冬の雨

小谷野 天

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1章

冬の雨

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 今でも血まみれになったスニーカーが、胸の真ん中に転がっている。
 救急車の赤色灯と、人混みを蹴散らそうとする大きな声。何度耳を塞いでも、鼓膜に跳ね返ってくるあの日の音は、繰り返し繰り返し、頭の中に響いている。

 肌寒い春の夜風が、優の背中を通り過ぎていく。信号待ちの間に、冷たくなった鼻の上で、両手に息を吹きかける。   
 今日は恋人の隆一の誕生日。
 急に会議が入り、帰りが遅くなってしまったけれど、部屋で待つ隆一の元へ、1分でも早くたどり着くために、高山優(たかやまゆう)は帰りを急いでいた。     
 隆一のアパートまであと少しの所で、優の携帯がなる。 課長からだ。 
「もしもし。高山です。」
「今、どこにいるんだ?明日の会議の資料、戻ってきて準備をしなさい。」 
「資料なら、先ほど齋藤さんに渡しましたけど。データが必要なら、すぐに送信します。」 
 優はそう言って、腕時計を見た。
「齋藤くんはもう帰っていないんだ。とにかく、早急に確認したい部分があるから、今すぐ会社に戻ってきなさい!」 
 電話の向こうの課長がイライラしているのがわかる。帰る直前に会った時は、あんなにも機嫌が良かったはずなのに。
「わかりました。」 
 優は電話を握りながら白目をむいた。何よそれ!今すぐに面と向かって話さなきゃならない事?頭の中で浮かんだ言葉を、目をつぶって飲み込んだ。
「何分でこれる?」
 課長はそう言った。
「30分くらいです。」 
「そんなに待つのか、まあいい。なるべく早く来てくれ。」  
 優は今来た道を戻っていく。 隆一に電話をし、会社でトラブルがあったから1時間くらい遅れると伝えた。
「仕方ないね。」
 隆一はそう言うと、
「コンビニで飲み物を買ってくる。」
 と電話を切った。   

 会社に着くと、課長は優のデスクに座り、資料ってこれだね、と優に見せた。 
「そうです。良かった、見つかったんですね。」   
 優は課長の持っている資料に手を伸ばそうとした。 
「高山くん。」  
 課長はそう言って資料を床に落とすと、優に拾えと合図をした。
 「えっ、あっ、すみません。」
 優は慌てて床に落ちた資料を拾って集めると、 
「明日、人事異動の会議があるんだ。君は前から、総務部を希望していたね。俺の力があれば話しを通してやってもいい。」
  課長はそう言って、資料を集めて立ち上がった優の髪を撫でた。
「あの、」
 今度は戸惑っている優の首すじを触る。
「私は何も希望していません!」
 優はどんどん自分に近づいてくる課長から離れた。
「今日は彼氏の誕生日なんだってね。高山くんはこれから彼氏に抱かれるのかい?君はキレイだから、彼氏が羨ましいよ。」
 課長は優を引き寄せた。
「すみません、帰ります。」
  優は資料を机の上に置くと、課長の腕を振り切った。
「黙って言う通りにすればいいだろう。馬鹿な女だな。」
 課長は優の肩を掴もうとしたが、ちょうど外勤から帰ってきた別の社員が、その様子を見ていた。
「優、まだ残ってたの?」
 彼女とすれ違いざまに、
「ごめん、急いでいるから。」
 優はそう言って玄関に向かった。

 駅まで向かう途中、優は髪をぐしゃぐしゃにし、課長が髪を触った感触を忘れようと必死だった。
 一刻も早く、隆一の元へ行きたい。
 地下鉄へ続く階段を急いで駆け下りると、生ぬるい人工の風が、優の肩を通り過ぎる。     
 明日、会社クビになるかも。もうクビになったっていい。  
 悔しくて涙が出る。隆一に電話し、今地下鉄に乗ったと伝えた。隆一は近くのコンビニまで来ていたから、このまま駅まで迎えにいくと言った。いつもと変わらない隆一の声に、優は涙が止まらなくなった。
「泣きたいのはこっち。」
  隆一が言う。
「せっかくの誕生日なのに、ごめんなさい。」
 優は鼻をすすると、涙を手で拭いた。
「そう思うならもっと走ってよ。なんで泣いてるのか知らないけど、1秒でも早くこっちにきて。ほら、ちゃんと走って。」
 隆一が電話の向こうで、優しく笑っているのがわかる。
  優は今来た電車に飛び乗った。
 待ってて、早く会いたい。

