冬の雨

小谷野 天

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12章

優駿

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  5月の日曜日。 

 馬主席に招待されていた、辰夫と優子はベランダから、アカマルの様子見ていた。 
「夢みたいね、お父さん。」   
  優子が言う。 
「僕もね、夢を見ているみたいなんです。NHKマイルを勝って、ダービーにも出るとはね。 あの時、浅尾くんがお宅の娘さんを気に留めなければ、こんな出会いはなかったですよ。」 
 丸岡はそう言って笑った。
「本当ですね。」 
 辰夫は、双眼鏡を除きこんだ。 
「さすが、どれもいい馬ですね。」 
「そりゃそうでしょうよ。今日はダービーですからね。」  
  
  図書館の休憩室では、優がテレビを見ていた。
  柏代ファームの事務所では、従業員が集まってテレビを見ていた。 
 優の実家では、両親が座ってテレビを見ていた。  
 隆一の家では、母と姉がテレビを見ていた。 
 伊藤厩舎の調教小屋では、潤と多くのスタッフが息を殺して、テレビを見ていた。   

「松本さん、ダービーは勝つべき馬が勝つんですよ。運がいいとか、展開が味方するのではなく、勝つべき馬が勝つんです。レッドは、きっと勝ちますよ。」    
 丸岡はそう言った。
 ファンファーレがなり、バンっと一斉にゲートが開く。
 
  マルコレッドは、いつもの様に中断より後ろにいた。
  10馬身以上の差をつけて、1頭が独走していた。
   4コーナーを回り、独走していた逃げ馬のスピードが遅くなってきた時、馬群の間を抜けて、1頭の馬がスピードを上げてくる。マルコレッドは1番外を回り、頭が抜けた1頭と、逃げていた馬を、あっという間に一気に抜き去った。  
 
  ゴールはした瞬間、見ている者の時を止めたマルコレッドは、3歳の春に、たった一頭しか獲る事のできないダービー馬になった。 
 
 丸岡と辰夫と優子は、抱き合って泣いていた。  
  関係者控室で待つ伊藤調教師は、厩務員達と抱き合って泣いていた。  
  優の両親は、こぼしたお茶にも気づかず、2人で手を取って泣いていた。  
   隆一の家族は、優さん、すごいわと言って抱き合って泣いていた。  
  柏代ファームでは、一斉に稜に拍手が向けられた。
  図書館の休憩室では、両手をあわせた優が、そのまま手を握りあわせ泣いていた。  
  マルコレッドと共に、ダービージョッキーになった浅尾は、鞭を落としたのも気づかず、馬上で泣いていた。  
  多くの競馬ファンが、浅尾とマルコレッドに拍手を送った。  
  アカマルが運んできた幸せの瞬間は、いろんな形で、人々の心に届いていく。 

 その夜、稜は優が1人で留守番をする、伊藤宅に来ていた。 
「辰夫さん、嬉しいだろうな。」 
 そう言うと、優に辰夫と優子の食卓の席を指さした。
  優はノートにアカマルを描いていた。   
 
  稜達が生活していた宿舎は取り壊され、優は優美の部屋で生活している。
  凌はなんにもない、殺風景な部屋に案内されると、優はこっちと手招きをし、押し入れの中を見せた。
 押し入れの壁には、稜の写真が1枚貼ってあった。    
  優美が貼ったものと思われるその写真は、優も大切にしている。
<優美さんは稜が大好きだったんだね。>
 優はノートに書いた。
 稜は黙って頷いだ。
 優に怒っているのかと、頭に角を作ると、
<私も大好き、同じ。>
 そうノートに書いた。  
<俺は優より先には死なないよ。>
 凌はそう書いて優にノートを見せた。  
 不器用な稜の愛し方は、優を優のままでいさせてくれる。
 稜もまた、優の持つ深い感情の底に、自分の思いを素直に置いてくる事ができる。 

 俺は死なないという文字をなぞると、優は小指を立てた。稜は優の小指に自分の小指をからませ、優を引き寄せた。  

 ベッドに入ると、優はあかべいの絵本をめくっていた。
 本の途中には、伊藤先生が書いた手紙や隆一の母が書いた手紙が挟まっていた。
 浅尾が書いた手紙を見つけた稜は、これは投げなさい、と優に言った。
 優はあかべいの絵本にまた閉じると、今度はノートに開き、起きろと書いた、稜の字を見せた。
 優はそのノートを顔にぶつける真似をして、稜を指さした。凌は笑った。
 凌の描いた太陽が優を包んでいる絵を見せて、優は凌に包み込む仕草を見せた。
 稜はわかったよ、そう言うと、優を抱きしめ、優の髪に顔をうずめた。   

 静かな時間が2人の周りを包んでいく。
 さわさわと聞こえる草の音が、夜の空気に溶けていった。
 それぞれの思いが、星空を下に詰まっている。
 
 優は稜の力強い腕の中で静かに目を閉じた。   

 終
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