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4章
破れた楽譜
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沙耶を送って家に戻ると、時間はすでに午前2時を回っていた。いつまでも起きてると言った朝川に電話をしようか迷っていると、朝川の方から電話が来た。
「今、家の前にいるよ。着いたら連絡がほしいって言ったのに。」
「ごめん。」
朝川の足音が聞こえてくる。
「心配したよ。こんな時間まで帰ってこないから。」
「朝川さん、ずっと家の前にいたの?」
「ずっといたよ。何かあったら困るからね。」
「あのね、」
「今度は、2人で行こうよ。」
「朝川さん、あのね、」
朝川は、優衣を抱きしめた。
「淋しかったんだ。話しは明日聞くから。」
朝川は優衣を抱きしめたまま、ベッドへ向かった。
キスしようとした朝川に優衣は抵抗した。
「どうしたの?」
「朝川さん、」
優衣は起き上がると朝川をまっすぐに見た。
「朝川さんとは、付き合えない。ひどい事してると思ってる。これ以上、一緒にいられないの、ごめんなさい。」
「何言ってるの?冗談でしょう。」
朝川は優衣は押し倒した。
「冗談でこんな事言わないよ。」
「旅行に一緒に行ったのって男かよ。」
「違う。」
「なんで、急にそんな事言うのかわからないよ。」
「ごめんなさい。」
朝川は優衣を離さなかった。
「明日、仕事だし、もう休んでいい?」
「こっちは、ずっと待ってたんだ。ちゃんと話そうよ。」
「話しがしたいなら、こんな事しないで。」
「優衣、俺達何度もこうしてきたじゃないか。」
朝川は優衣が逃げられないように両手を押さえつけた。
「あの、ピアノを弾いてたやつか?」
優衣は朝川から目を逸らす。
「なぁ、俺が結婚なんて言ったから、少しだけ迷ったんだろう。許してあげるから。」
朝川が優衣は体を触り始めた時、
「帰って!」
優衣は起き上がって朝川を力一杯押しのけた。
いつもと違う優衣の態度に、朝川は少し驚いた。そして、自分を拒否した優衣の事が、無性に腹が立った。
「絶対、別れないからな!」
朝川は出ていった。
次の日。
「青田さん、眠そうだね。」
「昨日、帰って来るのが遅くって。」
優衣は助手さんと、シーツを取り替えていた。
「青田さんは別にやらなくてもいいのよ。私達の仕事だし。」
「午後いちで入院が入るって言うから、急がせたのは私ですし。」
「青田さんがまた入院を受けるの?詰め所にヒマしてる人、たくさんいるじゃない。」
「ここの部屋は私が担当なんですよ。」
「ねぇ、青田さんも知ってるでしょう?ここの人達は、あなたの存在が不安でたまらないの。」
「なんでですか?」
「ずっと地方で仕事してるとね、あなたの様に別の色を持った人がくると、自分達がやっている事を否定されている様で、足を引っ張ろうって気持ちになってるの。」
「私はそんなつもりなんてないですよ。」
「そうよね。青田さんはここのやり方を否定なんかしてないし、みんなとうまくやろうとしてるだけ。でも、やっぱり女の世界って、自分がいつも一番でいたいの。青田さんの事を少しでも褒める人がいたら、許せなくなる。ここのやり方しか知らない人はみんなそうよ。」
優衣は取り替えたシーツを抱えると、小さなため息をついた。
「これ、下に持っていきますね。」
「ありがとう。本当、古くなればなるだけ、威張り腐ってイヤだね。私が病気したら、青田さんに担当をお願いするわね。」
