春の香り 夏のかたち

小谷野 天

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10章

雨上がり

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 どこから入って来たのか、家の中にいるてんとう虫は、赤い背中を見せる事なく、ひっくり返って足をもたつかせていた。
 夏希は指でひっくり返すと、赤い背中が、ちょこちょこと部屋の中を歩き回った。

 困ったなあ。これから家に帰る時に。

 夏希はてんとう虫をそのままにすると、急いで父の待つ車へ向かった。
「夏希、教育委員会に入るんだって。」
「うん。」
「今は不登校やイジメとか、学校だけで手に負えない事ばっかりだ。お前が思っている以上に大変だぞ。」
「お父さん、それは都会の話しでしょう。」
「そういう問題はどんな小さな町にもあるんだよ。まあ、ありきたりな言葉しか掛けられないけど、頑張りなさい。」

 3年前、単身赴任から戻ってきた父は、久しぶりに母と一緒に暮らしていた。
 相変わらず忙しい2人だが、夏希は自分が家を出ても、母が1人にならなかった事に、正直ホッとしていた。
 
 来年の4月には、またここで暮らすんだ。

 あの町の景色はまだ見えないのに、夏の気まぐれな風が、緑のジュータンをサワサワと揺らしている音が、夏希の耳に聞こえてきた。

「お父さん。今日、髪を切りに行ってくるから。」
「どこに?」
「駅前の美容室。」
「そうか。昔、夏川さんがやっていた所だな。」
「そうなの?」
「婆さんが始めた美容室だったけど、お嫁さんが手伝っていてね。婆さんが店に立てなくなってから、店を閉めたんだよ。娘さんも2人いたらしいけど、1人は東京で通り魔に襲われて亡くなったって、木下のおばちゃんから聞いた。」
「木下のおばちゃん、何でも知ってるからね。」
「予約取れたのか?すごく混んでるって有名だから。」
「19時に来てもいいって言ってくれたの。」
「そうか。遅い時間に申し訳ないな。小学生の息子さんがいるって言うから、何か買って行きなさい。」
「お父さん、詳しいね。」
「そりゃ、会社の若い子達からいろいろ聞くからなな。」
 父は道沿いのドーナツ屋に寄った。

 19時。
 夏希は店のドアを開ける。 
 成人式で会った女性が、男の子を連れていた。
「美里ちゃん?」
「城田です。」
「ごめんなさい。美里ちゃんかと思った。潤、お客さん。」
「あの、これ、どうぞ。」
 夏希は男の子にドーナツを渡した。
「ありがとう。」
 男の子は箱を覗いた。
「食べてもいい?」
 女性に聞いている。
「家に帰ったらね。それじゃあ。」
「バイバイ。」
 
 潤が奥から出てきた。
「久しぶりだね。」
「遅い時間なのに、すみません。」
「いいよ。その方がゆっくり話しができるだろう。」
 あの頃と同じ、笑顔の潤がいた。
「今日はどうする?」
 潤はそう言うと、夏希が髪を結んでいるゴムをほどいた。
 髪を梳かしながら、鏡に映る夏希を見る。
 夏希は青田との思い出が溢れてきた。
 忘れてしまえば楽になるのに、本当は忘れたくないと、夏希の心は、青田の面影から手を離そうとしない。
 涙の雫が、水色のケープの上に落ちた。
「夏希ちゃんが髪を切る時は、忘れたい何かがある時だね。」
「そうかも。」
 夏希は涙声で笑った。
 潤は夏希の涙をタオルで拭くと、

「わかった。全部、忘れさせてあげるから。」

 そう言って髪を切り始めた。

 何も聞かないで黙々と髪を切っていた潤は、突然手を止めた。
「夏希ちゃん、飴食べなよ。俺も食べるから。」
 そう言って、夏希に飴を渡すと、潤は飴を口に入れた。
「ごめん、少し喉がイガイガしててさ。」
 潤はそう言って笑った。
 夏希は潤がくれた飴を見て、また涙が止まらなくなった。
「どうした?この飴、嫌いだった?」
 潤は夏希の顔を覗いた。
「この飴をよくくれた人に、振られました。」
 夏希の飴を潤に見せた。
 潤はその飴を夏希の手が取ると、代わりに別の飴を夏希に渡した。夏希はそれを口に入れると、
「酸っぱい、これ。」
 夏希はそう言って顔をしかめた。
「だんだん甘くなってくるから。」
 潤は夏希を見て笑うと、また髪を切り始めた。

