明日の後悔 

小谷野 天

文字の大きさ
1 / 11
1章 

あじさいの道

しおりを挟む
  7月。

 いつも通る道には、あじさいの花が咲いている。
 昨日まで青かったあじさいは、今日は少し紫色になっていた。
 もうすぐ、雨が降るのかも。
 どうせなら、服が絞れるくらいの土砂降りの雨が降ってくれないだろうか。

 仕事を終えた青田優衣《あおたゆい》は、少しずつ暗くなってきた空を眺めた。

 今日の夕方、彼が家にくる。
 明日は2人でどこか泊まりに行こうと、彼は旅行を計画していた。
 自分は出掛ける事どころか、交際する事すら、きちんと返事をしていないのに。

 いつまで、誰にでも都合のいい人でいるつもりなんだろう。
 少し前の自分なら、いくらでも断る理由があったのに。
 仕事とか、家族とか、自分をよく見せようとする自尊心のせいで、そこから、逃げる勇気すら見つからない。
 
 低くなってくる雲が、家から出られないような雨を降らせてくれないか、優衣はそう願っていた。

 高校を卒業した後、地元を離れ、大学で看護師の資格を取った。
 4年間の奨学金を返還するために、付属の大学病院で、4年間勤めた。
 看護師になって、5年目の今年。
 こっちに戻ってくるよう両親の強い説得で、地元にある総合病院に転職した。
 大学病院では、仕事を覚えるのにも、多くの職員が順番を待つ。ひとつの事を覚えたら、時間を掛けて仲間と振り返り、確かな知識として身につける。

 そんな守られた毎日から、1人で多くの仕事を抱える今の環境に移動した優衣は、同じ5年目の職員より数段遅れていると噂された。
 朝、退院する患者を゙見送ると、急に入院が入り、準備に追われる。医師から指示された点滴を用意していると、別の患者の検査の時間が迫ってくる。
 エレベーターを待ちながら、仕事が後から後から追いかけてきて、看護師さん!と呼ばれていることにも気がつかない。
「ねぇ、看護師さん、お父さんの爪を切ってくれない?ずいぶん伸びて、タオルに引っ掛かるの。」
「わかりました。後で切りますから。」
 約束した患者さんは、その3日に亡くなった。
「ごめんなさい。すぐにくれば良かったのに。」
「いいよ、みんな忙しいんだから。最後に切ってもらえて、良かったね、お父さん。」
 家族と少し話しをしてると、
「青田さん、ちょっと。」
 優衣は、看護師長から呼ばれた。
「早く家族を部屋から出してちょうだい。いつまででも感情に浸ってたら、仕事が進まないわよ。さっさと処置やって、ベッドを空けて!」

 大学病院で自分が身につけた知識や理論なんか、いつ役に立つのだろう。ここの現場では、自分を守るほんの少しの知恵だけが必要なんだ。

 夜勤が明けて、1人で家へ帰る。
 ヘトヘトになった自分の話しを、聞いてくれる同僚もいない。
 こんなはずじゃなかったのに。
 ただ疲れて、寝るだけの日々。
 目と手がいくつあっても足りる事はない。
 そんな現場なのに、看護師達は、どうして世間話しなんかして、笑って仕事ができるんだろう。
 自分が目指していたものって、本当はこんな感じだったのかな。
 忘れていたもう一人の自分が、また少し顔を見せる。

 優衣は缶ビールを空けて、立ったまま飲んだ。
 ご飯、いらないや、このまま寝よう。

 両親の住む実家から、少し離れた職場へ通う事もできたが、不規則な自分生活を、教師をしている家族に知られるのは恥ずかしかった。
 こっちへ戻ってきて喜んだ両親の話しも聞かず、優衣は病院の近くにアパートを借りていた。

 救命士の資格を取った朝川哲人《あさかわてつと》は、地元の消防に勤めてから5年になる。
 自分は救命士の資格を持っているから、本当は火事の現場なんて行きたくもなかったが、田舎の消防署に勤務するという事は、当直のローテーションの駒になる。
 最新の医療機械の使い方も理解できない上司達を、朝川は心の中でバカにしていた。
 
 3ヶ月前、患者を他院へ搬送する救急車の中で、看護師になった高校の同級生の優衣に再会した。  
 大学病院からやってきたという優衣は、こんな田舎で勘違いしている奴らの事を、きっと心の中で笑っているはず。
 都会から来たという割には、薄化粧で控え目な優衣。威張り散らす地元の看護師とは違い、物腰が優しくて穏やかな優衣に、朝川は恋をした。

 高校の頃、ずっと同じクラスだったのに、優衣は自分の事など覚えていないようだった。
 無理もない。
 自分は3年間、サッカーに明け暮れた。
 サッカー部のマネージャーだった数人の女の子と、途切れる事なく付き合ってきた。 
 時には、他校の女子からも告白される事もあったし、自分から何もしなくても、女の子はいつも周りにいた。
 