入院患者がやってきた。他院からの転院だったのか、その患者は救急車でやってきた。
「優衣。」
優衣は朝川から目を逸らした。
「珍しいね、優衣が家に来るなんて。」
優衣は実家に帰っていた。
「ご飯は?」
「いらない。お母さん、ピアノ弾いてもいい?」
「いいけど、ご飯食べてからにしたら?」
「あんまり食べたくないの。」
優衣はナオからもらった楽譜を拡げた。
「何、これ。ずいぶん、複雑な曲ね。」
「お母さん、弾ける?」
「嫌よ、こんなの弾くの。」
優衣は、複雑なメロディを少しずつ弾いていった。
「この曲、聞いた事ある。テレビで流れてたのとは、ちょっと違う感じがするけど。」
母はそう言った。
「もう少し、ピアノが喜ぶ曲を弾いたら?」
優衣は真剣に弾いていた。
ピアノの蓋を閉じると、
「今日は泊まって行きなさい。ほら、ご飯食べて。」
「いらないって言ったのに。」
「優衣、何かあったの?」
「この前、東京に行って来たって言ってたから、向こうの病院に行こうとしてるのかって心配してたのよ。また、自由にされるんじゃないかと思って、ハラハラするよ。」
「ちゃんと卒業したじゃない。資格だって取れたし。」
「お父さんがね、本当は病院じゃなくて、学校とか夜勤のない所に勤めてくれれば良かったのにって言ってるのよ。高校の頃みたいに成績が良かったら、上にだって行けたのに。」
「私は別に夜勤は嫌じゃないし。」
「真面目で優しかったのに、どうしてこんなに反抗的になっちゃったんだろうね。」
優衣は食べ終えた食器を片付けた。
「もう、いいの?」
「うん。」
優衣は冷蔵庫から父のビールを出して、立ったまま飲んだ。
「ちょっと、やめてよ、優衣。」
「お父さんは?」
「会議の後に、飲み会って言ってた。」
「じゃあいいでしょう。私が飲んだって。」
「もう、女なのに、品がないのよ。」
お風呂から上がると、
「ずいぶん携帯がなってたよ。」
母が言った。
朝川からの着信が並ぶ中、ナオからの着信がひとつあった。
優衣は携帯を持つと、自分の部屋に行く。
「もしもし。」
「もしもし、今週の土曜日って空いてる?」
「うん。空いてる。」
「花火が上がるから、一緒にロビーで見ようよ。」
「いいの?」
「俺、夕方まで仕事だから、こっちきて待っててよ。」
「わかった。ねえ、ナオ。」
「何?」
「あの曲、難しいね。途中でぜんぜん感じが変わる。」
「弾いてみたの?」
「うん。」
「ギターで弾くともっと複雑だよ。」
「今度、ギターも教えて。」
「いいよ。」
ナオとの電話を切った途端、優衣は急に淋しくなった。
誰かを思う気持ちは、こんなにも切ないものなのだろうか。
朝川から電話がきた。
どんな気持ちで、電話を掛けているのだろう。
朝川が遊んでいるあの子の所に、さっさと行けばいいのに。
優衣は朝川からの電話には出なかった。
夜勤が明けた木曜日。
玄関で、同級生の早川と一緒になった。
「今帰り?」
「うん。早川くんも?」
「昨夜、交通事故の患者が来ただろう。休憩なんかぜんぜん取れなかった。」
「そっか。大変だったね。お疲れ様。」
「青田さん、朝川と結婚するの?」
「しないよ。何言ってるの。」
「朝川が言ってたからさ。」
「そんな話し、間違ってるよ。それじゃあ。」
さっきまで、暗い中にいた優衣は、高過ぎる太陽に少しめまいがした。
早く家に帰って眠ろう。
今晩も夜勤だし。
帰り道にあるあじさいは少しピンクが変わっていた。
これから雨になるのかな。
土曜日の夜は晴れてくれるといいのに。
大きくなった花は、少しの風では揺れる事はない。
家まであと少し。
