冬の雨

小谷野 天

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3章

干し草

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 潤が帰った後、稜がこっちと手招きをした。優が案内されたのは、松本家の離れにある部屋だった。
 凌は壁に張ってある、スケジュール表を指さした。
今度は床に置いてある、作業着を手に取ると、優に渡した。
 外で待ってると合図された優は、頷いて服を着替え始める。 女性用のつなぎだったが、使い古されたものだった。優子さんのものだったのかと思ったが、小柄な優子さんのサイズではなかった。    

 厩舎の前で待っていた稜は、優がくるのを確認したあと、草を食べている馬に向かって歩き始める。
 優は遅れを取らないように走り出すと、稜は急に振り返って、怒った様に何かを優に言っている。  
 優が稜の口元を見ると、走るな、そう言っているように感じてたので、頷いて、凌の後ろをゆっくり歩き始めた。   
 牧場につくと、1頭の仔馬の手綱を優に握らせた。草を喰んでいた仔馬は、素直に優の横に体並べる。稜はその仔馬の母馬らしい大きな馬の手綱を持つと、ついてくるように優に合図した。優は母馬の手綱をもつ凌の後を、自分と同じ背丈の仔馬の手綱を引きながら、ゆっくりと歩いていく。
 冷たい風が優の頬を通っていく。きっと草が揺れる音や、馬が草の上を歩く音が、聞こえているに違いない。 サラサラと揺れている鬣を見ると、空いている片方の手で、髪の毛の抜けた自分の頭を触った。

 次に生まれてくる時は、馬の方がいいかもしれない。 
 
 10頭程の馬をすべて厩舎に戻すと、稜はこっちと手招きをし、今度は馬のエサについて説明した。  
 優は稜の肩に触れ、自分の耳を指差した。凌は何かを言っているようだが、優にはわからないので、仕方なく稜がエサを作る様子を、ただ黙って見つめていた。今度は優が作るように合図されると、わからないと首を振った。凌は目の前のあるホワイトボードを指さし、優に計量カップを持たせた。
 優が顔を近づけてホワイトボードの文字を見ると、1頭ずつ、餌の作り方が違っている。凌はもう一度、餌を作り始めた。優は壁にぶら下がるホワイトボードと凌を見比べてながら、餌を作っていく様子を、なんとか覚えようと、視線を行ったり来たりさせた。 

「あんたが、聞こえなくても、俺にも馬にも関係ない。かわいそうだとか、気の毒だとか、そんな感情がほしいのなら、とっとと東京へ帰ればいい。」
 稜はそう言うと、優の顔を見た。不思議な表情を浮かべた優と目が合うと、凌は視線をそらした。
 計量カップを握る優のきれいな手を見た時、凌は優の事を自分とは違う世界にいる人だと感じた。
 節がゴツゴツした自分の手も、ガサガサに荒れていた好きだった優美の手も、ここで生きてきた紛れもない証だ。冷たい水さえ触った事のなさそうな優の手を見ていると、ここにはそう長くはいないだろうと、凌は思った。 
 優子は娘の優美(ゆみ)に、小さい頃からピアノを習わせていた。優美は傷だらけの手を見られるのが恥ずかしいと言って、中学を卒業する頃には、教室に行くのをやめた。人前で弾くのをやめても、優美は覚えている曲を、家でよく弾いていた。
 厩舎での作業中、ピアノの音が聞こえはじめると、優美が学校から帰ってきたのだと、凌は感じる。
 風と共に駆ける優美のピアノの音色は、稜の凍ったも少しずつ溶かしていった。 