 優衣の事は、頭が良かった事は覚えているけど、地味で印象が薄く、自分の恋愛対象ではなかった。優衣自身も恋愛には興味などないようで、仲のいい数人の友達しか話さないせいか、目を合わせた事があったかどうかすら、記憶にも残っていない。
 
 半年前。
 1年間付き合っていた彼女が、突然結婚の話しを始めた。
 仕事でもある程度頼られるようになってきたのに、自分はこんな何もない女と結婚するのかと思ったら、朝川はその子にあっさり別れを告げた。
 かわいい顔をしていたし、別れたくないとけっこうしつこかったから、もう少しだけ遊んでやろうと思っているけど。

 1人になって半年。
 こんなに誰かが隣りにいなかった期間はない。そろそろ、本命の彼女でも作ろうか、そう思っていた頃、搬送を終えて、救急車の中で疲れて眠る優衣に、朝川は声を掛けた。
 
「青田さん?」
「そうですけど。」
「ずいぶん、疲れてるね。」
「すみません、昨日は夜勤だったから。」
「俺の事、覚えてる?」
 優衣は朝川の名札を見た。
「朝川くん?」
「そう。」
「消防士になったの?」
「救命士の免許をとってからずっとここで働いてる。」
「そうなの。ここは隣りの町の病院への搬送が多いから大変だね。」
「仕方ないよ、それが仕事だから。」
「今日はこれで勤務は終わり?」
「うん。これで終わり。」
「じゃあ、これからご飯でも食べに行かない?」
 優衣は少し考えていた。
 いつも多くの人に囲まれていた朝川は、少し苦手だ。
 
「18時に山川って居酒屋で待ってるから。」
 朝川は浮かない顔をしている優衣を、無理矢理誘った。

 居酒屋に先に着いた優衣は、店から流れる曲を聞いていた。
 先に来て待っていたら、なんだか誘ってもらった事が嬉しかったと、勘違いされそうで嫌だった。
 朝川は、どうせ自分をからかっているだけなんだろうけど、少しだけ、誰かと話しをしたかった。
「今、もう一人きますから。」
 優衣は店員にそう言うと、また曲を聴き始める。
 
 ムラマサって、こんな感じだったっけ?どうしてメンバーが代わったのかな。
 ナオのギターの音、すごく好きだったのに。
 流れている曲は、学生の頃に追いかけていたバンドだった。
 クラッシックしか聴いてこなかった優衣は、友達が貸してくれたムラマサのCDに、一瞬で心を奪われた。
 少しかすれた声と、いろんな表情を見せるギターの音色、気持ちが高まった心臓が打つようなリズムに、勉強どころではなくなった。

 友達とライブハウスに通う日々。
 今まで優等生だった自分は、親からも先生からも初めて小言を言われた。
 大学生の時は、たいして勉強もしてこなかったけど、なんとかこうして看護師になれた。
 一緒にライブハウスに通っていた友達も、同じように看護師になって忙しく働いていた。
 時々、会って朝まで飲んで、昔の話しをたくさんしていたのに、地元に帰ってからは、そんな友人もいない。
 この町で暮らす事になった自分は、あい変わらず優等生を演じているし。

 ナオの真似をして金髪に染めた最後の夏休み。
 あれ以来、あんなふうに大きな声で、誰かの名前を呼んだ事があっただろうか。

「待った?」
 朝川がきた。おしぼりで手を拭きながら、
「先に飲んでれば良かったのに。」
 そう言った。
「私もちょっと前に着いたから。」
「ビールでいい?」
「うん。」
 
 朝川はメニューを拡げると、自分のおすすめを次々と注文していった。
「よく、来るんだね。」
「職場でも来るし、友達とも来るからね。」
「朝川くん、ずっとこっちにいたの?」
「救命士の学校に3年間行って、こっちに戻ってきて5年目。青田さんは?」
「私はむこうの病院で4年勤めて、今年戻ってきた。」
「前の病院を辞めたのはなんで?」
「親からこっちに戻ってくるように言われてね。」
「そんな所からこっちにきても、何もないからつまらないだろう。勉強にもならないだろうし。」
「そんな事ないよ、こっちの方がすごく忙しい。」
「救急車の中で、ぐっすり寝るくらいだからね。」
「ごめん、本当に今日は眠たかった。」
 朝川は笑った。
「あの病院なら、早川知ってる?」
「技師の?」
「そう、レントゲンにいるだろう。」
「いた。」
「早川が青田さんが帰ってきたって、言ってたから。」
「他には、ここにいる?」
「あんまり、いないかな。みんな出てってしまったし。」
 