優衣は大きなあくびをした。
「優衣。」
玄関には、朝川が待っていた。
「朝川くん。」
「今日は夜勤明けだろう。俺も今仕事終わったところ。」
「昨日、交通事故の人が運ばれたんだっけ。」
「そう。結局、隣町の病院に搬送になった。」
「帰って、ゆっくり休めば。」
「冷たいな。優衣の家で休むよ。」
「朝川くん、もう会えないって言ったでしょう。」
「俺は納得できないよ。」
朝川は優衣の手から鍵を取ると、勝手に家に入っていく。
「ちょっと、待って。」
机にあった楽譜を見つけると、朝川はそれを破った。
「なにするの!ひどい。」
「この前、ピアノ弾いてたやつと、会ったんだろう?優衣がおかしくなったのは、この前そいつと会ってからだよ。」
優衣は床に散らばった楽譜を集めていた。
朝川は優衣が集めた紙を掴むと、窓からそれをパッと投げた。
風に乗った楽譜は、桜が散るようにハラハラと消えていく。
呆然と窓を見ていた優衣を、朝川はきつく抱きしめた。
「優衣。好きになるって、苦しいな。なんでだろう。誰でも良かったはずなのに、すごく苦しくて辛いんだよ。もう一回、やり直さないか。」
どこかへ行ってしまった楽譜の切れ端のひとつが、風に遊ばれているように、遠くで舞っている。
「1枚しかなかったの。同じものはひとつもないのに。」
体の力が抜けた優衣は、床に座り込んだ。
「朝川くん。もう帰って。」
「嫌だ。」
朝川は優衣を離そうとしない。
「じゃあ、私が出ていくよ。」
優衣は車の鍵をとると、玄関に向かう。
あれっ?
さっき見たあじさいの色が、どんどん濃くなって目の前に広がる。
そんなに雨が降るの?
良かった。
土砂降りの雨が降れば、もう、ここには誰もこない。
気がつくと、優衣は病院のベッドで寝ていた。
「優衣、大丈夫?」
両親が優衣の顔を覗き込む。
「朝川くん、ありがとうね。こんな人が彼氏だなんて、優衣は心強いだろうな。」
父がそう言った。
「いいえ。当たり前の事ですよ。優衣、疲れてたんだろう。この点滴が終わったら、家においでよ。今日の夜勤も代わってもらったから。」
「優衣、そうしたら?」
母はそう言って優衣の手を握った。
悔しくて涙が出てくる。
優衣は泣き顔を見られないように布団にもぐった。
楽譜をバラバラにしたのは朝川くんじゃない。
「私の家に帰る。」
優衣は布団の中からそう言った。
優衣の実家に着いた。
朝川も一緒にいる。
「今日は一緒にいてもいいですか?心配なんで。」
「優衣、朝川くんがいてくれて良かったな。」
父がそう言うと、優衣はピアノの前に向かって歩いていった。
「ちょっと、」
母が止めるのも聞かず、優衣はピアノを弾き始めた。
一度に弾いた曲は、耳と手が覚えている。
「本当、意地っ張りね。」
「仕事に戻るよ。もう、大丈夫そうだから。」
「私も戻る。朝川さん、あとお願いね。」
両親は出ていった。
2人きりになったけれど、優衣は朝川と顔を合わせようとせず、ピアノを弾いている。
「優衣。」
ピアノをやめない優衣の手を朝川は掴んだ。
「もう、いいだろう。忘れてしまえよ。」
「朝川くん、卑怯だよ。」
「その気にさせておいて、どっちが卑怯だよ。」
「……。」
「一緒になるなら、みんなが祝福してくれる方がいいだろう。あんな得体のしれないやつなんか選んだら、みんな悲しむよ。」
優衣は朝川の手を振りほどこうと力を入れたが、朝川は優衣を床に押し倒した。
「痛いっ。」
「あっ、ごめん。大丈夫?」
優衣は肘をさすった。
「どうすんだ、楽譜なんてもうないんだぞ。せっかくもらった物を失くして、なんて言い訳するんだよ。」
