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2章
仔馬の誕生
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北海道までは、潤が一緒だった。伊藤調教師が自分の代わりに御夫婦に挨拶して来るよう、潤を付き添わせたのだ。
新千歳空港に着き、そこからレンタカーを借りて、新冠町という所まで向かった。
どこまでもどこまでもまっすぐな広い道。
空も土も、新鮮でまるで冷蔵庫の中にいるようだ。
優は車の窓をあけ、冷たい空気を深く吸った。
吐き出した息も、冷たいままで澄んでいる。
潤が優の肩を叩き、寒いと身震いする仕草を見せたが、優は窓を閉めなかった。
3月の北海道は、ところどころ、土が混じった雪が残っていた。吐き出した息がまだ白くなる。
潤はもう一度優の肩を叩き、窓を閉めるように、窓を指した指を上に向けた。
新冠町にたどり着くと、松本牧場という看板があった。先が霞んで見えないくらい広い緑のジュータンが敷かれた上には、数頭の馬が草を食べていた。
「ごめんください。」
潤が呼んでも返事がない。
「ごめんください。」
もう一度呼んでも返事がないので、裏の厩舎の方をまわってみると、
「あー、もしかして伊藤さんとこの人? 今、ちょうど仔馬が生まれそうで、ごめんね、家開いてるから入って休んでて。」
日に焼けて真っ黒顔の男性が、家の方を指さし、厩舎の中に走っていった。
潤は荷物を厩舎の入口に置くと、人が集まっている方へ走って行った。優もとりあえず、潤の後をついて行く。
一頭の馬の前には、獣医らしき人が来ていて、さっきの男性と話し、何度も首をかしげ、腕を組んでいた。
聞こえない優にも、大変な事態が起きていることを感じた。
どれくらい時間が経ったのか、母馬が暴れ、皆が一斉に離れると、細くて小さな足と仔馬の顔が出てくた。
白い袋のようなものに包まれているので、優はまるでプレゼントが出てきたようだと思った。
ようやく、後ろの足が出てきた時、母馬はその場には倒れ動かなくなった。
若い男性と、さっきの日に焼けた男性が、産まれた仔馬の体を一生懸命にタオルで拭いていた。隣りでは動かなくなった母馬にすがり、女性が泣いている。
仔馬を拭いていた若い男性は、潤に何かを話していた。男性が話し終えると、潤も仔馬をタオルで拭き、今度は仔馬に何か話しているようだ。
仔馬の首が持ち上がり、必死で立とうと踏ん張り始める。何度かよろけているうちに、仔馬はしっかりと立ち上がり、動かなくなった母馬に寄っていった。
泣いていた女性が、仔馬の頭を撫でる。
家に入ると、潤はあらためて、この牧場のご夫婦と、さっき仔馬を拭いていた若い男性に、頭を下げて挨拶をした。
優も同じように、3人に頭を下げた。
泣いていた女性が、潤の持っているノートに
<これからよろしく>
そう書いて、優に見せる。
優はもう一度、女性に頭を下げた。女性は優が自分で髪の毛を抜いてかさぶたになっている頭を優しく触った。
あの晩、課長が自分の髪を撫でた事を思い出し、優はとっさに女性の手から体を引いた。
<ごめんなさい。少し気になって。痛くはないの? >
女性はそう書いて優に見せた。優は首を振った。
日に焼けた男性は女性を指さし、松本優子(まつもとゆうこ)、自分を指さし、松本辰夫(まつもとたつお)、タオルの男性を指さし、従業員の高田稜(たかだりょう)とゆっくり口を動かして紹介した。
優は自分の耳を指し、首を振る。
「そうか、ごめん。」
男性はノートに3人の名前を書いて、それぞれを指さした。そして続けて、
<大丈夫だから。>
そう大きく書いた。
優は気になっていた母馬の事が知りたくなり、
