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8章
束ねた髪
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朝方に少し眠っただけの瞼は、重くて前を向くことができない。
山岡が来ると言ったので、パジャマから着替えた結衣は、ため息をつきながら眼鏡を掛けた。ボサボサの髪を後ろで束ねると、なるべく早く話しを切り上げようと、会話のパターンを考えていた。まず、ここではなくて、別の場所へ案内しようか。人がいる場所で話す方が、そんなに話しは長くならない。だけど、誰かに見られたら、なんて噂されるかわからないし…。あれこれと考えているうちに、玄関のチャイムがなった。
「よう!入るぞ。」
山岡は部屋に入ってきた。
「ちょっと、待って。外で話そう。」
結衣がそう言うと、
「ちょっと込み入った話しだし、ここでいいだろう。コーヒーでも入れてくれよ。」
山岡はテーブルの前に腰を降ろした。
「勝手ですね。インスタントでもいいですか?」
「いいよ。」
結衣は山岡の前にコーヒーの入ったマグカップを出した。
「少しは女らしくなったのかと思ったけど、ぜんぜん変わらないな。」
山岡はそう言った。
「そんなに急には変わりませんよ。」
「城田とは、どれくらいの頻度で会ってるんだ?」
「山岡さんには関係ない。」
「ぜんぜん会ってないんだろう。それって付き合ってるって言えるのか?」
「城田さん、なんで本庁から支所に来たんですか?」
「もう、その話しをさせるのかよ。少しは渋谷の話しを聞かせろよ。」
「課長、異動になったんですね。」
「また話しをそらす。そうだよ、異動。影山も一緒に地獄の病院事務へ異動。看護部長は女にはキツイからなぁ。影山も勝負かけないと。」
「山岡さんは、昇格ですか。」
「まぁな。俺も今年は37だよ。まあ、役所的には早い方の昇格だよな。俺、けっこう優秀だと思うけどね。」
「それはおめでとうございます。」
「あとはお嫁さんを見つけるだけだよ。」
「結婚相談所にでも行ったらどうですか?優秀な男性なら、すぐに相手が見つかると思いますよ。」
「渋谷は冷たいな。そういう渋谷のタイプって、やっぱり城田みたいな器用なヤツなのか?」
「城田さんって、山岡さんから見ても器用だと思いますか?」
「ああ。人当たりは上手だよな。仕事も早かったし、生活保護担当なんかじゃなかったら、出世していく人材だったんだろうな。」
「城田さん、生保担当だったんですか?」
「そうだよ。渋谷は知らなかったのか?」
「知りませんでした。」
「城田は福祉の大学だっただろう。それで生保担当になったんだよ。たしか、渋谷も同じ大学だったよな。」
「そうです。」
「初めは上手くやってたんだよ。1人で動けるようになるのも早かったし、仕事もスマートだったからな。だけど、初めての年末に、城田が担当していた母子家庭の母親が、小学1年生の息子を刺して殺してしまったんだよ。母親は鬱病だったみたいでさ。城田が訪問したその日の夜の事だ。」
「そんな話し、悲し過ぎる。」
「城田を責めたって仕方ないけど、上の連中は城田を責めるしかないだろう。なんで見抜けなかったんだってさ。」
一緒にいたのに、何も話してくれなかった城田は、やっぱり自分を受け入れている様でそうではなかったのかな。
「そんな事…、」
「本当だよ。城田は普通に仕事してただけなんだし。」
結衣は城田が無理して作っている笑顔を思い出すと、辛くなった。
「知らなかった。」
「城田はこの先もずっと自分を責め続けると思うぞ。本庁には戻って来たくないだろうし、たぶん派遣が終了したら辞めるだろうな。」
「…。」
「渋谷、腹減ったなぁ。この辺なんか食べる所あるか?」
「コンビニでいいですか?」
「おい、それはないだろう。ちょっと出ないか。ここにくる前に気になる所があったから。」
