マギアルサーガ~惡の化身~

松之丞

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序 悪しき道、苦難にて

第九話

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 俺は、父が嫌いだった。男手一つでここまで育ててくれた恩義は感じれども、嫌いだという感情は否定できないほどまで膨れ上がっていた。根本的に人となりが合わなかったんだろう。だから、まだ小さかった俺は、困らせてやろうと思ったんだろうな。あの女に、接触してやろうと考えたんだ。もちろん、好奇心がなかったわけじゃないけど、当時は父への反抗心が大半だったように思う。今振り返れば、いじらしい謀反だ。

 あの女は聖女という肩書きを携えてロギヴェルノ中を行脚し、数年掛かりで全国の苦悩苦痛に悶える者を癒やして回るそうだ。最果ての地レコンでは、ほんの数日間の逗留だとか。だから俺は、早速行動に移した。教師の目を盗んで学校を抜け出し、村の通りに出る。するとそこには、人だかりができていた。その中心にいたのが――父が魔女と呼んだ――あの女だ。

 村人を癒やして回る彼女は、村中から奇跡の聖女と呼ばれ慕われていた。村には昨日到着したばかりだというのに、ほんの一朝一夕で、村人たちの人心を掌握していたんだ。父が魔女と呼ぶ所以を垣間見たように思う。

 俺は恐る恐る人だかりに紛れて、村人の輪の中にいる女を覗き見る。彼女は一人一人の手を取って、その語りに笑顔で耳を傾けていた。まあ、確かに、位の高い尼さんが、自分の悩み苦しみを分かってくれるってだけでも、気分が良くなるのかもな。でも、本当にそれだけか? たったそれだけで、ここまで人望を集められるものなのか? そう、俺が当然の疑問を抱いた、その時。

 腰帯に佩く白百合の紋章をあしらった儀仗用ナイフを手に取り、女は己の指先を切る。そこから滴り落ちる鮮血を、手を合わせて跪く老婆の瞼に塗る。すると、盲目の老婆の瞳に――光が灯った。

 まさに奇跡としか呼べない光景に、村人からの惜しみない拍手喝采が辺りを埋め尽くす。その中には、女の御業に対して、半信半疑の若人もいただろう。だけど、そんな――俺を含めた――天の邪鬼の連中さえ、一瞬にして虜にしてしまったじゃないか。

 馬鹿な、一瞬で治してしまった……いや、たとえ魔術であっても、全盲を治療するとなれば、もっと複雑な術式を踏まなきゃ無理だ。何より、原因も縁も調べずに治すだなんて、そんなことが可能なのか。あれが、本物の秘跡サクラメントって奴なのかよ。

 ――魔女とは……なるほど、常人では決して理解できぬ魔境に身を置く者か。その時は、妙に興奮したね。なんて人間がこの世にいるのかってさ。同時にやっぱり、恐怖したよ。この女が万に一つ、人々に牙を剥いたならって。そしてようやくその時、俺は彼女の名を知ったんだ。かつて盲目だった老婆が、崇敬と礼譲を込めた声で、フリアエ様と。

 フリアエ……それが、あの女の名。何の変哲もない名前。特段、珍しいものでもない。なのに、耳にした途端、不思議な感触が俺の胸に残った。それを何と表現すべきか、今でも分からない。けど、きっと忘れることは出来ないだろう。そんな、えも言われぬ気持ちを抱いたんだ。きっと、これまでも、これからも、ただ一度だけの経験じゃないだろうか。

 その後、かつて盲目だった老婆に続き、肉体や精神さえ問わぬ種々の病人を救っていく。種も仕掛けもない手品のように。フリアエが一呼吸を置く度に、村人から歓喜と安堵が漏れる。これぞ、救世主。未だかつて誰も成し遂げられなかっただろう、真の救済が俺の目の前にあった。

