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深宮の花
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吹きぬけの主殿に太陽の光が惜しみなくふりそそぐなか、降伏の宣誓はあっけなくすみ、イカラスの独立は終わった。羊皮紙に、老いた支配者は敗北者としておのれの名を紙上にきざみつけた。
今後、アルゲリアス帝国に忠誠をちかうこと、年一回朝貢すること、イカラス国内に帝国の総督府をおき、国政にかんしてはすべて提督の許可をとること、総督およびその家族、駐留軍の居住、生活費いっさいはイカラスがもつこと、さらにアルゲリアス帝国への忠誠と友好のあかしにイカラス王族のひとりをアルゲリアス国にあずけること。つまり人質をさしだす旨を、老いた国王は無表情で了解したのである。
「これで両国はめでたく同盟国となった。今日は記念すべき素晴らしい日だ」
タキトゥスは言っていて自分でも背がかゆくなるのを感じた。
戦にかんしては自他ともみとめる天才軍師であり帝国一の戦士を自負する彼ではあるが、外交交渉にかんしてはまったく不得手であることを自覚しているので、このような儀式はいたって苦手なのだ。
タキトゥスはひどく似合わない役を与えられた下手な役者になった気分でひたすら居心地が悪く、その決まり悪さをごまかすためぶっきらぼうになるか、いつもの嘲笑めいた笑みをふりまく。それは敗者の側から見れば力に驕った傲慢さに見えて仕方ないだろうが、タキトゥスは今さら自分の性分を変える気はなかった。
やがて簒奪者たちをもてなす宴がはじまり、みごとな薔薇模様の刺繍がほどこされた絨毯がしきつめられた大広間では、五彩の衣と七色の宝石で身をかざった黒髪黒眼のイカラス美人たちが、竪琴や笛を手に魅惑的な肢体を披露し敵兵たちを誘惑した。肌もあらわな女たちが広間の中央におかれた獣の皮をはった台のうえ――つまり巨大な太鼓のうえで踊りはじめ、踊り子たちの裸足の足が台を打つと小気味良い音がはじける。
長大なテーブルには島特有の野菜や魚をふんだんに使った料理が惜しげもなく銀皿にもられ、瑠璃杯はやはり島特産の美酒であふれ、この国では王侯貴族でしか食することができないという豚や牛も今日は異国の食欲旺盛な兵士たちをもてなすため食卓にのせられた。
外壁を帝国軍で包囲している余裕もあって、よもや毒殺の心配はないだろうと席をゆるされた高位の兵士たちは歓声をあげて食事と美女をたのしんだ。
だがタキトゥスとディトスにはまだもうひとつ仕事がのこっていた。
にぎやかな大広間から遠く、宮殿の奥殿の石床をふたりは供をしたがえてすすんだ。降伏した国の女たちは健気にも絹の敷物のうえにひざまずき頭をたれている。
花模様の絨毯のうえに彼女たちの華やかな衣の裾や長い髪がたれる様は、まさに蹂躙された花園でタキトゥスの征服欲をさらにあおったが、頭をふかくたれている婢めたちにはそれほど興味はない。
さらに奥にすすむと紫の帳が割られ、そこは馥郁とした麝香のかおる秘園である。
「恐れ入りますが、お供の方々はこちらでご遠慮くださいませ。これから奥は王族のお妃様方、姫君方のお部屋でございますので」
背のひくい宦官のしゃがれ声にディトスはうなずき、手で後ろにつづく男たちを止める。
「俺もここで遠慮する。タキトゥス、人質を誰にするかはおまえにまかせる」
タキトゥスは日焼けした顔にまた嘲笑をきざんだ。ディトスは汚れ仕事をしたくないのだ。
「ずるいな」
一言のこしてタキトゥスは女の園にはいった。
横一列にならんだ十数人の女たちは、きらびやかな衣と色とりどりの宝玉で身をつつんではいるが、皆一様に目をふせている。淑女たちは平素なら、彼女たちが貞節をちかった伴侶か保護者となる父兄にしか見せてはならぬ顔をかたく凍りつかせて敵将のまえにさらした。