山岡は結衣を外へ連れ出した。こんなに重い話しを聞いた後、正直何も食べたくなかったけれど、山岡と2人きりで部屋の中にいるのも、なんだか落ち着かなかった。
「渋谷、少し痩せたか?」
運転席の山岡がそう言った。
「ぜんぜん。」
「渋谷は元々、食べる事に興味ないもんな。」
「そんな事ないです。今はちゃんとお弁当作ってるし。」
「それは食堂や売店がないから仕方なくだろう。」
「まぁ、それもありますけど。」
「こんな田舎で、毎日何やってるんだ?」
「何もやってませんよ。でも、1年はあっという間でした。」
「1日は長く感じるのにな。」
「本当ですね。」
2人はそば屋に入った。結衣は油の匂いが少し胸をついた。
「天ざる2つ。ひとつは大盛りで。」
山岡が注文をした。結衣は店員が厨房へ戻った後、
「山岡さん、私、天ぷらダメかも。」
そう言って胸をさすった。
「なんだ、つわりか?」
「馬鹿言わないでください。」
「城田の誘いは逃げなかったんだ。」
「何言ってるんですか。これはただの胸焼けです。」
「残すなよ、もったいなから。」
「もう、意地悪ですね。」
山岡は結衣が食べきれないでいると、結衣の御膳と空になった自分の御膳を取り替えた。
「ありがとうございます。優しいところもあるんですね。」
「渋谷、一言多いぞ。」
山岡が言った。
車に戻ると、
「渋谷、支所まで案内しろよ。」
山岡が言った。
支所まで行くと、山岡は車を降りた。
「けっこう広いんだな。」
「中に児童館とか入ってるからね。」
「そっか。」
「中も見る?」
「いいのか?」
「うん。こっち。」
結衣は職員玄関から中へ入った。警備の人に挨拶をすると、山岡を自分の席へ案内した。
「残業、あるのか?」
「ほとんどないですよ。」
「本庁の事なんて忘れたか?」
「本庁が私の事を忘れたんですよ。」
結衣はそう言って笑った。
「あと1年だけ待ってやる。城田とちゃんと別れろよ。」
「はぁ?」
「まぁ、黙ってても別れるだろうと思うけど。」
結衣を家の前まで送った山岡は、
「渋谷、待ってるのって辛いだろう。」
そう言った。
結衣は答えられず下を向いた。
「俺はもう2年近くも待ってるし、また1年、待たなければならないんだよ。」
山岡は結衣の手を握った。
「城田が抱えたものを渋谷は軽くできるのか?」
「…。」
「ずっと待ってても、お前じゃ城田を支えられないって。」
「わかってますよ。だけど、どうしようもないから。」
「なんでそんなに悲しい恋愛してるんだよ。」
「なんででしょうね。」
「傷が深くなる前に、あいつとは別れろよ。」
「山岡さん。たぶんね、城田さんとの事が終わったら、私はもうずっと1人でいるつもりです。」
結衣は山岡の手を離した。
「意味わかんないよ。もっと、楽に考えればいいだろう。恋なんか突然始まってしまう事だってあるんだし。」
「私にはそれはないです。」
「渋谷、お前は下手くそな生き方をしてるな。」
「山岡さんもですよ。今日はごちそう様でした。」
結衣はそう言って山岡の車を降りた。
「気をつけて。」
「また、連絡するから。」
「はい。」
山岡に手を振り、車が見えなくなるのを確かめると、結衣はずっと気持ち悪かった胸をさすった。
春はまだこないね。
伸び切った冬の毛にまとわりついた雪は、体を震わせる度に氷の雫になって音を立てている。
待ってるしかない。
何度も同じ景色を見ても、明日はきっと違う景色に会えると思って眠りにつくしかないんだよ。
夏が終わる頃には、城田からの連絡は来なくなった。
時々くる、山岡からの電話では、まだ別れないのかとよく聞かれた。連絡が来なくなった事を隠していたが、山岡にはそれがわかっているようだった。
「いい加減、振られたって気がつけよ。」
山岡の言葉がぐさりと胸に刺さった。
「はっきりした事、言われていないし。」
結衣が思わずそう言うと、
「やっぱり、うまくいってないんだな。」
山岡が言った。
「そんなに好きなら電話でもなんでもすればいいだろう。嫌われたくないなんて、そんなに気を使う相手なら、友達以下の関係だろう。」