 電車から降りて駅の改札を通ると、外には救急車とパトカーが止まっていた。隆一はどこで持っているのか探していると、見慣れたスニーカーが道路に落ちていた。 
 
 まさか、 
 
 そう言って人集りの中をかき分け、優が見た光景は、血まみれになった隆一が、救急隊員に心臓マッサージされている姿だった。 

「隆一!!!」   

 それからの事はまったく覚えていない。
 
 気がつくと、隆一がくれたピアノの楽譜に、涙がポロポロと落ちていた。
 隆一は本当に亡くなったのだろうか。
 隆一の家族とは、何かを話したのだろうか。あれから何を食べ、いつ眠り、いつ目覚めたのかも、まるで黒塗りされた資料の様に、思い出してはいけない記憶になっていた。
 時々、課長が自分の髪を触った感覚が蘇ってくると、優は頭をぐしゃぐしゃにして泣き崩れた。髪の毛を引きちぎろうとする度に、誰かがその手を、そっと握ってくれた。  

 隆一、どれだけ泣いても涙が溢れてくるよ。
 全部、私のせいだよね。
 あの日、駅に着くのがもう少し早ければ、今でも隆一の変わらない笑顔が隣りにあったはず。
 ねえ、隆一。
 私の髪を引きちぎってよ。全部、引きちぎって、それでも足りない?
 もう、何もかもいらないよ。
 私も早くそっちへ行きたい。
   
 優は自分の髪を、力一杯両手で握ると、バリバリという音とともに、無数の髪を抜いた。頭から血が流れる。
 やっと、何もなくなる。あの気持ち悪い感触も、忘れてしまいたいあの夜の事も。
  優は抜いた髪の毛で顔を覆った。
 血の匂いがする。隆一が流した血は、こんなもんじゃなかったよね。
「おい、何やってるんだ!!」 
 兄の潤が優の手を掴んだ。
「やめろ!」 

 どれぐらい眠っていたのだろう。
 目が覚めると、汚れた天井と目が合った。 
 何も聞こえない。
 私は死んだのかな? 
 優は自分の手を、目の前に出して指を数えた。
 人差し指、中指、小指、親指、薬指…。
 自分の着ている服が、病衣に変わっていた。  
 私、病院にいるんだ。  
 潤が優の手を掴んで顔を覗き込む。
 ベッドの近くでは、母が泣いていた。  

 優は声を出そうとしたが言葉にならない。 
 耳が聞こえなくなってる、潤はノートにそう書いて、それを優に見せた。 
 優は自分の両耳を両手で塞いだ。何度も耳に手を当てても、空気の音すらわからない。
 悔しくて泣きそうになったが、優は汚れた天井を、ふと見て思った。
 隆一がいなくなり、誰かと話すことも、誰かの声を聞くことも、もうたくさんだと思うと、聞こえない世界にいたほうが、案外都合がいいのかもしれない。それに、耳が聞こえなくなった事は、自分という存在が、消えかけているようで、少しホッとした気持ちにさえなる。 
 優が視線を床に落とすと、父の義之が優にノートを見せた。
 これから北海道で暮らす、ここから離れよう。義之はそう書いて優の目の前に置いた。  
 優は首を振り、ノートを床に捨てた。  
 耳を塞ぐ優を、母のより子が抱きしめる。
「辛いね。」 
 より子はそう言って背中をさするけれど、その言葉は優には届かない。  
 潤が床に落ちたノートを拾い、義之からペンを奪って、文字を書き始めた。
 知り合いの牧場に頼んだから、そこでお世話になるんだ、その横に馬の絵を描いて、優に見せる。  
 優は首を振った。  
 北海道はこことは違う、きっと忘れていくから、義之はそう書いて優に見せた。 
 優は母に抱きついたまま、泣き続けた。 