「こちらは第一王女のエリメア姫様、こちらは第二王女のオレルナ姫様」
名を呼ばれるたびに王女たちの長い睫は恐怖にふるえる。直系王族の他にも親族となる貴族の娘もいれば、十三歳以下の少年王族もいる。
それぞれ背後には美しい侍女たちがつき、彼女たちも血の気がひいたような南国人らしからぬ暗いこわばった石のような顔で事態を見守っている。
この時代、人質には《性奴隷》というおぞましき別名がついてまわった。
他国へ人質にやられるということは、その国の権力者たちの慰み者にされることを意味しており、仮に殺されたとしても文句は言えないことになっていたのだ。
質として敵にさしだされた者はその時点で祖国においては死んだとされ、稀に戻ってくる場合があっても、人質にされて帰国した者の名誉は異国の腐土に染まりぬいたも同然で、生涯その汚名を背負って生きることになる。
人質として差し出されたある国の王子が、その敵国の王が急死し跡をついだ新王の慈悲によって祖国に帰されたことがあったが、帰って生き恥をさらすことを苦にして旅のとちゅうで自害した例もあるほどだ。
なかには人質として献上された王女が相手国の王から寵愛を受け子をもうけて正妃となったという幸運な例もあるが、そのような幸せな身におさまったものは非常に稀であろう。
若年の姫君などでは泣きだす者もいる。だが美姫や美童を見るタキトゥスの目はさめていた。かけらほども彼らには興味がわかない。
「あの者は何故いない?」
「は、あの者とは?」
「イリカという神官長だ。あやつも王族だろう? 連れてまいれ」
タキトゥスは宦官にいらだった声をぶつけた。
「お、おゆるしを。イリカ様は神官長にございますれば、俗世からははなれたお方でして、王族とはまたちがうお立場になられます」
「俺はあの者が欲しい」
宦官は腰を抜かしそうなほどに驚いて、首をふった。
「め、めっそうもない! 神の僕になられたお方ですし、それにイリカ様はすでに御歳二十二。人質になる歳ではございませぬ」
性の対象にする相手ではないという意味である。色小姓や稚児はどこの国にもある習慣だが、たいていは十代の乙女と見まごうばかりの頃が過ぎれば、すくなくとも権力者たちは相手にしない。
「王子殿下がお望みでしたら、あちらに」
宦官がおどおどと王子たちをひからびた指でさすが、タキトゥスは目もくれず純白のマントをひるがえした。
「ど、どちらへ!」
「神殿へ行く」
「な、なりませぬ」
「うるさい、どけ」
タキトゥス自身、自分でもどうしてこう胸が波立つのか理解できぬままに足をすすめた。
「タキトゥス、どうした? どこへ行くのだ?」
一度歩いた場所を忘れることがないタキトゥスは慣れた足つきで廊下をもどり、庭に面する石廊をすすみ南国の庭園の奥にある神域へとむかい、その後をディトスたちが必死に追った。
エメラルド色の若葉にまもられるように建つ小さな社殿に目指す相手はいた。
他の神官たちとなにか語らっていたのか、質素な部屋のなか机一面に書物がひろげられ、彼は今まさにある神書について議論していたのだろう、指を書のうえに置いたまま呆然として、扉を打ちやぶらんばかりにして入ってきた無礼な男に驚愕の瞳をむけた。
「な、何事なのだ?」
「イリカ……殿、すぐ準備をするがいい」
「どういうことだ?」
椅子から立ちあがるとイリカは不思議そうに扉の外でひかえている宦官に目をむけたが、騒ぎを聞いてあわてて息せききらしてやってきた宰相も彼の問いに答えられないでいる。
「あなたをアルゲリアスにつれていく。人質はあなたと決まった」
神官たちがおののいて、いっせいに立ちあがった。
「うるさい! 騒ぐな!」
獅子の一喝のまえに哀れな神の僕たちは一言も返せない。
