春の香り 夏のかたち

小谷野 天

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9章

夏のむこう

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 長袖をまくって腕に感じた風は、この前まで雨ばかり降っていた梅雨の湿った風とは違い、太陽から直接吹いてくるような、体の水分をあっという間に奪っていく、むし暑い空気に変わっていた。

 青田瞬と付き合ってから4年。

 2人とも就活の時期になり、こっちに残りたい青田と、地元に帰りたい夏希は、時々ケンカをする様になっていた。

「夏希だって、退屈だからあの町を出たんだろう。こっちに残って就職して、ゆくゆくは一緒に暮らそうよ。」 
 青田は夏希に言った。
「離れて暮らしても、時間を見つけて、青田くんに会いにいくから。」
「俺はそれが嫌なんだよ。これからいろんな人と会うだろうし、きっとそのうち気持ちだって、離れていくんだ。」
「私の気持ちは、何も変わらないよ。」
 夏希は青田を見つめた。
「夏希、こっちの会社に働けよ。俺、自信ないよ。高校を卒業した時だって、夏希ともう会えないと思っていたから、すごく辛かったんだよ。」
 夏希は首を振った。
「地元の教育委員会がね、職員を募集してるの。町の体育館を新しく建て替えるっていうし、小さい子達と、またバトミントンをやりたい。」
「それはこっちでもできるだろう。」
「違う。」
「何が?」
「いくらでも選べるこっちの子と、向こうの子は違う。」 
「じゃあ、俺達は終わりだな。離れて暮らすなんて、絶対嫌だから。」
 
 8月。
 夏希が内定通知をもらった頃から、青田とはほとんど連絡が取れなくなった。就職試験がどうだったのかも、青田からは何も聞いていないし、夏希も話す事ができないでいた。 

 4年間付き合った2人の終わりは、案外、何もないものなんだね。なかなか降りていない舞台の幕を、さっきからずっと下から眺めているようだ。私はどのタイミングで、どれくらい泣けばいいのだろう。

 ある日。
 夜中にアイスクリームが食べたくなり、コンビニへ行った。きっと夏風邪を引いたのだろう。食欲はなかったけれど、冷たいものが無性に食べたくなった。微熱がある中、コンビニで冷凍庫を覗いていると、青田が女の子と店に入ってきた。夏希は青田に見つからないように顔を伏せ、棚の影に隠れた。2人は楽しそうにお酒を買うと、腕を組んで店を出ていった。

 そっか。私、振られたんだ。

 家に帰り、溶けかかったアイスクリームを食べると、喉が痛くて、なかなか飲み込めなかった。きっと、涙のせいじゃなくて、風邪のせいだ。
 夏希は布団を被り、声を押し殺して一晩中泣いた。

 次の日。
 青田は何もなかったように夏希の部屋にきた。鼻声で、目が腫れている夏希を見て、
「風邪でも引いたの?」
 青田は夏希の隣りに座った。
「うん。伝染るから、帰った方がいいよ。」
「俺、内定もらった。」
「おめでとう。」
「夏希もこっちに残れよ。やっぱり夏希と一緒にいたいんだ。」
 青田は夏希の服を脱がせようとした。
「青田くん、私も内定もらったの。ワガママ通してごめん。」
 夏希は青田の手を止めた。
「俺の7年分の時間、全部お前に捨てられたわ。」
 青田はそう言って、部屋を出ていった。

 長引いた風邪が治り、友人のトモカと卒業式に着る袴を選びに行った。 
「夏希、髪はどうするの?」
「どうしようかな。」
「このまま切らない方がいいね。アップも流すのも、どっちもできるし。」
 トモカはそう言って夏希の髪を触った。
「切りたいなぁ。乾かすのめんどうだし。」
 夏希はそう言って毛先を顔の近くに持ってきた。
「夏希の髪、なんか重そうだよね。染めてみたら?」
 夏希は首を振った。
「トモカはどうするの?」
「私はアップにするの。だから、伸ばしてる。」

 大学に4年間は、青田が長い髪が好きだと言っていたので、毛先を揃えるだけで過ごしてきた。特定の美容室は選ばず、友人から聞いた所を、転々と移った。

 2年前、成人式であの町に帰った時。
 潤の店で働いている女性が、古くから町にある、美容室の先生のサポートとして、着付けや髪結いを行っていた。物腰の穏やかなその女性は、夏希の事を、なぜか美里ちゃんと呼んだ。
 潤の店は相変わらず混んでおり、お節介な町のご婦人達は、店が休みの日や早朝に、自分の畑で採れた野菜や果物を潤に届けては、特別に髪を切ってもらう事もあるようだ。ご婦人達のそんな無茶な頼みにも、嫌な顔ひとつしない潤は、いくつかお見合いの話しや、娘さんを紹介されたりしている様で、その都度一緒に働いている女性が、丁寧に断っているそうだ。
 就職試験で帰省した時、家に野菜をもってくる木下のおばちゃんが、母とそんな話しをしていた。

 もうすぐ、あの町に帰る。

 退屈だから出てきたのではなく、中学を卒業した私達は、心太の様に違う形になって押し出されただけ。
 本当は、あの町でこのまま暮らしていたかった。
 
 青田くん。
 私はずっと騙していたのかも。あなたの事を好きな様で、自分が暮らしてきた町の思い出にしがみついていた。高校の頃から一緒だった青田くんといると、捨ててきたはずのいろんなものが、ひとつひとつ色づいていく事が嬉しかった。
 私は青田くんを見ていた様で、自分が好きなたったひとつの色を、思い出のごみ箱の中から、ずっと探し続けている。
 ごめんね。
 その色は、青田くんじゃないとはわかっていても、青田くんがくれるたくさんの優しさが、心地よくて寄り掛かった。私は少し、青田くんの後ろで休み過ぎた。青田くんが先に泳いでくれたおかげで、ずいぶん遠くまでやってこれたよ。
 青田くんのくれた笑顔が、入道雲の様に広がって、太陽を隠すのはいつだろう。冷たくて、強い雨と風が私に降り注いだら、みんな水の泡になって散り散りと違う所へ流れていくんだよね。
 もう少し大人の言う大人になれたら、川の底で身を寄せ合って、嵐が過ぎるのを待つ事もできたのに。

 夏希は潤の店に電話を掛けた。
 女の人の声がして、予約はすぐには取れないと言った。
「いつなら、予約できますか?」
「何か用事があるのかな?」
「家に帰った時に、髪を切ってもらいたくて。」
「こっちに帰省してくるのね。ちょっと待って。」
「もしもし、」
 潤の声がした。 
「あの、」
 潤の声に夏希は言葉に詰まる。
「もしかして、夏希ちゃん?」
「潤さん、あの、」
「明日の夜は来れる?」
「いいんですか?」
「19時に店においで、待ってるよ。」
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