<さっきのお母さん馬は?>
ノート書いて男性に見せる。
<仔馬はあなたが世話をしなさい。>
男性はそう書いて優に見せた。
優が不安そうな顔をすると、
「稜が教えてくれるから、そう教えてくれないか。」
男性は潤に頼んだ。
2人が何かを言っているか優にはわからず、潤の顔を覗き込んだ。
<大丈夫、稜さんが教えてくれるから。>
そう書いて、稜の方を指さした。
稜は黙って居間にあるピアノを見ている。
「稜、馬の世話どころか、草も水も触った事のない人だ。一から教えてやりなさい。」
辰夫が稜に言った。
「わかりました。でも、俺はそんなに気を使えない人間なんで…。」
稜は辰夫にそう言うと、潤の前にきて、
「俺もこちらの親父さんと奥さんには言い尽くせない恩があります。事情があって素人の妹さんがここに来ることになったのは聞きましたが、ひとつの判断が危険な事に繋がるこの仕事は、はっきり言って、そちらの事情は関係ありません。一度手をつけた事は、逃げるなんて許されないし、泣いてる隙なんか一つもないです。お兄さんも同じ商売やってるからわかると思います。それでも妹さんは、ここで暮らしていこうと思ってるんですか?」
稜は潤の目をまっすぐ見ている。
「稜くん、そんな事言わなくても、これからみんなで仲良くやっていきましょうよ。優さんだって、今はまだ気持ちが整理つかない状態でしょうけれど、きっといい仲間になってくれるはずよ。」
優子はそう言って優の手を握り、優に大丈夫と言って笑った。
どんな話しがされているのか、優にはわからなかったが、稜という人が、自分をよく思っていないという事は感じていた。
潤は明日、朝早い飛行機に乗るからと、これから千歳へ向かう事を辰夫に伝えた。
<頑張れよ。>
優にそう書いたノートを渡し、松本夫婦に頭を下げている。潤は最後に稜に何かを話してから、車に乗って、優に手を振った。
とうとう、本当に1人になった。
優は潤の車が消えて行くのを見ながら、冷たいが吹く中、1人、外に立ち尽くしていた。
新千歳空港に着き、そこからレンタカーを借りて、新冠町という所まで向かった。
どこまでもどこまでもまっすぐな広い道。
空も土も、新鮮でまるで冷蔵庫の中にいるようだ。
優は車の窓をあけ、冷たい空気を深く吸った。
吐き出した息も、冷たいままで澄んでいる。
潤が優の肩を叩き、寒いと身震いする仕草を見せたが、優は窓を閉めなかった。
3月の北海道は、ところどころ、土が混じった雪が残っていた。吐き出した息がまだ白くなる。
潤はもう一度優の肩を叩き、窓を閉めるように、窓を指した指を上に向けた。
新冠町にたどり着くと、松本牧場という看板があった。先が霞んで見えないくらい広い緑のジュータンが敷かれた上には、数頭の馬が草を食べていた。
「ごめんください。」
潤が呼んでも返事がない。
「ごめんください。」
もう一度呼んでも返事がないので、裏の厩舎の方をまわってみると、
「あー、もしかして伊藤さんとこの人? 今、ちょうど仔馬が生まれそうで、ごめんね、家開いてるから入って休んでて。」
日に焼けて真っ黒顔の男性が、家の方を指さし、厩舎の中に走っていった。
潤は荷物を厩舎の入口に置くと、人が集まっている方へ走って行った。優もとりあえず、潤の後をついて行く。
一頭の馬の前には、獣医らしき人が来ていて、さっきの男性と話し、何度も首をかしげ、腕を組んでいた。
聞こえない優にも、大変な事態が起きていることを感じた。
どれくらい時間が経ったのか、母馬が暴れ、皆が一斉に離れると、細くて小さな足と仔馬の顔が出てくた。
白い袋のようなものに包まれているので、優はまるでプレゼントが出てきたようだと思った。
ようやく、後ろの足が出てきた時、母馬はその場には倒れ動かなくなった。