「さあ、すぐに準備するがよい。いや、持っていくものなどなにもなくてよい。身ひとつでアルゲリアスへ来られるがよい。人質はイリカ殿だ、わかったな」
「お、恐れながら……」
なにか言わねばと口をぱくぱくさせている宰相にタキトゥスは吼えた。
「俺が決めたのだ! 文句があるか?」
そこですべてが本当に決まり、すべてが終わった。
「ゲルニス、私はどうすれば良いのだ? 本当にアルゲリアスへ行かねばならないのだろうか?」
白衣に身をつつんだゲルニスと呼ばれた老神官はいたましげに白い眉をよせた。
「なんということでしょう……。この国は魔物に魅入られてしまったとしか言いようがない」
石室にはふたりだけだ。卓上の蝋燭がほのかな明かりをつくり、イリカの困惑しきった顔を照らしだす。
イリカにとってはまったく信じられないことだ。二十二年間ほとんど宮殿と神殿のなかだけで過ごし、イカラス国内ですらろくに知りもしないのを、いきなり侵略者の国につれていかれることになったのだ。
あきらめてはいたが、やはり父国王からは何事もタキトゥス将軍の言うとおりにするようにという伝言があっただけだった。幼少のころから神門に入り、家族とも儀式の折り以外では顔を合わすこともなかった彼にとっては骨肉といえども遠い人だったが、それでも実父なのだ。せめて一言でもあの傲慢な将軍に反論して欲しかったのだが……。
「負けるということは、こういうことなのでございます。ですが、それはけっして永遠のことではございませぬ。イリカ様……」
低い声でゲルニスはイリカの名を呼び、老いてかわいた眼に涙をためて訴えた。
「よろしいですか? なにがあっても……みずから死をえらぶようなことだけはしてはなりませぬ。それは使命を放棄することになってしまいまする」
なにがあっても、自死してはならない。使命を放棄してはならない。
イリカはうなずいた。
たった今、それがこれからの彼の人生の信念となったのだ。
だが、このとき彼はまだ知らなかった。人質になるということがどういうことなのか。
今後、アルゲリアス帝国に忠誠をちかうこと、年一回朝貢すること、イカラス国内に帝国の総督府をおき、国政にかんしてはすべて提督の許可をとること、総督およびその家族、駐留軍の居住、生活費いっさいはイカラスがもつこと、さらにアルゲリアス帝国への忠誠と友好のあかしにイカラス王族のひとりをアルゲリアス国にあずけること。つまり人質をさしだす旨を、老いた国王は無表情で了解したのである。
「これで両国はめでたく同盟国となった。今日は記念すべき素晴らしい日だ」
タキトゥスは言っていて自分でも背がかゆくなるのを感じた。
戦にかんしては自他ともみとめる天才軍師であり帝国一の戦士を自負する彼ではあるが、外交交渉にかんしてはまったく不得手であることを自覚しているので、このような儀式はいたって苦手なのだ。
タキトゥスはひどく似合わない役を与えられた下手な役者になった気分でひたすら居心地が悪く、その決まり悪さをごまかすためぶっきらぼうになるか、いつもの嘲笑めいた笑みをふりまく。それは敗者の側から見れば力に驕った傲慢さに見えて仕方ないだろうが、タキトゥスは今さら自分の性分を変える気はなかった。
やがて簒奪者たちをもてなす宴がはじまり、みごとな薔薇模様の刺繍がほどこされた絨毯がしきつめられた大広間では、五彩の衣と七色の宝石で身をかざった黒髪黒眼のイカラス美人たちが、竪琴や笛を手に魅惑的な肢体を披露し敵兵たちを誘惑した。肌もあらわな女たちが広間の中央におかれた獣の皮をはった台のうえ――つまり巨大な太鼓のうえで踊りはじめ、踊り子たちの裸足の足が台を打つと小気味良い音がはじける。
