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<< 外伝 水口麻耶への手紙 >>

9、歓迎会事件 (3)

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「桜子ちゃん!」

 驚いた桜子さんが尻餅をつくと、間髪入れず、日野先生がその足元にしゃがみ込む。

「桜子っ!」

 今度は悲鳴を聞きつけてキッチンに飛び込んで来た八神先生が、日野先生を勢い良くグイッと押しのけて割り込むと、桜子さんの前にしゃがみ込んだ。
 その表情は色を失い、桜子さん以外のものは目に入らないという感じで、まさしく『血相を変えて』いた。

 彼は素早く桜子さんを抱き抱えるとオマケのように私を振り返り、声を掛ける。

「水口さんは?」
「少し腕に跳ねた程度だから、少し冷やしておけば大丈夫」
「そうか」

 後を日野先生に任せると、桜子さんを大切そうに抱え、廊下に出て行った。

 これではもう歓迎会どころではない。
 あれだけ油がかかっていたら桜子さんの足は病院で診てもらった方がいいだろう。

「なんだか……大変なことになっちゃいましたね」
「ああ……」

 返事をしながらも、日野先生は茫然と廊下の方を向いたままだ。

 私が水道の水で腕を冷やし始めると、八神先生が今気付いたというように氷嚢を探し、氷を入れて私の左腕に当てた。

「自分で出来るので大丈夫です」
「あっ……ああ……」

 日野先生から氷嚢を受け取り押し当てる。ヒリヒリとした痛みはあるけれど、ほんの少し油が飛んだ程度だ。その痛みも氷の冷たさで痺れて消えて行った。

 しばらくして八神先生が戻って来ると、案の定、歓迎会の中止を告げた。

「桜子を病院に連れて行く。悪いけど今日の会は中止にさせて欲しい……水口さんも、ごめん」

「いえ、場合が場合ですから。お料理中に私が邪魔をしたせいで……申し訳ありません」
「いやっ、俺が桜子ちゃんに話し掛けたりしたから……」

「そんなのどっちでもいい」

 八神先生の凄みのある声音に私も日野先生も固まった。

「いや……とにかく今日は申し訳ない。それじゃ俺は桜子の所に戻るから、また」

 玄関まで見送られると、最後は目を見ることが出来なくて、「お大事にして下さい」と言うのが精一杯だった。
 目の前でバタンとドアを閉められた途端、気まずさと後味の悪さを感じた。

 彼は怒っている……と思った。
 声を荒げることもなかったし、私を責める言葉もなかったけれど、低い声のトーンと表情で、静かに怒っているのが伝わって来た。

 日野先生と顔を見合わせてから、ゆっくりと駅に向かって歩き出す。
 暫くは2人とも無言だった。


「私……あんなに動揺した八神先生を始めて見ました」
「そうか……大志は桜子ちゃんを大事にしてるから……」

「お姫様抱っこしてましたね……本当に大切そうに……」

ーーそう、妹を心配するにしては、あまりにも……。

 日野先生を押し退けた時の必死な顔と険しい目は、まるで『俺のものに触れるな』と言っているようだった。
 油のかかった足を見た時の悲しげな瞳。
 彼女を抱き上げた時の愛おしげな表情。
 『そんなのどっちでもいい』と言った時の怒りを押し殺した声。
 
 それらはまるで……。

「まるで……恋人を扱うみたいでしたね」
「……ああ」

ーーえっ?

 その当然のような落ち着いた物言いに、なんとなく違和感を感じた。
 いや、彼はただ私の言葉に相槌を打っただけのことで……。


「それじゃあ俺はこっちだから……今日は残念だったね。今度また改めて……」
「いえ、大丈夫です。早く迎えに行けば息子も喜ぶし」

「そうか……じゃあ」

 その違和感の原因を深く追求する前に私たちは駅に到着し、短い挨拶を交わして改札で別れたのだった。


 地下鉄の電車に揺られながら、改めて今日の出来事を思い浮かべる。

 手伝いのつもりが彼女の気を散らせてしまったという後悔と申し訳なさ。
 楽しいはずの歓迎会がこんなことになってしまったという残念さ。

 そして……2人の男性が自分には全く見向きもせずに桜子さんを真っ先に心配したという事実に、女のプライドが傷つけられ、地味に凹んでいた。

ーー本当に見事に私の存在が忘れられていたわよね。

 それは本当に見事な切り捨て具合だった。
 切り捨てる以前に、桜子さん以外のものが目に入っていなかったんだろう。
 あの瞬間、2人の視界には私の存在は映っていなかった。綺麗さっぱり消え失せていたのだ。

 本当にそれはもう、潔いくらいで……。

 あの時の2人の熱量は、『義兄あに』でもなければただの『義兄の親友』のそれでもなかった。完全に親愛の情を超えていた。

ーーあれは……ただの『愛』だ。


「ああ、そうか……そうだったのね」

 これで漸く奇妙な三角関係の構図がハッキリした。
 桜子さんが事務所に来なくなってうやむやなまま胸に残っていた疑問がやっと解けた気がする。


ーー八神先生は桜子さんを愛している。

 妹としてではなく、1人の女性として。
 そして多分……そのことに日野先生は気付いているんじゃないだろうか。

 そう考えたら全ての辻褄が合う。

 八神先生が日野先生の前であからさまな独占欲を見せるのは、彼への牽制。
 日野先生が八神先生の前で一歩退くのは、彼に遠慮をしているから。
 それなら事務所での行動も納得できる。

 なんだかスッキリした。

 クロスワードパズルの正解が分かった瞬間というか、欠けていたパズルのピースが埋まったというか……。


ーーそれじゃあ、2人はお互いの気持ちを知りながら、お互いに気付いていないフリをしてるってこと?

 八神先生は義妹を愛していると言えずに義妹を溺愛する兄を演じて、日野先生はそれに気付きながら知らないフリをして、いい親友でい続けている……っていうこと……なの?


 私の推理はある意味当たっていたけれど、微妙に取り違えていたのだと気付くのは……本当は最後の最後のピースがちゃんと嵌まっていなかったことに気付くのは……もう少し後のことだった。

 私は彼らの友情の深さを……桜子さんに向ける愛情の重みを……まだ本当に分かってはいなかった。
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