ワルシャワ蜂起に身を投じた唯一の日本人。わずかな記録しか残らず、彼の存在はほとんど知られてはいない。

上郷 葵

文字の大きさ
6 / 12

第5章

しおりを挟む
「南市街にある救護所へ医薬品を届けて欲しい。」

 市内にはいくつかの救護所があるのだが、そのうちのひとつから医薬品が不足しているとの連絡があった。
 その頃、ドイツ軍は市内各所で蜂起ほうき軍を鎮圧ちんあつしつつあり、ワルシャワ市内の各所で蜂起軍が分断、包囲されているという有様ありさまだった。

「ドイツ軍がいる中を、どうやって南市街へ行けというんだ。」

 シェリングは苦悩の表情を浮かべている。
 小野寺少将が発行してくれた日本の旅券を持っているとはいえ、彼はポーランド人だ。
 ドイツ軍が見逃してくれるはずもないだろう。
 南市街へたどり着くのは至難しなんわざであることは明らかであり、そこにいる誰もが躊躇ちゅうちょしている。


「私が行こう。」

 その場にいたすべての者たちが私の方を振り返った。

「賢二、今なんて言った。」

「私が行くと言ったんだ。私は外見も中身も日本人だ。日本はドイツの同盟国だから、そうそう手荒てあらなことはしないだろう。」

 自分でも驚いた。 
 ここにいる者たちの愛国心に影響されたのか自分でも分からないのだが、傍観者ぼうかんしゃのままでいたくはなかった。

「箱にありったけの医薬品をめてくれ。用意ができたらすぐに出発する。」

 もはや一刻いっこく猶予ゆうよもない。
 この救護所でも医薬品は不足しているのだが、それでも出せるだけの医薬品を箱一杯に詰めた。
 今生こんじょうの別れになるかもしれず、シェリング、ハルダー先生をはじめ、救護所のすべての者たちと握手あくしゅわした。

「それじゃ行ってくる。戻ってこなかったとしても探す必要はないからな。」

 医薬品を詰めた箱を背負せおうと救護所を出て、市内を南に向けてひた走った。
 赤十字せきじゅうじ腕章わんしょうをしているが、こんなものに命を預けるとは、私もどうかしてる。

 銃声や砲声があちこちから聞こえ、硝煙しょうえんと火災の煙が街全体を包み込み昼間でも薄暗うすぐらい。

 ドイツ軍の兵士がこちらへ向かって来るのが見えた。
 咄嗟とっさに近くにある建物の中に身を隠したのだが、何か様子がおかしい。
 人の気配がするような気がしてならない。


「誰かいるのか?」

「撃たないでくれ、私たちは避難民だ。」

 驚いた、そこには多くの子どもや老人がいた。
 市内の建物はことごとく破壊され、無人の瓦礫がれきと化してしまったように見えるのだが、壊れた建物の中には多くの避難民が息をひそめていたのだ。