長大なテーブルには島特有の野菜や魚をふんだんに使った料理が惜しげもなく銀皿にもられ、瑠璃杯はやはり島特産の美酒であふれ、この国では王侯貴族でしか食することができないという豚や牛も今日は異国の食欲旺盛な兵士たちをもてなすため食卓にのせられた。
外壁を帝国軍で包囲している余裕もあって、よもや毒殺の心配はないだろうと席をゆるされた高位の兵士たちは歓声をあげて食事と美女をたのしんだ。
だがタキトゥスとディトスにはまだもうひとつ仕事がのこっていた。
にぎやかな大広間から遠く、宮殿の奥殿の石床をふたりは供をしたがえてすすんだ。降伏した国の女たちは健気にも絹の敷物のうえにひざまずき頭をたれている。
花模様の絨毯のうえに彼女たちの華やかな衣の裾や長い髪がたれる様は、まさに蹂躙された花園でタキトゥスの征服欲をさらにあおったが、頭をふかくたれている婢めたちにはそれほど興味はない。
さらに奥にすすむと紫の帳が割られ、そこは馥郁とした麝香のかおる秘園である。
「恐れ入りますが、お供の方々はこちらでご遠慮くださいませ。これから奥は王族のお妃様方、姫君方のお部屋でございますので」
背のひくい宦官のしゃがれ声にディトスはうなずき、手で後ろにつづく男たちを止める。
「俺もここで遠慮する。タキトゥス、人質を誰にするかはおまえにまかせる」
タキトゥスは日焼けした顔にまた嘲笑をきざんだ。ディトスは汚れ仕事をしたくないのだ。
「ずるいな」
一言のこしてタキトゥスは女の園にはいった。
横一列にならんだ十数人の女たちは、きらびやかな衣と色とりどりの宝玉で身をつつんではいるが、皆一様に目をふせている。淑女たちは平素なら、彼女たちが貞節をちかった伴侶か保護者となる父兄にしか見せてはならぬ顔をかたく凍りつかせて敵将のまえにさらした。
「こちらは第一王女のエリメア姫様、こちらは第二王女のオレルナ姫様」
名を呼ばれるたびに王女たちの長い睫は恐怖にふるえる。直系王族の他にも親族となる貴族の娘もいれば、十三歳以下の少年王族もいる。
それぞれ背後には美しい侍女たちがつき、彼女たちも血の気がひいたような南国人らしからぬ暗いこわばった石のような顔で事態を見守っている。
この時代、人質には《性奴隷》というおぞましき別名がついてまわった。
他国へ人質にやられるということは、その国の権力者たちの慰み者にされることを意味しており、仮に殺されたとしても文句は言えないことになっていたのだ。
質として敵にさしだされた者はその時点で祖国においては死んだとされ、稀に戻ってくる場合があっても、人質にされて帰国した者の名誉は異国の腐土に染まりぬいたも同然で、生涯その汚名を背負って生きることになる。
人質として差し出されたある国の王子が、その敵国の王が急死し跡をついだ新王の慈悲によって祖国に帰されたことがあったが、帰って生き恥をさらすことを苦にして旅のとちゅうで自害した例もあるほどだ。
なかには人質として献上された王女が相手国の王から寵愛を受け子をもうけて正妃となったという幸運な例もあるが、そのような幸せな身におさまったものは非常に稀であろう。
若年の姫君などでは泣きだす者もいる。だが美姫や美童を見るタキトゥスの目はさめていた。かけらほども彼らには興味がわかない。
「あの者は何故いない?」
「は、あの者とは?」
「イリカという神官長だ。あやつも王族だろう? 連れてまいれ」
タキトゥスは宦官にいらだった声をぶつけた。
「お、おゆるしを。イリカ様は神官長にございますれば、俗世からははなれたお方でして、王族とはまたちがうお立場になられます」
「俺はあの者が欲しい」
宦官は腰を抜かしそうなほどに驚いて、首をふった。
「め、めっそうもない! 神の僕になられたお方ですし、それにイリカ様はすでに御歳二十二。人質になる歳ではございませぬ」
