春の香り 夏のかたち

小谷野 天

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7章

雪虫

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 雪虫を飛ぶようになると、3日以内に雪が降ると言われている。
 厚い上着にくっついた小さな亡骸を手で払うと、少しずつ近くなってきた灰色の空を、夏希は見上げた。

 二学期の終わり。
 同級生達の進路が次々と決まっていく中、国公立を受ける秀才達と、中途半端な成績の宙ぶらりんの生徒達は、もどかしい時間を過ごしていた。

「城田、クリスマスどうするの?」
 青田が夏希に聞いてきた。夏希は青田の手をつねると、さくらの隣りの席に座った。
「夏希、青田くんかわいそうだよ。」
 さくらがそう言った。
「髪切りたいなぁ。」
 夏希はそう言って、机に耳をつけた。
「駅前の美容室は、一体いつになったら予約が取れるの……。」
 夏希はため息をついた。
「他にいいところ、教えてあげようか。」
 さくらはそう言ったが、夏希は首を振った。
「城田、邪魔。」
 廣岡がやってきた。
「ごめん。」
 夏希は席を立つ。
「おまえ、髪伸びたな。」
 廣岡が言った。
「そうだね。」
 夏希は居心地が悪くて、自分の席に戻った。

 終業式は午前中で終了した。
 バス停で待っていると、廣岡が前を通っていった。
 
 今年は1人なんだ。
 夏希はそう思った。
 部活があんな終わり方をしたとはいえ、廣岡はどこかのクラブチームで、練習を続けていると聞いた。 
 彼を囲んでいた女子達もいなくなり、すっかり口数が少なくなったせいか、最近は1人でいることの方が多くなった。
 
 廣岡の事が好きだったのかは、今でもよくわからない。会うとドキドキして言葉が出なくなるのに、突き放すような態度ばかりされているうちに、自分はただ廣岡という猛獣が怖くて、動けなくなっているのだろうと、思ったりもする。時々、見せる優しさに少しでも近づくと、危なく手を噛まれてしまいそうになり、なるべく自分の存在に気づかれないように距離を保った。

「城田。」
 青田が夏希の手を引っ張った。 
「何?バス来ちゃうよ。」  
「明日、9時にここで待ってるから。」
 青田はそれだけ言うと、バスが来るのと同時に帰っていった。

 次の日は大雪で、町中が先の見えない白い闇に包まれた。バスは運休になり、道路の除雪が追いつかないため、頼んでいたクリスマスケーキは、その夜に食べるができなかった。

 青田はあの日、どうしたのだろうか。
 あれから何も話さないまま、学校の授業は全て終了した。
 
 卒業の前の日。
 学校へ行く支度をしていた夏希に、
「送っていこうか?」
 母の依子はそう言った。
「いい。バスで行くから。」
「帰りは?」
「バスで帰ってくる。」
「最後の最後に忘れ物しないでね。」  
 母はそう言ってお弁当を渡した。
「今日は、お弁当いらないよ。」
「お昼から、髪、切ってきたら?学校の近くにある美容室は、予約なくても入れるって聞いたから。」

 夏希は母のいう美容室の前まで行ったが、結局、そのまま帰ってきた。食べてないお弁当が入ったカバンを手に抱え、そのままバスに乗った。

 バスが夏希の町の駅前を通ると、偶然美容室の扉が空いて、中から潤が出てきた。夏希は潤と目があった様な気がしたが、すぐに美容室にはお客さんがきて、潤は中に入っていった。
 3月の透明な空気は、まだまだ寒くて、手袋をしても、手の先が冷たい。夏希はバスの中でも手を擦り合わせ、美容室の窓から少し見える、潤の姿を目で追っていた。