 病院から退院すると、父は、”あかべい“という絵本を、優の部屋に置いていった。
 この本をどこで手に入れたのかわからないけど、自分はどうしても北海道に行かなくてはならないのかと思うと、家族までもが、耳の聞こえなくなった自分を厄介者扱いしていると思い、優は悲しくなった。   

 "あかべい“というその絵本は、はじめはパラパラとめくってみるだけだったが、優はその絵本を何度も何度も読み返すようになっていた。  
 力持ちで優しいあかべいという馬は、厳しい北海道の開拓で家族と一緒に働いてきた。機械化の時代になり、あかべいが家族の元を去っていくという話しは、何度読んでも理不尽な気持ちでいっぱいになった。
 優はあかべいの優しい瞳と、自分の帰りを待っていた隆一と重ねていた。    
 父は北海道の事を知らせたくて、この本を自分に渡したのかもしれないけれど、あかべいを捨てた時代も、隆一を殺してしまったような自分も、信じているものを裏切った、同じ罪人だと思うと優は悲しくなった。
 神様って本当にいじわるだ。 
 満ち足りてる時の優越感よりも、なくした時の後悔のほうが、何百倍にもなって襲ってくる。
 一瞬だけの光を見せて、すぐに深い谷に落としてしまうなら、最初から光りなんか見せなければ良かったのに。  
 優は布団を被って涙をすすった。 
 どれだけ泣いても泣いても、涙は枯れる事はないんだね。体のどこに、こんなにたくさんの涙を貯めておく場所があるんだろう。

 優に北海道へ行く事を勧めた兄の高山潤(たかやまじゅん)は、中央競馬で働いていた。
 運動がずば抜けてできたので、小さな頃から騎手になりたいと言っていたが、中学になると身長が急に伸びて、騎手を諦めた。 それでも、馬が好きだった潤は、有名な調教師のもとで、厩務員兼調教助手として働いている。  
 父はよく、なかなか万人にはできない仕事に就いたと、優に潤の事を自慢していたが、競馬には興味がない優にとっては、背が高く運動神経がいいのなら、それを活かして別の道に進む事もできたのに、いつもそう思っていた。 
 優が北海道に行く事を勧めたのは、潤がお世話になっている伊藤調教師だった。 知り合いの牧場が人手不足で困っているので、リハビリのつもりで、妹をその牧場に預けてみないかと、潤に話しをした。人と会話することが難しくても、馬ならきっとわかり合えるはずだと、伊藤は潤に言った。    
 北海道に向う前の日、伊藤先生からの手紙だと、潤は優に水色の封筒を渡した。   

 優さんへ  
 
 高山君はいつもあなたの事を、よく笑い、よくおしゃべりする妹だと話していました。  
 この度は、とても辛くて悲しい出来事があったのでしょう。  
 僕は最近、塞ぎ込む事が増えた高山君に、馬は言葉は話せなくても、心が読める賢い動物だと伝えました。 
 無理に話さなくても、無理に笑わなくても、みんなお見通しなんだと伝えました。 
 競走馬というのは、人の力がなくては生きる事ができません。
 金儲けと道具だと揶揄する人もいますが、多くの人の心に一瞬を刻む事ができる素晴らしい仲間だと、僕は思います。    
 あなたがこれからお世話になる所は、夫婦2人が経営している小さな牧場です。
 廃業する予定であった夫婦に、あなたの事を話し、もう少しだけ牧場を続けてほしいと頼みました。
 あなたが僕の所へ、素敵な仲間を送ってくれる日を待っています。                                
         伊藤謙(いとうけん)   

 優はその手紙をあかべいの本に挟み、旅立つ前に、隆一にお別れがしたいと、父に頼んだ。 

 両親と優は、隆一の家に向かった。
  
 義之が玄関先で、隆一の母と何かを話していたようだが、優が持ってきた花も受け取ってもらえず、そのまま車に戻るように、優を振り向かせた。  
 優は振り返り、隆一の母と姉に頭を下げた。 
 父は優の肩を強く掴んで、車まで連れて行った。
 車に乗り込む直前で、優は持っていた花を玄関の前に置き、隆一のいない家のドアに頭を下げた。  
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