性の対象にする相手ではないという意味である。色小姓や稚児はどこの国にもある習慣だが、たいていは十代の乙女と見まごうばかりの頃が過ぎれば、すくなくとも権力者たちは相手にしない。
「王子殿下がお望みでしたら、あちらに」
宦官がおどおどと王子たちをひからびた指でさすが、タキトゥスは目もくれず純白のマントをひるがえした。
「ど、どちらへ!」
「神殿へ行く」
「な、なりませぬ」
「うるさい、どけ」
タキトゥス自身、自分でもどうしてこう胸が波立つのか理解できぬままに足をすすめた。
「タキトゥス、どうした? どこへ行くのだ?」
一度歩いた場所を忘れることがないタキトゥスは慣れた足つきで廊下をもどり、庭に面する石廊をすすみ南国の庭園の奥にある神域へとむかい、その後をディトスたちが必死に追った。
エメラルド色の若葉にまもられるように建つ小さな社殿に目指す相手はいた。
他の神官たちとなにか語らっていたのか、質素な部屋のなか机一面に書物がひろげられ、彼は今まさにある神書について議論していたのだろう、指を書のうえに置いたまま呆然として、扉を打ちやぶらんばかりにして入ってきた無礼な男に驚愕の瞳をむけた。
「な、何事なのだ?」
「イリカ……殿、すぐ準備をするがいい」
「どういうことだ?」
椅子から立ちあがるとイリカは不思議そうに扉の外でひかえている宦官に目をむけたが、騒ぎを聞いてあわてて息せききらしてやってきた宰相も彼の問いに答えられないでいる。
「あなたをアルゲリアスにつれていく。人質はあなたと決まった」
神官たちがおののいて、いっせいに立ちあがった。
「うるさい! 騒ぐな!」
獅子の一喝のまえに哀れな神の僕たちは一言も返せない。
「さあ、すぐに準備するがよい。いや、持っていくものなどなにもなくてよい。身ひとつでアルゲリアスへ来られるがよい。人質はイリカ殿だ、わかったな」
「お、恐れながら……」
なにか言わねばと口をぱくぱくさせている宰相にタキトゥスは吼えた。
「俺が決めたのだ! 文句があるか?」
そこですべてが本当に決まり、すべてが終わった。
「ゲルニス、私はどうすれば良いのだ? 本当にアルゲリアスへ行かねばならないのだろうか?」
白衣に身をつつんだゲルニスと呼ばれた老神官はいたましげに白い眉をよせた。
「なんということでしょう……。この国は魔物に魅入られてしまったとしか言いようがない」
石室にはふたりだけだ。卓上の蝋燭がほのかな明かりをつくり、イリカの困惑しきった顔を照らしだす。
イリカにとってはまったく信じられないことだ。二十二年間ほとんど宮殿と神殿のなかだけで過ごし、イカラス国内ですらろくに知りもしないのを、いきなり侵略者の国につれていかれることになったのだ。
あきらめてはいたが、やはり父国王からは何事もタキトゥス将軍の言うとおりにするようにという伝言があっただけだった。幼少のころから神門に入り、家族とも儀式の折り以外では顔を合わすこともなかった彼にとっては骨肉といえども遠い人だったが、それでも実父なのだ。せめて一言でもあの傲慢な将軍に反論して欲しかったのだが……。
「負けるということは、こういうことなのでございます。ですが、それはけっして永遠のことではございませぬ。イリカ様……」
低い声でゲルニスはイリカの名を呼び、老いてかわいた眼に涙をためて訴えた。
「よろしいですか? なにがあっても……みずから死をえらぶようなことだけはしてはなりませぬ。それは使命を放棄することになってしまいまする」
なにがあっても、自死してはならない。使命を放棄してはならない。
イリカはうなずいた。
たった今、それがこれからの彼の人生の信念となったのだ。
だが、このとき彼はまだ知らなかった。人質になるということがどういうことなのか。
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