 卒業式の日。
 校門の前に青田の姿が見えた。夏希に気がついた青田は、手を振って夏希の前にやってきた。
「おはよう。寒いね。」
 夏希は手を擦り合わせた。 
「学校決まったのか?」
「うん。」
「青田くんは?」
「俺も決まった。」
「城田、髪伸びたな。」
「そうだね。向こうに行ったら切ろうと思ってる。」
「俺は長い方が似合うと思うけど。」
「短い時にいろんな事があったから、きっとそう思うんじゃない?」
「本当にいろいろあったよな。」
 青田は夏希の頬をつねった。覚えているか、図書館の帰りの事。城田がつねった頬は、ずっと痛いまんまだよ。
「城田、飴あげようか。」 
「うん。」
 青田は飴を夏希に渡した。
「青田くん、またこれ?」
「城田、これ好きだろう。」
「今は違うよ。青田くんにもあげるよ。」
「この前の酸っぱいやつは、いらないよ。」
「違う、はいどうぞ。」
 夏希は薄荷の飴を青田に渡した。
「これ、スースーするやつだろう。」
「苦手だった?」
「食べるけど。」
 青田は口に入れると、ガリガリ飴を噛んだ。
「やっぱり、苦手なんだ。」
 夏希は笑った。
「おはよう。」
 廣岡が2人の後ろにいた。
「お前ら、最後まで仲いいな。」
 夏希は早足で教室に向う。

 教室に入ると、さくらが手招きをした。
「夏希、久しぶり。」
「おはよう。久しぶりだね。」 
「さくら、髪切ったの?」
「うん。潤さんに切ってもらった。」
「予約取れたの?」
「キャンセルが出たら教えてほしいって頼んでおいたら、運良く切ってもらえた。」
「いいなぁ。」
 夏希はさくらの髪を触った。
 私の髪は、潤さんが思い出を切って捨ててくれたのに、今度は潤さんの思い出が、私の髪を伸ばしていく。

 この町で暮らすのも残りわずか。
 
 夏希は潤がベースを教えている楽器店を、ウロウロしていた。店が忙しくなって、きっと趣味なんて後回しなのに、もしかしたら会えるかもしれないと思って、朝から本屋と楽器店の前のベンチを、行ったり来たりしていた。 
 結局、潤には会えなかった。夏希は駐車場を眺めながら、潤の事を思っていた。
 
 引っ越しの日。
「夏希、とうとう髪切らなかったね。」
 母がそう言った。
「そのうち切るよ。」
 夏希は母に言った。母の車に乗ると、駅の駐車場で母と別れた。入学式には来ると言っていたが、夏希の引っ越しは仕事が忙しく、ついていくのは無理だと言った。
 単身赴任の父は、また1年赴任が延びた。
  
 駐車場から潤の美容室が見える。
 夏希は振り向かず、駅に向かって歩いていった。今日も店の前には車が止まっていた。春休みに入ったので、きっとたくさんの女の子達が、潤に髪を切ってもらうのを待っているはず。
 これから放たれる冷たい川の水にも、少しずつ体が慣れていくはず。本当は潤さんがいる向こうの場所まで行ってみたいけれど、群れから離れる事はけっこう怖いよ。

「夏希ちゃん!」
 潤が店から出て、夏希を追い掛けてきた。
「久しぶりだね。新しい生活が始まるの?」
「そうです。潤さん、お店、忙しいそうですね。」
「そうだね。夏希ちゃんはずいぶん髪が伸びたね。」
「うん。」
「いつくるかなって、待ってたのに、このまま伸ばすの?」 
「……。」
 夏希は涙を堪えるのに、必死だった。
「潤さん、全部忘れた。」
 夏希は潤にそういって笑っているのが精一杯だった。
「それなら良かった。これから、新しい出会いが、きっとあるから。」
 潤は夏希の頭を撫でると、店に戻っていった。

「潤、どうしたの?」
 姉のさや香が潤に聞いた。
「ちょっと、忘れ物届けに。」
 潤はそう答えた。
「忘れ物なんか、あった?」
 さや香は不思議な顔をした。

 潤とさや香は2つ違いだった。早くに両親を亡くし、2人は子供のいない叔父夫婦の家で育った。さや香は5年前に結婚して男の子を産んだが、離婚して、突然、潤の所にやってきた。息子の颯《そう》がこの町を気に入り、いつの間にか、3人で一緒に暮らす事になった。
 
 あの時。
 川の底で迷っていたような夏希は、今は水の流れに沿って、気持ちよく泳いでいるようだった。夏希ちゃん、若い時に抱えた思い出は、そのうち逆流にも負けない力をつけてくれるよ。
 
 潤はドライヤーの風を止めると、丁寧に櫛で髪を梳かし始めた。
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