「俺も大切な人を亡くしてね。」
 潤は話し始めた。
「姉さんが、夏希ちゃんを見て間違える様に、なんとなく、夏希ちゃんが彼女に見えるんだ。」
「さっきの女の人、潤さんのお姉さんだったの?」
「そうだよ。夏希ちゃん、誰だと思ったの?」
「潤さんのお嫁さん。」
 潤は大笑いした。
「元々、俺の育った叔母の家も美容室をやっていてね。姉さんも免許を持ってたけど、しばらく人の髪を切った事がなかったんだよ。ここの店にくる小さい子の髪を、安く切らせてもらう事にして、慣れてきたと思ったら、いつの間にか、親子連れが増えてね。最近は町の美容師さんにも着付けを教えてもらって、この前は結婚式のお手伝いもさせてもらった。姉さんはこの町に、もうすっかり溶け込んでいる。」
「あの男の子は?」
「姉さんの息子。離婚してこっちにやってきた時、あの子がここに住みたいって言い出したんだ。俺と姉さん達とは、ここで一緒に暮らしていたんだけど、今は結婚して、別の場所に住んでるよ。」
「そうだったんですか。」
「夏希ちゃんの勘違いは度を超えてるね。」
「そうですか?」
「彼氏とも、そうやって勘違いをして別れたんじゃないの?」
「どうかな。」
 夏希は下を向いた。
「好きだったんだね。」
 潤はそう言って、夏希の顔を上に向かせた。
「潤さんは好きな人と離れていても平気?」
「正直、自信がない時だってあるよ。どこにいても気持ちが離れない2人なら、それはもう運命なんだろうね。」 
「潤さんの話しは、小説みたい。」
「夏希ちゃん。」
「何?」
「少し染めようか。」
「いいんですか?」

 濃い紅茶の色に染まった夏希の髪は、光りの角度によって、表情を変えた。
「すっかり、遅くなったね。送って行くから。」
 潤は夏希の切った髪の毛をホウキで集めていた。
「もう、泣かないの?」
 夏希の髪の山を見せた後、潤は夏希の顔を見た。
「泣きません。」
 夏希はそう言って微笑んだ。
「潤さん、今日はどうもありがとう。」
 夏希は会計を済ませ、店を出た。
 店の電気が消え、潤が出てきた。
「前にも言ったけど、女の子が1人で夜の道を歩くのは心配になるんだよ。」
「大丈夫。この町はもう誰も外に出ていないから。」
「ダメ、送っていくから。」
 2人は歩き始めた。
「潤さん、今もベースを教えてるの?」
「教えているよ。週に1回だけね。」
「ベースって、どんな音がなるの?」
「そうだなぁ、心臓みたいな音っていえばいいかな。」
「ドクドクするの?」
「そう。曲に血を流す音。」
「どうして、ベースを始めたの?」
「かっこいいだろう、ベースやってるやつなんかあんまりいないしさ。」
「ねぇ、どんな曲を弾いているの?」
「聞かせてあげるよ。携帯教えて。」
 潤は夏希にラインを送った。
「後で曲を送るから。」

 携帯をカバンにしまって、顔をあげた夏希の横顔が、美里に見えた。
「美里。」
「私は美里じゃないよ。お姉さんも間違えてるけど、美里さんって、誰なの?」
「そうだったね、夏希ちゃんは夏希ちゃんか。」
「星、こぼれそうだよ。町が真っ暗だから、そう見えるんだね。」
 夏希は空を見上げた。
「忘れる魔法覚えてる?」
 潤は夏希にそう言った。
「なんだっけ、それ。」
 恥ずかしがって逃げる夏希に、潤は近づいた。
「夏希ちゃん、俺に魔法かけてよ。」
「えーっ、」
 夏希は照れて下を向いた。
 潤は夏希の肩に手をおくと、静かに目を閉じた。
 夏希は潤の首に手を回し、精一杯背伸びをして、潤の唇に近づいた。
 夏希の唇が自分の唇に触れると、潤は夏希を抱きしめて、強く唇を重ねた。
 
 長い間、ずっと美里の帰りを待っていた気がする。
 もう、帰ってこないとわかっていても、小さな影が見えてくると、心は影を迎えに走る。
 美里を忘れる事なんて、できやしない。
 だけど、掴もうとしていた影の上に、優しい雨が降り注いだら、影は俺の足元で、溶けて消えていくだろう。

「夏希ちゃん、俺も逃げていいかな。」
「いいよ。」
 夏希は潤の胸の中で、少し早くなっている鼓動を聞いていた。

 家に帰ると、潤から曲が送られてきた。
 どこかで聞いた事があるメロディを、夏希は何度も繰り返し聞いた。
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