若い男性と、さっきの日に焼けた男性が、産まれた仔馬の体を一生懸命にタオルで拭いていた。隣りでは動かなくなった母馬にすがり、女性が泣いている。
仔馬を拭いていた若い男性は、潤に何かを話していた。男性が話し終えると、潤も仔馬をタオルで拭き、今度は仔馬に何か話しているようだ。
仔馬の首が持ち上がり、必死で立とうと踏ん張り始める。何度かよろけているうちに、仔馬はしっかりと立ち上がり、動かなくなった母馬に寄っていった。
泣いていた女性が、仔馬の頭を撫でる。
家に入ると、潤はあらためて、この牧場のご夫婦と、さっき仔馬を拭いていた若い男性に、頭を下げて挨拶をした。
優も同じように、3人に頭を下げた。
泣いていた女性が、潤の持っているノートに
<これからよろしく>
そう書いて、優に見せる。
優はもう一度、女性に頭を下げた。女性は優が自分で髪の毛を抜いてかさぶたになっている頭を優しく触った。
あの晩、課長が自分の髪を撫でた事を思い出し、優はとっさに女性の手から体を引いた。
<ごめんなさい。少し気になって。痛くはないの? >
女性はそう書いて優に見せた。優は首を振った。
日に焼けた男性は女性を指さし、松本優子(まつもとゆうこ)、自分を指さし、松本辰夫(まつもとたつお)、タオルの男性を指さし、従業員の高田稜(たかだりょう)とゆっくり口を動かして紹介した。
優は自分の耳を指し、首を振る。
「そうか、ごめん。」
男性はノートに3人の名前を書いて、それぞれを指さした。そして続けて、
<大丈夫だから。>
そう大きく書いた。
優は気になっていた母馬の事が知りたくなり、
<さっきのお母さん馬は?>
ノート書いて男性に見せる。
<仔馬はあなたが世話をしなさい。>
男性はそう書いて優に見せた。
優が不安そうな顔をすると、
「稜が教えてくれるから、そう教えてくれないか。」
男性は潤に頼んだ。
2人が何かを言っているか優にはわからず、潤の顔を覗き込んだ。
<大丈夫、稜さんが教えてくれるから。>
そう書いて、稜の方を指さした。
稜は黙って居間にあるピアノを見ている。
「稜、馬の世話どころか、草も水も触った事のない人だ。一から教えてやりなさい。」
辰夫が稜に言った。
「わかりました。でも、俺はそんなに気を使えない人間なんで…。」
稜は辰夫にそう言うと、潤の前にきて、
「俺もこちらの親父さんと奥さんには言い尽くせない恩があります。事情があって素人の妹さんがここに来ることになったのは聞きましたが、ひとつの判断が危険な事に繋がるこの仕事は、はっきり言って、そちらの事情は関係ありません。一度手をつけた事は、逃げるなんて許されないし、泣いてる隙なんか一つもないです。お兄さんも同じ商売やってるからわかると思います。それでも妹さんは、ここで暮らしていこうと思ってるんですか?」
稜は潤の目をまっすぐ見ている。
「稜くん、そんな事言わなくても、これからみんなで仲良くやっていきましょうよ。優さんだって、今はまだ気持ちが整理つかない状態でしょうけれど、きっといい仲間になってくれるはずよ。」
優子はそう言って優の手を握り、優に大丈夫と言って笑った。
どんな話しがされているのか、優にはわからなかったが、稜という人が、自分をよく思っていないという事は感じていた。
潤は明日、朝早い飛行機に乗るからと、これから千歳へ向かう事を辰夫に伝えた。
<頑張れよ。>
優にそう書いたノートを渡し、松本夫婦に頭を下げている。潤は最後に稜に何かを話してから、車に乗って、優に手を振った。
とうとう、本当に1人になった。
優は潤の車が消えて行くのを見ながら、冷たいが吹く中、1人、外に立ち尽くしていた。
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