山岡の言っている事は図星だった。
山岡が来ると言ったので、パジャマから着替えた結衣は、ため息をつきながら眼鏡を掛けた。ボサボサの髪を後ろで束ねると、なるべく早く話しを切り上げようと、会話のパターンを考えていた。まず、ここではなくて、別の場所へ案内しようか。人がいる場所で話す方が、そんなに話しは長くならない。だけど、誰かに見られたら、なんて噂されるかわからないし…。あれこれと考えているうちに、玄関のチャイムがなった。
「よう!入るぞ。」
山岡は部屋に入ってきた。
「ちょっと、待って。外で話そう。」
結衣がそう言うと、
「ちょっと込み入った話しだし、ここでいいだろう。コーヒーでも入れてくれよ。」
山岡はテーブルの前に腰を降ろした。
「勝手ですね。インスタントでもいいですか?」
「いいよ。」
結衣は山岡の前にコーヒーの入ったマグカップを出した。
「少しは女らしくなったのかと思ったけど、ぜんぜん変わらないな。」
山岡はそう言った。
「そんなに急には変わりませんよ。」
「城田とは、どれくらいの頻度で会ってるんだ?」
「山岡さんには関係ない。」
「ぜんぜん会ってないんだろう。それって付き合ってるって言えるのか?」
「城田さん、なんで本庁から支所に来たんですか?」
「もう、その話しをさせるのかよ。少しは渋谷の話しを聞かせろよ。」
「課長、異動になったんですね。」
「また話しをそらす。そうだよ、異動。影山も一緒に地獄の病院事務へ異動。看護部長は女にはキツイからなぁ。影山も勝負かけないと。」
「山岡さんは、昇格ですか。」
「まぁな。俺も今年は37だよ。まあ、役所的には早い方の昇格だよな。俺、けっこう優秀だと思うけどね。」
「それはおめでとうございます。」
「あとはお嫁さんを見つけるだけだよ。」
「結婚相談所にでも行ったらどうですか?優秀な男性なら、すぐに相手が見つかると思いますよ。」
「渋谷は冷たいな。そういう渋谷のタイプって、やっぱり城田みたいな器用なヤツなのか?」
「城田さんって、山岡さんから見ても器用だと思いますか?」
「ああ。人当たりは上手だよな。仕事も早かったし、生活保護担当なんかじゃなかったら、出世していく人材だったんだろうな。」
「城田さん、生保担当だったんですか?」
「そうだよ。渋谷は知らなかったのか?」
「知りませんでした。」
「城田は福祉の大学だっただろう。それで生保担当になったんだよ。たしか、渋谷も同じ大学だったよな。」
「そうです。」
「初めは上手くやってたんだよ。1人で動けるようになるのも早かったし、仕事もスマートだったからな。だけど、初めての年末に、城田が担当していた母子家庭の母親が、小学1年生の息子を刺して殺してしまったんだよ。母親は鬱病だったみたいでさ。城田が訪問したその日の夜の事だ。」
「そんな話し、悲し過ぎる。」
「城田を責めたって仕方ないけど、上の連中は城田を責めるしかないだろう。なんで見抜けなかったんだってさ。」
一緒にいたのに、何も話してくれなかった城田は、やっぱり自分を受け入れている様でそうではなかったのかな。
「そんな事…、」
「本当だよ。城田は普通に仕事してただけなんだし。」
結衣は城田が無理して作っている笑顔を思い出すと、辛くなった。
「知らなかった。」
「城田はこの先もずっと自分を責め続けると思うぞ。本庁には戻って来たくないだろうし、たぶん派遣が終了したら辞めるだろうな。」
「…。」
「渋谷、腹減ったなぁ。この辺なんか食べる所あるか?」
「コンビニでいいですか?」
「おい、それはないだろう。ちょっと出ないか。ここにくる前に気になる所があったから。」
山岡は結衣を外へ連れ出した。こんなに重い話しを聞いた後、正直何も食べたくなかったけれど、山岡と2人きりで部屋の中にいるのも、なんだか落ち着かなかった。
「渋谷、少し痩せたか?」
運転席の山岡がそう言った。
「ぜんぜん。」