「……。」
「言いたくない事は、いつもだんまりだな。」
朝川への文句なら溢れる程出てくるのに、楽譜をくれた時のナオの顔が浮かぶと、喉の奥が熱くなるだけで、何も言えなくなる。
朝川は優衣にキスをした。
少しずつ服を脱がせていく朝川の手が、自分の体に張り付いているみたいで、優衣は息が苦しくなった。
「優衣の部屋に行こうよ。もう少し休まないとダメだよ。」
「先に行ってて。2階の右だから。」
優衣は脱がされた服を着ると、膝を抱えた。
2階へは上がらず、少し離れた所から優衣を見ていた朝川は、そんな優衣を後ろから抱きしめた。
「優衣。」
顔を上げない優衣。
「そんなに俺が嫌い?」
優衣は2階に上がっていった。
窓を見ている優衣。
抜けるような高い空に輝いている太陽の光に、優衣の心を突き刺さる。床に座り込んだ優衣は、また目眩がして目を閉じる。
「大丈夫?」
朝川は唯の背中に手を置いた。
「少し休まないとダメだよ。」
優衣を抱えてベッドへ寝かせると、朝川は優衣の体にぴったりと自分の体をつけた。
「さっき、ぶつけた所、大丈夫かい?」
「なんでもない。」
「それなら良かった。」
バラバラになった楽譜が自分の目の前に降ってくるようだ。こんなに近くで舞っているのに、手を伸ばしても届かない。
「優衣。結婚しよう。俺達、最初からそうなる運命だったんだ。」
午後3時。
ぐっすり眠る朝川に気づかれないよう、部屋から出た。
「松川さん。青田です。」
優衣はいつも声を掛けてくれる看護助手に電話をした。
「大丈夫?倒れたって聞いたから。」
「大丈夫です。ただの寝不足ですから。」
「それならいいけど。」
「松川さん、今日は夜勤に行きます。交代するはずの人には、私から連絡しますから、誰でした?」
「田原さんよ。」
「わかりました。」
夕食の時、優衣は何もなかったように両親と朝川に笑顔を見せた。
お風呂からあがってきた朝川は、
「さっきはごめん。」
ベッドで本を読んでいた優衣に体を寄せた。
「疲れたからもう寝るね。」
「そうだね。そのほうがいいよ。」
朝川は電気を消した。
朝川の腕の中。
逃げようとしている優衣の意識が、何度も呼び戻される。
言いかけた言葉も、何もなかったように消されてしまう。
「もう、眠りたい。」
優衣は朝川にそう言った。
「いいよ。ゆっくり休みなよ。」
朝川の手は、それでも優衣を求めて続けた。
「今、家の前にいるよ。着いたら連絡がほしいって言ったのに。」
「ごめん。」
朝川の足音が聞こえてくる。
「心配したよ。こんな時間まで帰ってこないから。」
「朝川さん、ずっと家の前にいたの?」
「ずっといたよ。何かあったら困るからね。」
「あのね、」
「今度は、2人で行こうよ。」
「朝川さん、あのね、」
朝川は、優衣を抱きしめた。
「淋しかったんだ。話しは明日聞くから。」
朝川は優衣を抱きしめたまま、ベッドへ向かった。
キスしようとした朝川に優衣は抵抗した。
「どうしたの?」
「朝川さん、」
優衣は起き上がると朝川をまっすぐに見た。
「朝川さんとは、付き合えない。ひどい事してると思ってる。これ以上、一緒にいられないの、ごめんなさい。」
「何言ってるの?冗談でしょう。」
朝川は優衣は押し倒した。
「冗談でこんな事言わないよ。」
「旅行に一緒に行ったのって男かよ。」
「違う。」
「なんで、急にそんな事言うのかわからないよ。」
「ごめんなさい。」
朝川は優衣を離さなかった。
「明日、仕事だし、もう休んでいい?」
「こっちは、ずっと待ってたんだ。ちゃんと話そうよ。」
「話しがしたいなら、こんな事しないで。」
