをしておく。
咲真はそれを聞いただけで満足したのか、ドーナツを手にした。高校生かよ、と突っ込みたくなる。
亮太もドーナツに齧りつきながら、前に座る三喜雄のきれいな形の目と、その中で笑うほぼ黒の瞳をこっそりと見つめた。
三喜雄は亮太が、友情以上の気持ちを自分に寄せているのを知っていながら、良い具合にスルーしてくれている。亮太も今の関係を壊したくないので何も言わない。どうしても三喜雄と、深い関係になりたい訳でもなかった。でも、キスだけでいいから、三喜雄の「男が相手の」初めてを奪ってやりたいような気はする。亮太はそんなことを、ちらっと思ってしまう。
いきなり人に脱童貞の時期を尋ねてくる咲真も「やられた」のかもしれないが、モーツァルトはたまにこんな具合に、プレイヤーの気持ちをおかしなところで揺さぶってくるのだ。
*初出 2024.5.11 #創作BL版深夜の60分一本勝負 お題「初めての○○」
『彼はオタサーの姫』の音楽男子たち、院の2年目の初夏あたりでしょうか。コンサートでパパゲーノを歌うのは、共感覚持ちの深田一樹です。三喜雄の言う「泣かせの2楽章」とは、ヴァイオリンソナタ第21番(K.304)とピアノソナタ第8番(K.310)なのですが、誰かこの内容でコンサートしてほしい(笑)。
これを書いた頃、私自身が「クローエに」を練習していました。高校生の頃から歌ってみたかった歌で楽しかったですが、「ときめきが感じられない」と先生に言われてかなり苦労しました。三喜雄は大丈夫です、きっとエロチャーミングに歌ったはずです!
昨年秋はシューベルトばかりを演奏したが、今回はオール・モーツァルト・プログラムだ。出演者も7名と、なかなか大掛かりである。
「え、長調短調の入れ替わりでええんちゃうの?」
咲真が関西弁でのんびりと言う。亮太は突っ込んだ。
「おまえのためにセトリ考えてるんだよ、ずっと弾きっぱなしになるのに」
「俺はかまへんで」
咲真は自分のソロ曲も持っているが、あと3曲は伴奏だ。亮太が演奏する、クラリネット五重奏曲の第1楽章をピアノ伴奏に編曲したものは、かなり体力が要るはずだった。
三喜雄がドーナツ片手に言う。
「クラリネットかヴァイオリンがトリがいいんじゃないか?」
「ほなその前に、学部の子らに出てもらお、そこで俺休むわ」
今回は、学部生にも声をかけた。2回生が「魔笛」のパミーナとパパゲーノの二重唱を用意していて、ピアニストも連れてきてくれる。
三喜雄はドーナツを飲み下し、半笑いで言った。
「柳瀬さんと松本がどっちも泣かせの2楽章だからさ、俺が間でおちゃらけとくといいかな」
亮太はそれに同意した。三喜雄は歌曲を2曲用意していて、おちゃらけてはいないが、どちらも明るく美しい歌だ。
歌曲はあまり知らない亮太だが、三喜雄の歌はとても好きである。まろやかで包み込んでくるような声と、明瞭な詞。
咲真が、思いついたように笑った。
「片山が歌う『クローエに』って、何かエロくない?」
亮太はコーヒーに咽せそうになったが、そうだよ、と三喜雄はあっさり答える。
「俺あの曲初めてもらったのが大学2回生になったばっかりの時で、その頃は気づかなかった」
「まだ童貞やったからかなぁ?」
「うるさいぞ」
2人の会話に、今度こそ亮太は咽せた。何故咲真は三喜雄にそんな突っ込み方をするんだと、嫉妬混じりに思う。この2人はどちらも外部、しかも首都圏外からの入学者で、そのことをきっかけに仲良くなったと三喜雄から聞いていたが、そんな話もする仲だとは。
亮太は気になって、つい三喜雄に詞の訳を訊いてしまった。
「えっと、『君を抱きしめてその薔薇色の頬にキスをする』くらいから盛り上がってきて、最後は『酔った目を暗い雲が覆い隠して、僕は君の隣で疲れてしまった』」
ヤッてイッてるってことか。亮太はあの可愛らしい歌のかなりあけすけな内容に、ややあ然とする。三喜雄はそれこそ、童貞然とした無邪気な表情でさくっと訳したが、そんな三喜雄がエロいと感じてしまった。
「ソプラノ結構よくこれ歌うよな、みんなわかってて歌ってるんだろか?」
「どうかな? 歌詞の意味をちゃんと噛み砕かないで、ぼんやり歌ってるとわからないってとこが、エロ面白かったりするんだけど」
亮太と三喜雄が真面目に語っていると、咲真は何を思ったのか、いきなり訊いてくる。
「おまえらの初めてのセックスがいつやったか正確に教えろ」
亮太はうっかり高2、と口走りそうになったが、その話は今どうでもいい。大学院生の会話ではないし、ここは飲み屋ではない。
しかし三喜雄は、これもさくっと答えた。
「2回生の秋」
亮太は思わず突っ込む。
「遅いな」
「そうかな?」
咲真が嬉々として割り込んでくる。
「俺は1回の夏、片山に勝った」
「……俺は高2の冬ですけど」
何やら我慢できずに口にしてしまった亮太に、2人が同時におおっ、と感嘆した。その様子にやや自尊心をくすぐられる自分はバカだと、亮太は自分を密かに恥じた。
ただしこれは女との話だ。亮太は男とも経験があるので、それなら2人の初体験よりも遅い。しかし亮太がバイセクシャルであることは、三喜雄しか知らないから、口にチャックをしておく。
咲真はそれを聞いただけで満足したのか、ドーナツを手にした。高校生かよ、と突っ込みたくなる。
亮太もドーナツに齧りつきながら、前に座る三喜雄のきれいな形の目と、その中で笑うほぼ黒の瞳をこっそりと見つめた。
三喜雄は亮太が、友情以上の気持ちを自分に寄せているのを知っていながら、良い具合にスルーしてくれている。亮太も今の関係を壊したくないので何も言わない。どうしても三喜雄と、深い関係になりたい訳でもなかった。でも、キスだけでいいから、三喜雄の「男が相手の」初めてを奪ってやりたいような気はする。亮太はそんなことを、ちらっと思ってしまう。
いきなり人に脱童貞の時期を尋ねてくる咲真も「やられた」のかもしれないが、モーツァルトはたまにこんな具合に、プレイヤーの気持ちをおかしなところで揺さぶってくるのだ。
*初出 2024.5.11 #創作BL版深夜の60分一本勝負 お題「初めての○○」
『彼はオタサーの姫』の音楽男子たち、院の2年目の初夏あたりでしょうか。コンサートでパパゲーノを歌うのは、共感覚持ちの深田一樹です。三喜雄の言う「泣かせの2楽章」とは、ヴァイオリンソナタ第21番(K.304)とピアノソナタ第8番(K.310)なのですが、誰かこの内容でコンサートしてほしい(笑)。
これを書いた頃、私自身が「クローエに」を練習していました。高校生の頃から歌ってみたかった歌で楽しかったですが、「ときめきが感じられない」と先生に言われてかなり苦労しました。三喜雄は大丈夫です、きっとエロチャーミングに歌ったはずです!
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