夏のかけら

小谷野 天

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6章

左手の言い訳

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 突然の雨だった。
 朝方に鳴り響いた雷は、一瞬電気がついたかと思うくらい閉じた目さえ明るくすると、ものすごい音と共に地面まで揺らした。
 ピーピーという電化製品の電子音が聞こえる。
 近くに落ちたんだ。
 凪は玄関に行き、下向きになっているブレーカーを上に上げた。
 正常な空間にいる事が確認できると、ホッとしてまた布団に潜り込んだ。

 いくらか小雨になったのか、町を冷やすような冷たい雨の中、車のワイパーを全開にして仕事へ向かった。
 職場へ着くと、正面にあるエレベーターの前にいた人が、わざわざ振り返って凪に言った。
「エレベーター、止まってる。」
 仕方なく3階まで階段で駆け上がる。
 息を切らしながらやっと着いたフロアでは、パソコンの前で課長が腕を組んでいた。
「仕事にならん。」  
 課長はそう言うと、誰かに電話を掛けていた。
「課長、電話も無理です。」
 係長はそう言って、受話器を持つ課長のそばに駆け寄った。
「ダメだ、ぜんぜん繋がらない。」
 課長は何度も、受話器を置いては耳に当てている。
 自然が起こす気まぐれないたずらの前では、人は無力だ。
 凪は動かないとわかっていても、いつものようにパソコンを開いた。
「中のデータ、飛んでなきゃいいけど…。」
 後ろの席の主任は、キーボートを力強く叩いている。
「お前ら、静かにしろ!」
 課長が苛ついて大声を上げた。
「係長、俺と一緒にきてくれ。」
 課長と係長はフロアからいなくなった。
「凪さん、このまま帰れたらいいですね。」
 羽田はさっきから嬉しそうに椅子回転させている。
 少ししてから、課長と主任が戻ってきた。
「復旧の目処は立たない。派遣は帰宅。職員はこれから書類整理だ。いらない書類は段ボールにつめて、まとめて焼却場へ持っていく。主任、ここからはお前が仕切るんだ。段ボールは総務が用意するそうだから、数人で2階に取りにいくように。係長、俺達はもう一度会議室に行くぞ。」
 課長は凪の足の方をチラッと見た。
「渡会、お前は資料室を片付けろ。」
 そう言うと返事も聞かず、フロアを出ていった。
 凪はため息をついて階段を降りていく。
 あ~あ、スカートでも履いてくれば良かったな。
 地下室に着くと、湿気の多い廊下をトボトボと資料室へむかって歩いた。
 
 高い棚が並ぶ資料室は、古い紙の匂いが立ち込めている。各課から1人ずつ選ばれた職員は、棚の上にある古い資料を段ボールへ詰めていた。
「渡会。」
 作業服を着た平岡の肩を叩いた。
「平岡さんもここだったんですね。」
 作業服姿の平岡は、いつもより男らしい印象を受ける。
「俺は背が高いからって選ばれたけど、チビの渡会は、何でここなんだよ。」
 平岡はそう言って凪の頭を掴んだ。
「課長の命令ですから…。」 
 凪はそう言って苦笑いをする。
「こういう時、スカートでも履いていたら良かったのにって、本気でそう思うだろ?」
「本当ですね。本当にそう思います。」  
 平岡は凪のズボンの横を引っ張ってみせた。
「そんな事言ったって、渡会はスカートなんて持ってるのか?」
 近過ぎる平岡から凪が離れる。
「スカートくらい、持ってますよ。履く機会がないだけです。」
 凪は脚立を指さして、平岡に早く登るよう訴えた。
「わかったよ。下でしっかり支えてろよ。」
 平岡はスルスルと脚立に登ると、棚の上から古い資料を凪に渡した。
 同じ動きを繰り返しているうちに、段ボールがいっぱいになり、凪は新しい段ボールを取りに総務課へむかった。 
 急いで空の段ボールを持って資料室に凪が戻ると、平岡の横で作業をしていた男性職員が、重たい資料を下に落としそうになった。男性はその資料に手を伸ばそうとして、グラグラと脚立の上でバランスを崩し、隣りの平岡の作業服につかまった。