「優衣、俺達何度もこうしてきたじゃないか。」
朝川は優衣が逃げられないように両手を押さえつけた。
「あの、ピアノを弾いてたやつか?」
優衣は朝川から目を逸らす。
「なぁ、俺が結婚なんて言ったから、少しだけ迷ったんだろう。許してあげるから。」
朝川が優衣は体を触り始めた時、
「帰って!」
優衣は起き上がって朝川を力一杯押しのけた。
いつもと違う優衣の態度に、朝川は少し驚いた。そして、自分を拒否した優衣の事が、無性に腹が立った。
「絶対、別れないからな!」
朝川は出ていった。
次の日。
「青田さん、眠そうだね。」
「昨日、帰って来るのが遅くって。」
優衣は助手さんと、シーツを取り替えていた。
「青田さんは別にやらなくてもいいのよ。私達の仕事だし。」
「午後いちで入院が入るって言うから、急がせたのは私ですし。」
「青田さんがまた入院を受けるの?詰め所にヒマしてる人、たくさんいるじゃない。」
「ここの部屋は私が担当なんですよ。」
「ねぇ、青田さんも知ってるでしょう?ここの人達は、あなたの存在が不安でたまらないの。」
「なんでですか?」
「ずっと地方で仕事してるとね、あなたの様に別の色を持った人がくると、自分達がやっている事を否定されている様で、足を引っ張ろうって気持ちになってるの。」
「私はそんなつもりなんてないですよ。」
「そうよね。青田さんはここのやり方を否定なんかしてないし、みんなとうまくやろうとしてるだけ。でも、やっぱり女の世界って、自分がいつも一番でいたいの。青田さんの事を少しでも褒める人がいたら、許せなくなる。ここのやり方しか知らない人はみんなそうよ。」
優衣は取り替えたシーツを抱えると、小さなため息をついた。
「これ、下に持っていきますね。」
「ありがとう。本当、古くなればなるだけ、威張り腐ってイヤだね。私が病気したら、青田さんに担当をお願いするわね。」
入院患者がやってきた。他院からの転院だったのか、その患者は救急車でやってきた。
「優衣。」
優衣は朝川から目を逸らした。
「珍しいね、優衣が家に来るなんて。」
優衣は実家に帰っていた。
「ご飯は?」
「いらない。お母さん、ピアノ弾いてもいい?」
「いいけど、ご飯食べてからにしたら?」
「あんまり食べたくないの。」
優衣はナオからもらった楽譜を拡げた。
「何、これ。ずいぶん、複雑な曲ね。」
「お母さん、弾ける?」
「嫌よ、こんなの弾くの。」
優衣は、複雑なメロディを少しずつ弾いていった。
「この曲、聞いた事ある。テレビで流れてたのとは、ちょっと違う感じがするけど。」
母はそう言った。
「もう少し、ピアノが喜ぶ曲を弾いたら?」
優衣は真剣に弾いていた。
ピアノの蓋を閉じると、
「今日は泊まって行きなさい。ほら、ご飯食べて。」
「いらないって言ったのに。」
「優衣、何かあったの?」
「この前、東京に行って来たって言ってたから、向こうの病院に行こうとしてるのかって心配してたのよ。また、自由にされるんじゃないかと思って、ハラハラするよ。」
「ちゃんと卒業したじゃない。資格だって取れたし。」
「お父さんがね、本当は病院じゃなくて、学校とか夜勤のない所に勤めてくれれば良かったのにって言ってるのよ。高校の頃みたいに成績が良かったら、上にだって行けたのに。」
「私は別に夜勤は嫌じゃないし。」
「真面目で優しかったのに、どうしてこんなに反抗的になっちゃったんだろうね。」
優衣は食べ終えた食器を片付けた。
「もう、いいの?」
「うん。」
優衣は冷蔵庫から父のビールを出して、立ったまま飲んだ。