 2人で他愛もない話しをしているうちに、気がつくと時間は23時を過ぎていた。

「もう、帰る?」
 朝川が優衣に聞いた。
「うん。明日、早いし。」
「家って、どの辺なの?」
「病院の近く。」
「それなら、一緒に帰ろうよ。俺もその辺だから。タクシー乗り場まで歩こう。」
「そうだね。」

 2人はタクシー乗り方まで歩いていた。
「青田さん、彼氏いるの?」
「いないよ。」
「むこうでできなかったの?」
「うん。」
「それなら、俺と付き合わない?」
「朝川くん、彼女いるでしょう。いつも女の子に囲まれてたし。」
「それはもう、昔の事。」
 朝川は優衣の肩に手を回した。
「こっちの子には飽きたんだ。みんな同じ話しばっかり。」 
「それって、朝川くんが同じ事しか聞かないからでしょう。」
「青田さん、あい変わらず冷たいよね。早川の事も、この前振ったでしょう。」
「忙しい病院の中で話しをされても、困るし。」
「ひどいなぁ。早川が可哀想。」
「私はそういうやつなの。」
 優衣は朝川が肩に回している手を解いた。

 タクシーに乗ると、ムラマサの曲がかかる。
「ムラマサ、ずいぶん流行ってるんだね。」
 優衣がそう言った。
「青田さん、この人達好き?」
「うん。ギターが代わって、ちょっと淋しいけど。」
「えっ、元々このメンバーじゃなかったの?」
「昔は別のギターがいたの。デビューする直前にメンバーが代わった。」
「ふーん。ねえ、青田さん、さっきの返事だけど。」
「忙しいから、そんな気もちになれないかな。」
 優衣はそう言って話しをはぐらかした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

新人メイド桃ちゃんのお仕事

さわみりん
恋愛
黒髪ボブのメイドの桃ちゃんが、働き先のお屋敷で、旦那様とその息子との親子丼。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

魔法師団長の家政婦辞めたら溺愛されました

iru
恋愛
小説家になろうですでに完結済みの作品です。よければお気に入りブックマークなどお願いします。 両親と旅をしている途中、魔物に襲われているところを、魔法師団に助けられたティナ。 両親は亡くなってしまったが、両親が命をかけて守ってくれた自分の命を無駄にせず強く生きていこうと決めた。 しかし、肉親も家もないティナが途方に暮れていると、魔物から助けてくれ、怪我の入院まで面倒を見てくれた魔法師団の団長レオニスから彼の家政婦として住み込みで働かないと誘われた。 魔物から助けられた時から、ひどく憧れていたレオニスの誘いを、ティナはありがたく受ける事にした。 自分はただの家政婦だと強く言い聞かせて、日に日に膨らむ恋心を抑え込むティナだった。 一方、レオニスもティナにどんどん惹かれていっていた。 初めはなくなった妹のようで放っては置けないと家政婦として雇ったが、その健気な様子に強く惹かれていった。 恋人になりたいが、年上で雇い主。 もしティナも同じ気持ちでないなら仕事まで奪ってしまうのではないか。 そんな思いで一歩踏み出せないレオニスだった。 そんな中ある噂から、ティナはレオニスの家政婦を辞めて家を出る決意をする。 レオニスは思いを伝えてティナを引き止めることができるのか? 両片思いのすれ違いのお話です。

人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている

井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。 それはもう深く愛していた。 変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。 これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。 全3章、1日1章更新、完結済 ※特に物語と言う物語はありません ※オチもありません ※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。 ※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。

転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました

桜あずみ
恋愛
異世界に転移して2年。 言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。 しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。 ──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。 その一行が、彼の目に留まった。 「この文字を書いたのは、あなたですか?」 美しく、完璧で、どこか現実離れした男。 日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。 最初はただの好奇心だと思っていた。 けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。 彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。 毎日19時に更新予定です。

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

可愛らしい人

はるきりょう
恋愛
「でも、ライアン様には、エレナ様がいらっしゃるのでは?」 「ああ、エレナね。よく勘違いされるんだけど、エレナとは婚約者でも何でもないんだ。ただの幼馴染み」 「それにあいつはひとりで生きていけるから」 女性ながらに剣術を学ぶエレナは可愛げがないという理由で、ほとんど婚約者同然の幼馴染から捨てられる。 けれど、 「エレナ嬢」 「なんでしょうか?」 「今日の夜会のパートナーはお決まりですか?」  その言葉でパートナー同伴の夜会に招待されていたことを思い出した。いつものとおりライアンと一緒に行くと思っていたので参加の返事を出していたのだ。 「……いいえ」  当日の欠席は著しく評価を下げる。今後、家庭教師として仕事をしていきたいと考えるのであれば、父親か兄に頼んででも行った方がいいだろう。 「よければ僕と一緒に行きませんか?」

処理中です...