「痛ってぇ~。」 
 脚立から落ちた平岡の右手は、見る見るうちに腫れ上がった。
「大丈夫か?」
 そこにいた皆が平岡が倒れている近くに集まる。
「…、なんとか。」
 平岡は痛みを必死で堪えているけれど、きっとこの状態は骨折しているに違いない。
「病院行くしかないな。」
 近くにいた年配の男性が、平岡を起き上がらせた。
「渡会さんが付き添って。」
 男性はそう言って、凪を見た。
「えっ、私?」
 平岡は凪にむかって、頼むという様に左手を顔の前に立てる。

 会社から一番近い整形外科までタクシーでむかった
。病院に入ると、受付をするのにも、レントゲンを撮るのにも、平岡は凪を頼った。
「奥さまも一緒に。」
 そう言って診察室へ案内された凪は、クスクス笑う平岡の顔を冷たい目で見た。
「折れてますね。手術まではしなくてもいいでしょう。ギプスで固定しますから。」
 医者はそそくさと診察を終わらせた。
 ギプスを巻かれた平岡は、痛みが少し和らいだのか、凪の隣りに笑顔で座った。
「治るまで、渡会が介護してくれよ。」
 平岡はそう言うと、凪の手をギュッと握った。
「真姫ちゃんにお願いしてください。」
 凪は恥ずかしくなり、平岡の手を離して顔を反らした。
「だってさぁ、下にいるお前を避けるために、俺はこんな事になったんだぞ。」
 平岡は骨折している腕を指さした。
「そうでしたか。それは、お気の毒に。」
 平岡から預かった財布で、凪が代わりに会計を済ませた。
「俺の要求を全部クリアしたら、指輪でも買ってやろうか?」
 さっきからふざけている平岡を無視して、凪は玄関に止まっていたタクシーまで走っていく。その後ろをタラタラと歩いている平岡に、
「早く帰りましょう。」
 ため息混じりに凪が言った。
「昼めしでも食べていこうか。」
 タクシーの中でも、右手を見せながら平岡は笑顔でいる。
「お腹減ったんですか?」
 凪は平岡に冷たくした。
「俺、箸に使えないからさ、渡会が食べさせてよ。」
 平岡はさっきから楽しそうだった。
「左手を使う練習をしてください。あっ、そっか、これでバトミントンもしばらくお休みですね。」
 凪は渡会との約束を思い出した。
「お前、なんか嬉しそうだな。これで心置きなく双子の兄とバトミントンができるって、安心してるだろう。」
 平岡の言葉は図星だ。
「双子の兄じゃ、ありません。」
 口答えしながらも、顔の筋肉が強張り、平岡に気持ちを見透かされててしまう。
「じゃあ、運命の相手か。」
 今日の平岡はずいぶんとしつこい。
「何回も言ってますよね、ただの同級生。」
 凪は平岡を横目で見た。
「なら、こっちの方が運命かもな。」
 平岡がまた右手を見せる。
「困ったなぁ。これじゃあ着替えもできないわ。」
 平岡は自分を庇って怪我をしたのだから、身の回りの世話をしてくれとアピールしているのか。
 凪は何も言えず俯いた。
「冗談だよ。渡会をからかっただけだって。」
 平岡は凪の機嫌とった。