 稜は優にバケツを渡す。
 優は稜がやっていたようにエサを作り始めた。
 稜は優が少しでも多かったり少なかったりすると、優の手を止め、ホワイトボードを見せ、何度も確認させた。  
 優と稜の様子を見ていた辰夫が、   
「もう少し、優しくしてやれよ。」 
 凌にそう言った。
「聞こえないって事で、みんなから腫れ物みたいにされてる方が気の毒ですよ。」 
 凌は辰夫に言い返すと
「稜、本当は千歳に就職が決まってたのに、無理に引き止めて悪かったな。」 
 そう言って辰夫は凌の顔を見た。
「俺がここにいるって決めたんですから、この人がきた事とは関係ありません。それより、優子さんのリウマチの具合はだいぶ悪いんでしょう?」 
「ああ、朝は特に辛いみたいでね。医者からは、今さら本格的な治療をしたところで、せいぜい痛みが少し軽くなるだけだって言われてさ。本人はだましだましやってるみたいけど、だんだん指の変形も強くなってね。」
「こっちは、俺と辰夫さんでなんとかやっていけますし、この人に家の事をやってもらった方がいいと思いますよ。優子さんも助かると思いますし。」 
 凌は優の方を見た。
「優子もそれはありがたいだろうけど、ここへ来たなら、馬の仕事もやってもらわんと。」  
  2人の会話がわからない優は、黙々とエサを作っていた。     
 稜はバケツに水を入れて運ぶよう優に伝えた。
 優は10頭いる馬の前にひとつずつ運ぶと、息を切らして、壁に寄りかかった。 ヘトヘトになっている優に、稜がまた何かを言っている。 優はもうできないと伝えようと、顔の前では手を横に振った。
 甘えるな、稜の口元がそう言っているようだった。 

 優は馬がいなくなった放牧地を見つめて、夕暮れにも染まらず、どこまでも続く緑の先に、都会の灰色が見えないか探していた。    
 自分だって、好きでここに来たわけじゃないのに、優はそう思っていた。  
 稜は優の目の前に立つと、優に何かを言った。そして、松本家に向かって、1人で足早に歩いて行った。優はその後を、仕方なくついていく。  

 松本家に着くと、優子が優の姿を見て急に泣き出した。 
「優美がきたかと思ったねえ。稜くん、優美が帰ってきたみたいね。」 
 優の腕を掴んで泣き始めた優子を見て、
「この人と優美ちゃんは違います。」 
 凌はそう言ったが、
「人が増えるって、いいものね。」  
 優子は優を抱きしめた。  

  優は居間にあるピアノを見ていた。 
「優さん、ピアノ、弾けるの?」  
 優子が優にピアノを弾くジェスチャーをする。 
 優は少しと、指で伝えると、優子は嬉しそうに、ピアノの前に座らせた。 
 静かにピアノの蓋を開けると、鍵盤に指を置く。 
 何かを引きかけたところで、優はピアノの突然、蓋を閉じた。  

 音のない世界で暮らしていくということは、こういうことなんだ。

 優は優子に、ごめんなさいと手をあわせる。 
 優子は涙ぐみながら、優のきれいな手を、優しく変形したした自分の手で包みこんだ。   

 食卓に先についた隆一は、優子を呼んでいた。
 優子は稜の隣りに優を座らせると、辰夫はいただきますと、言っているのか、手を合わせた。  
 凌が優に醤油を渡す。優は小さく頭を下げると、優子は何かを言って笑った。
「あら、そんな稜くん、久しぶりに見た。」  
 優子はそう言っていた。 優には皆が何を言っているのかわからないけど、稜は少し照れているようだったと感じた。

  食事が終わると、辰夫は優にお風呂に入るようジェスチャーしたが、稜は優に台所を指さした。 
 台所に行くと、優子が食器を洗っている。時々、食器を落とし、泡のついたスポンジを何度も持ち直している。優は優子の曲がった指を両手で包んだ。そしてスポンジを持ち、食器を次々に洗っていった。 
「ありがとう。」  
 優子がそう言っているのがわかる。  
 優は優子を見て、小さく頷いた。  
 
 部屋に戻ってから、優は東京では見ることのできない紺色の空から、星がこぼれてこないかと、ずっと窓を見ていた。  
 聞こえないはずなのに、冷たい空気のせいで、星の光がぶつかり合う金属音が聞こえるようだった。  
  
 隆一が待っていた夜。
 課長の電話に出なければ、何もかもを失わずに済んだ。
 1人で駅に向かっていた隆一の上には、どんな星が広がっていたんだろう。  
 これから、自分は誰とも話すことはない。
 なんの音も聞こえない。
 隆一からすべてを奪った罰が当たったのだろう。  
 優は布団に入ると、背中をうずめて眠った。    
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