「ちょっと、やめてよ、優衣。」
「お父さんは?」
「会議の後に、飲み会って言ってた。」
「じゃあいいでしょう。私が飲んだって。」
「もう、女なのに、品がないのよ。」
お風呂から上がると、
「ずいぶん携帯がなってたよ。」
母が言った。
朝川からの着信が並ぶ中、ナオからの着信がひとつあった。
優衣は携帯を持つと、自分の部屋に行く。
「もしもし。」
「もしもし、今週の土曜日って空いてる?」
「うん。空いてる。」
「花火が上がるから、一緒にロビーで見ようよ。」
「いいの?」
「俺、夕方まで仕事だから、こっちきて待っててよ。」
「わかった。ねえ、ナオ。」
「何?」
「あの曲、難しいね。途中でぜんぜん感じが変わる。」
「弾いてみたの?」
「うん。」
「ギターで弾くともっと複雑だよ。」
「今度、ギターも教えて。」
「いいよ。」
ナオとの電話を切った途端、優衣は急に淋しくなった。
誰かを思う気持ちは、こんなにも切ないものなのだろうか。
朝川から電話がきた。
どんな気持ちで、電話を掛けているのだろう。
朝川が遊んでいるあの子の所に、さっさと行けばいいのに。
優衣は朝川からの電話には出なかった。
夜勤が明けた木曜日。
玄関で、同級生の早川と一緒になった。
「今帰り?」
「うん。早川くんも?」
「昨夜、交通事故の患者が来ただろう。休憩なんかぜんぜん取れなかった。」
「そっか。大変だったね。お疲れ様。」
「青田さん、朝川と結婚するの?」
「しないよ。何言ってるの。」
「朝川が言ってたからさ。」
「そんな話し、間違ってるよ。それじゃあ。」
さっきまで、暗い中にいた優衣は、高過ぎる太陽に少しめまいがした。
早く家に帰って眠ろう。
今晩も夜勤だし。
帰り道にあるあじさいは少しピンクが変わっていた。
これから雨になるのかな。
土曜日の夜は晴れてくれるといいのに。
大きくなった花は、少しの風では揺れる事はない。
家まであと少し。
優衣は大きなあくびをした。
「優衣。」
玄関には、朝川が待っていた。
「朝川くん。」
「今日は夜勤明けだろう。俺も今仕事終わったところ。」
「昨日、交通事故の人が運ばれたんだっけ。」
「そう。結局、隣町の病院に搬送になった。」
「帰って、ゆっくり休めば。」
「冷たいな。優衣の家で休むよ。」
「朝川くん、もう会えないって言ったでしょう。」
「俺は納得できないよ。」
朝川は優衣の手から鍵を取ると、勝手に家に入っていく。
「ちょっと、待って。」
机にあった楽譜を見つけると、朝川はそれを破った。
「なにするの!ひどい。」
「この前、ピアノ弾いてたやつと、会ったんだろう?優衣がおかしくなったのは、この前そいつと会ってからだよ。」
優衣は床に散らばった楽譜を集めていた。
朝川は優衣が集めた紙を掴むと、窓からそれをパッと投げた。
風に乗った楽譜は、桜が散るようにハラハラと消えていく。
呆然と窓を見ていた優衣を、朝川はきつく抱きしめた。
「優衣。好きになるって、苦しいな。なんでだろう。誰でも良かったはずなのに、すごく苦しくて辛いんだよ。もう一回、やり直さないか。」
どこかへ行ってしまった楽譜の切れ端のひとつが、風に遊ばれているように、遠くで舞っている。
「1枚しかなかったの。同じものはひとつもないのに。」
体の力が抜けた優衣は、床に座り込んだ。
「朝川くん。もう帰って。」
「嫌だ。」
朝川は優衣を離そうとしない。
「じゃあ、私が出ていくよ。」
優衣は車の鍵をとると、玄関に向かう。
あれっ?
さっき見たあじさいの色が、どんどん濃くなって目の前に広がる。
そんなに雨が降るの?