 会社に戻ると、停電はまだ続いていた。復旧まではもう少しかかると言われ、すでに家に帰っている職員もいた。
 資料室の整理も、ある程度目処がつき、段ボールがいくつも積み上げられている。
 右腕を吊っている平岡の前に、たくさんの人が集まってきた。
 脚立の上でよろけ、渡会が骨折する原因を作った男性もやってきて、渡会に何度も頭を下げている。
 凪は積み上げられた段ボールを台車に乗せているのを男性を見て、黙って同じ様に台車へ段ボールを運んだ。
「悪いね、渡会さん。女の子にこんな事させちゃって。」
 男性は額の汗を手で拭いながら言った。
「いえ、遅れてすみません。」
 凪の額にも汗がにじむ。
「あとは焼却場に持っていくだけだから、渡会さんはこれで帰ったらいいよ。」
 男性は首に掛けたタオルで顔全体を拭った。
「私も行きます。」  
 凪が台車に手を掛けると、
「そんな事、させられないよ。」
 その人は若い男性の名前を呼んだ。数人がこっちを見ると、名前を呼ばれた男性と幾人かが、やってくる。
「さっさと、終わらせて帰ろうぜ。」
 男性達はそう言うと、凪は黙って自分のフロアへむかった。
 階段を登る途中で、課長とすれ違う。
「お前、まだいたのか?他の奴らはとっくに帰ったぞ。」
 凪はそう言われた。
 結局、どこの場所にも存在する事ができない自分は、どんなに強がって仕事をしても、なんの意味もなかったって事か。
 悔しくて、心がだんだんと熱くなってきたけれど、またそれが意地になり、凪は自分の席の引き出しを片付け始めた。
「帰ってもいいんだよ。」
 一人残る主任が言った。
「段ボールってまだありました?」
 凪の声は少し震えていた。
「まだあるよ。」
 主任は書類を詰めかけていた段ボールを指さした。
「今から段ボールに詰めても、さっき焼却場へ持っていっちゃったからね。このゴミは当面資料室で眠る事になるね。」
 凪は時計を見た。
「16時までに焼却場へ持っていけば、今日のものになりますよね?自分で行きます。」
「まぁ、そうだけど。渡会さん、今日は帰りなよ。」
 主任はたしなめるように凪に言ったが、凪は話しを聞かなかった。黙々と段ボールに机の中のいらない書類を詰め始める。
「おい、渡会。平岡が探してたぞ。」
 課長がやってきた。
「そうですか。」
 誰とも目を合わせない凪の様子がおかしい思ったのか、課長は凪に気を使って声を掛ける。
「帰っていいぞ。お前、昼ご飯もまだなんだろう?」
 凪は手を止めて、課長を見た。
「これをやってから帰ります。」
 呆れ返った様な課長から目を反らし、凪はまた書類を片付け始めた。
 私の仕事の効率が悪いのは、こんなにデスクがぐちゃぐちゃだからなんだろうな。会社だって、ゴミみたいな存在の私を、とっととどこかへやってしまえばいいのに。
 いらない書類を捨てる度に卑屈になっていく自分が情けなかった。
「渡会、帰るぞ。」
 何も知らない平岡が迎えにきた。
「そうだ、渡会。平岡を家まで送っていけよ。この手じゃ運転できないからな。」
 主任はそう言ったが、
「ごめんなさい。このあと用事があるので、無理です。」
 凪は断った。
「意地っ張りだな。本当、可愛げのないやつだ。」
 課長は苦笑いして平岡の肩を叩いた。
「俺が送るよ。渡会、最後はお前だからな。フロアの電気消しておけよ。」
「わかりました。」
 何言ってんの?どうせ、電気なんかつかないのに。
 凪はわざとに電気のスイッチの方を見た。ハッとした課長と主任は、気まずそうに平岡とフロアをあとにした。

「あいつは本当に冷たいやつだな。」

 課長の言葉が、下を向いている自分の耳にはっきりと届いた。
 3人の背中をジロッと見つめた凪は、胸にグッサリと刺さったトゲを抜こうとした。
 頑張れば頑張るだけ、穏やかなものから離れていく。結局、抜けないトゲは、自分の身体の一部として、周りに見せて歩いていくしかないのか。
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