「渋谷は元々、食べる事に興味ないもんな。」
「そんな事ないです。今はちゃんとお弁当作ってるし。」
「それは食堂や売店がないから仕方なくだろう。」
「まぁ、それもありますけど。」
「こんな田舎で、毎日何やってるんだ?」
「何もやってませんよ。でも、1年はあっという間でした。」
「1日は長く感じるのにな。」
「本当ですね。」
2人はそば屋に入った。結衣は油の匂いが少し胸をついた。
「天ざる2つ。ひとつは大盛りで。」
山岡が注文をした。結衣は店員が厨房へ戻った後、
「山岡さん、私、天ぷらダメかも。」
そう言って胸をさすった。
「なんだ、つわりか?」
「馬鹿言わないでください。」
「城田の誘いは逃げなかったんだ。」
「何言ってるんですか。これはただの胸焼けです。」
「残すなよ、もったいなから。」
「もう、意地悪ですね。」
山岡は結衣が食べきれないでいると、結衣の御膳と空になった自分の御膳を取り替えた。
「ありがとうございます。優しいところもあるんですね。」
「渋谷、一言多いぞ。」
山岡が言った。
車に戻ると、
「渋谷、支所まで案内しろよ。」
山岡が言った。
支所まで行くと、山岡は車を降りた。
「けっこう広いんだな。」
「中に児童館とか入ってるからね。」
「そっか。」
「中も見る?」
「いいのか?」
「うん。こっち。」
結衣は職員玄関から中へ入った。警備の人に挨拶をすると、山岡を自分の席へ案内した。
「残業、あるのか?」
「ほとんどないですよ。」
「本庁の事なんて忘れたか?」
「本庁が私の事を忘れたんですよ。」
結衣はそう言って笑った。
「あと1年だけ待ってやる。城田とちゃんと別れろよ。」
「はぁ?」
「まぁ、黙ってても別れるだろうと思うけど。」
結衣を家の前まで送った山岡は、
「渋谷、待ってるのって辛いだろう。」
そう言った。
結衣は答えられず下を向いた。
「俺はもう2年近くも待ってるし、また1年、待たなければならないんだよ。」
山岡は結衣の手を握った。
「城田が抱えたものを渋谷は軽くできるのか?」
「…。」
「ずっと待ってても、お前じゃ城田を支えられないって。」
「わかってますよ。だけど、どうしようもないから。」
「なんでそんなに悲しい恋愛してるんだよ。」
「なんででしょうね。」
「傷が深くなる前に、あいつとは別れろよ。」
「山岡さん。たぶんね、城田さんとの事が終わったら、私はもうずっと1人でいるつもりです。」
結衣は山岡の手を離した。
「意味わかんないよ。もっと、楽に考えればいいだろう。恋なんか突然始まってしまう事だってあるんだし。」
「私にはそれはないです。」
「渋谷、お前は下手くそな生き方をしてるな。」
「山岡さんもですよ。今日はごちそう様でした。」
結衣はそう言って山岡の車を降りた。
「気をつけて。」
「また、連絡するから。」
「はい。」
山岡に手を振り、車が見えなくなるのを確かめると、結衣はずっと気持ち悪かった胸をさすった。
春はまだこないね。
伸び切った冬の毛にまとわりついた雪は、体を震わせる度に氷の雫になって音を立てている。
待ってるしかない。
何度も同じ景色を見ても、明日はきっと違う景色に会えると思って眠りにつくしかないんだよ。
夏が終わる頃には、城田からの連絡は来なくなった。
時々くる、山岡からの電話では、まだ別れないのかとよく聞かれた。連絡が来なくなった事を隠していたが、山岡にはそれがわかっているようだった。
「いい加減、振られたって気がつけよ。」
山岡の言葉がぐさりと胸に刺さった。
「はっきりした事、言われていないし。」
結衣が思わずそう言うと、
「やっぱり、うまくいってないんだな。」
山岡が言った。
「そんなに好きなら電話でもなんでもすればいいだろう。嫌われたくないなんて、そんなに気を使う相手なら、友達以下の関係だろう。」
山岡の言っている事は図星だった。
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