良かった。
土砂降りの雨が降れば、もう、ここには誰もこない。
気がつくと、優衣は病院のベッドで寝ていた。
「優衣、大丈夫?」
両親が優衣の顔を覗き込む。
「朝川くん、ありがとうね。こんな人が彼氏だなんて、優衣は心強いだろうな。」
父がそう言った。
「いいえ。当たり前の事ですよ。優衣、疲れてたんだろう。この点滴が終わったら、家においでよ。今日の夜勤も代わってもらったから。」
「優衣、そうしたら?」
母はそう言って優衣の手を握った。
悔しくて涙が出てくる。
優衣は泣き顔を見られないように布団にもぐった。
楽譜をバラバラにしたのは朝川くんじゃない。
「私の家に帰る。」
優衣は布団の中からそう言った。
優衣の実家に着いた。
朝川も一緒にいる。
「今日は一緒にいてもいいですか?心配なんで。」
「優衣、朝川くんがいてくれて良かったな。」
父がそう言うと、優衣はピアノの前に向かって歩いていった。
「ちょっと、」
母が止めるのも聞かず、優衣はピアノを弾き始めた。
一度に弾いた曲は、耳と手が覚えている。
「本当、意地っ張りね。」
「仕事に戻るよ。もう、大丈夫そうだから。」
「私も戻る。朝川さん、あとお願いね。」
両親は出ていった。
2人きりになったけれど、優衣は朝川と顔を合わせようとせず、ピアノを弾いている。
「優衣。」
ピアノをやめない優衣の手を朝川は掴んだ。
「もう、いいだろう。忘れてしまえよ。」
「朝川くん、卑怯だよ。」
「その気にさせておいて、どっちが卑怯だよ。」
「……。」
「一緒になるなら、みんなが祝福してくれる方がいいだろう。あんな得体のしれないやつなんか選んだら、みんな悲しむよ。」
優衣は朝川の手を振りほどこうと力を入れたが、朝川は優衣を床に押し倒した。
「痛いっ。」
「あっ、ごめん。大丈夫?」
優衣は肘をさすった。
「どうすんだ、楽譜なんてもうないんだぞ。せっかくもらった物を失くして、なんて言い訳するんだよ。」
「……。」
「言いたくない事は、いつもだんまりだな。」
朝川への文句なら溢れる程出てくるのに、楽譜をくれた時のナオの顔が浮かぶと、喉の奥が熱くなるだけで、何も言えなくなる。
朝川は優衣にキスをした。
少しずつ服を脱がせていく朝川の手が、自分の体に張り付いているみたいで、優衣は息が苦しくなった。
「優衣の部屋に行こうよ。もう少し休まないとダメだよ。」
「先に行ってて。2階の右だから。」
優衣は脱がされた服を着ると、膝を抱えた。
2階へは上がらず、少し離れた所から優衣を見ていた朝川は、そんな優衣を後ろから抱きしめた。
「優衣。」
顔を上げない優衣。
「そんなに俺が嫌い?」
優衣は2階に上がっていった。
窓を見ている優衣。
抜けるような高い空に輝いている太陽の光に、優衣の心を突き刺さる。床に座り込んだ優衣は、また目眩がして目を閉じる。
「大丈夫?」
朝川は唯の背中に手を置いた。
「少し休まないとダメだよ。」
優衣を抱えてベッドへ寝かせると、朝川は優衣の体にぴったりと自分の体をつけた。
「さっき、ぶつけた所、大丈夫かい?」
「なんでもない。」
「それなら良かった。」
バラバラになった楽譜が自分の目の前に降ってくるようだ。こんなに近くで舞っているのに、手を伸ばしても届かない。
「優衣。結婚しよう。俺達、最初からそうなる運命だったんだ。」
午後3時。
ぐっすり眠る朝川に気づかれないよう、部屋から出た。
「松川さん。青田です。」
優衣はいつも声を掛けてくれる看護助手に電話をした。
「大丈夫?倒れたって聞いたから。」
「大丈夫です。ただの寝不足ですから。」
「それならいいけど。」
「松川さん、今日は夜勤に行きます。交代するはずの人には、私から連絡しますから、誰でした?」
「田原さんよ。」
「わかりました。」
夕食の時、優衣は何もなかったように両親と朝川に笑顔を見せた。
お風呂からあがってきた朝川は、
「さっきはごめん。」
ベッドで本を読んでいた優衣に体を寄せた。
「疲れたからもう寝るね。」
「そうだね。そのほうがいいよ。」
朝川は電気を消した。
朝川の腕の中。
逃げようとしている優衣の意識が、何度も呼び戻される。
言いかけた言葉も、何もなかったように消されてしまう。
「もう、眠りたい。」
優衣は朝川にそう言った。
「いいよ。ゆっくり休みなよ。」
朝川の手は、それでも優衣を求めて続けた。
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