 だけど、俺は気付いてしまった。それに気付いてしまった俺は、きっと村人たちの中でも飛び抜けて天の邪鬼なのかもしれないけど――フリアエの瞳は、笑っていなかった。視る者を掌握してしまうほどに艶かしい、紫苑を湛える瞳には、その艶麗さとは対照的に、悲壮ささえ見て取れた。必死に、必死に、耐えているようで。

 結局、彼女は大小を問わず、村人たちのあらゆる苦しみを吸い上げてしまった。嗚呼……一つの小さな村が、たった独りの女の手によって、完膚なきまでに救済され尽くしてしまった。末恐ろしいことだ、フリアエ。お前という人間が、恐ろしい。その時の俺は、身震いするほど怖がっていた。

 でも、幼さゆえの無鉄砲さがあったからだろうな。それほどまでに恐怖していた相手に、俺は真っ向から立ち向かったんだ。村人たちへの秘跡サクラメントを終えて、村外れの聖堂へと戻るフリアエの背中を追った――多分、彼女は俺の尾行に気付いていたんだと思う。承知した上で、人気の無い村外れの、緑が茂る裏通りまで導いたんだろう。まさか、読心術でも掛けていたのか? というくらい、俺の言わんとすることを知りつつな。

 なんせ、俺がフリアエに問い掛けた、最初の言葉が、

「なんでそんなに悲しそうなの?」

 だからな。奇跡の聖女が向ける屈託のない笑顔、それを必死に装って救済した村人たちの前で、それだけは聞かれちゃならないだろうさ。だから、わざわざ人気の無い茂みまで、気付かないふりをしていたんだ。

「君は、不思議な子だね、坊や」

 フリアエは膝を折り、見上げていた俺の目線の高さまで屈んだ。白銀の髪に縁取られた、透き通るような絹肌に、心が体から抜け落ちるかと思うほど魅惑的な紫苑の瞳。俺はすぐに反り返った。

「……私が、怖いかい?」

 そう俺に問い掛ける彼女は、まるで不安げな表情だった。でもそれは、他人からの忌避を恐れる者が浮かべる、哀求の表情ではなかった。むしろ、そうあって欲しいかのような、祈る者の表情だ。

「うん、怖い」

 俺は忌憚なく、フリアエの願いに応えた。素直な気持ち半分、彼女の求め半分。それが良いことなのかは、子供の俺には判断できなかったけど、彼女の表情は真剣だったように思ったから。

「ぷ、ふふふ、あははは!」

「あ、笑った」

 フリアエの瞳は、笑っていた。その時、俺は初めて、彼女が素直に笑みを溢した表情を認めたんだ。

「ようやく、君に会えたんだね」

 その言葉の意味は、今でもよく分からない。自分を目の前にして、恐れてくれる者がいたことが? 己の《魔力》に抗える者だったから? つまり――いずれ自分を殺してくれる人間だと見抜いたから?

 それからというもの、学校を抜け出しては、フリアエに会いに行った。そのたびに、彼女は俺に色んな話をしてくれた。

 祖国ロギヴェルノの絢爛な首都ヴァルヘインの話。幾つもの小さな隣国の話。大地の果てに広がる大海原の話。世界に遍在する十の種族、汎人族ノア長人族エルフ小人族プル大人族ヴァンダル角人族ハウル妖人族フェアリー隠人族サヴァント狼人族ライカント血人族アルカード竜人族ドラゴニュートの話。現象を再現する《魔術》と、概念を再現する《咒術》という二つの魔法の話。

 いつの間にか、二人の間には、友情のようなものが芽生えていた。もちろん、フリアエがレコンに居座り続けることなどできない。泣き腫らした眼で見送る俺に、彼女はいつも「近いうちにまた来るよ」と言って去って行った。するとどうだ、彼女はその約束通り、年に一度は村を訪れてくれるようになったんだ。国中、いや世界中を行脚して救済を続けなければならない聖女という身にしては、特例的な措置だろう。教会ウルダの連中をどう言い含めたのかなど、想像できるべくもないが。

 人目を忍んでは、フリアエに会いに行った。それは、何年目の来訪だっただろうか。彼女は自分の身の上を語ってくれた。
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