「安心してください、ドイツ兵ではありません。」

 すると一人の老人がすがるような目で問いかけてきた。

「何か食べ物はないかね。」

「すまないが、今はこれしかない。」

 そう言って、ひときれのパンを渡すと、受け取った老人は孫であろうか小さな子どもにそのパンを食べさせた。

「この騒ぎが収まった時、彼らのうちのどれだけの者が生き残っているのだろうか。」

 もはや、彼らが頼れるのは運だけなのかもしれない。

 何とか南市街にある救護所にたどり着いたのだが、届けに来たのが日本人であることに驚いていたようだ。

「こんにちは。」

 一人の女性看護師が日本語で挨拶あいさつをしてきた。

「どうして日本語を…。」

 その女性は、私に素敵な笑顔を見せながら話してくれた。

「挨拶だけですけどね。20年以上前、シベリアにいた私は日本によって助け出されたのです。敦賀つるがという日本の港町を覚えていますよ。」

 そうか、ロシア革命のときに日本へやって来たポーランド孤児こじの一人なのだな。

「日本に助けてもらうのは、これで二度目になりますね。」

 彼女と私、二人とも思わず笑いが込み上げた。
 戦場らしからぬ光景であった。

「女性なのに、どうしてこんな危険な場所に。」

「私の祖国だから。」

「それだけですか。」

「それってとっても大切なことよ。少なくとも私には。」


 それまで考えもしなかった。
 たまたま生まれた国、それが祖国。
 そう考えていた。
 しかし、そこには愛する家族や友人が暮らしている。

 そうだ、そうなんだよ…。


 医薬品を渡して帰途につく間際まぎわ、そこにいる者たちが私を抱きしめてくれた。

「ありがとう、ドイツ軍に気を付けるんだぞ。」

「我々は絶対にここを離れない。」

「多分、もう会うことはないだろう。だが、死ぬなよ。絶対に。」

 ここにいるすべての者が悲壮な決意を固めていることが痛いほどに感じられた。
 もちろん、彼女も。

「あなたという日本人がいたことを、そして日本という国を忘れません。絶対に。」

「私の名は賢二。あなたの名は。」

「私の名はイレナ。」

「いい名前だ。」

「賢二、死んじゃ駄目よ。日本には待っている人がいるんでしょ。」

「イレナ…。あなたに会えてよかった。お元気で。」

「あなたも、必ず生きて日本へ帰るのよ。必ず。」

 イレナたちに見送られ、南市街の救護所を後にした。
 多分、彼らに会うことは二度とないだろう。
 しかし、生きてほしい、何としても生きてほしい。

 再びドイツ軍がいる地区を突破とっぱして、シェリングのもとへ向かうこととなったのだが、あと一息というところで、ドイツ軍の兵士に見つかってしまった。

「止まれ!」

 指揮官であろう将校しょうこう軍帽ぐんぼうには髑髏どくろ紋章もんしょう、軍服のえりにはSSエスエスの文字がある。
 ナチスの親衛隊しんえいたいだ。
 周りにいる兵士が銃をこちらに向けている。

「貴様、ポーランド人ではないな。何者だ。」

「日本人だ。ドイツの同盟国の者だ。」

 やっかいなことになった。
 よりによって親衛隊につかまってしまうとは。
 この連中に道理など通じないだろう。

「ここを通してくれ。私はあなた方に敵対する気はない。」

「敵対しなくても、敵とは仲がいいんだろう。どうなんだ。」

 へびのような目で親衛隊将校は私を見ていた。
 その目に恐怖を感じ、思わず走り出してしまった私に向かって親衛隊将校が叫んだ。

「止まれ、止まらんと撃つぞ!」

「ちくしょう、ここまでか!」

 もう駄目だめだと思ったその時、上空から甲高かんだかいサイレンのような音がした。
 次の瞬間、私の身体は吹き飛ばされ、一瞬だが気を失った。

「うう…、爆弾が落ちたのか…。」

 顔をさわると血が流れている。
 怪我を負ってしまったが、重症ではないようだ。

 あたりを見回すと、親衛隊将校が倒れている。
 他の兵士たちも吹き飛ばされ、生死も分からない。
 上空を見ると十字の印をつけた爆撃機が飛んでいる。
 ドイツ軍の爆撃機だ。
 市内各所に敵味方が入り乱れているのだから、爆弾が味方の頭上に降ってきてもおかしくはない。

「助けてくれ…。」

 声がする方を見ると、兵士が一人血だらけになって倒れている。
 何かできないかと駆け寄ってみたのだが、明らかに助からないとわかる状態だ。
 しかも、顔を見るとまだ子どもではないか。

 こんな子どもまで戦争にり出されているのか…。

「お母さん…。」

 そう言い残して、この若い兵士は目を閉じた。

「味方の爆弾でやられてしまうなんて、これも運なんだろうな。」

 その後のことはあまり覚えてはいない。
 どこをどうって帰ることができたのか。

 イレナも親衛隊将校も、そして死んだ若い兵士も、愛するものや信じるものがあるのだろう。
 それが、祖国なのか、家族なのか、はたまた思想なのか。
 そういった意味では同じなのかもしれない。

 これまでの自分は、何かを信じたことがあったのだろうか。

 でも今の自分は…。


しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…

しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。 高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。 数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。 そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

巨乳すぎる新入社員が社内で〇〇されちゃった件

ナッツアーモンド
恋愛
中高生の時から巨乳すぎることがコンプレックスで悩んでいる、相模S子。新入社員として入った会社でS子を待ち受ける運命とは....。

処理中です...