帝国秘話―落ちた花ー

文月 沙織

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人と獣のはざま

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 突然、タキトゥスは幼少期を過ごした国境の農地を思い出した。
 緑ゆたかな土地、丘、野生の馬を乗りこなしていた父、近在の農夫たちとおなじように家の中庭にちいさな畑をつくって作物をたがやしていた母。
 母は下流の貴族の出だったが、すこしも気取ったところがなく心から田舎暮らしに満足していたようだった。畑といってもお遊びのようなものだが、実りの季節に自分たちで作った野菜を料理して食卓にならべている母は若々しく美しく幸せそうだった。
 今ふりかえってみると気恥ずかしくなるほどにほのぼのとした光景だが、その光景のなかのタキトゥスは、百万軍隊の総大将をつとめているときよりも、純白のマントを肩からなびかせ黄金の甲冑に身をつつんでいるときよりも、幸せだった気がする。
「どうした、タキトゥス、なにを考えこんでおるのだ? 陛下はイカラスの宝石を、いやイカラスの美しい雄犬をご所望だぞ。陛下の忠臣としてはすぐにとどけねばならんだろう」
 イリカを犬呼ばわりしたドノヌスのつきでた腹を腰の剣でひと思いに突き刺してやりたくなった。だが、もともとイリカは皇帝への献上品としてイカラスよりつれてきたのであり、帝国の臣であるタキトゥスにはゼノビアス皇帝の命令は絶対である。
「それが……その者は今病に伏せっておりまして、医者などを呼んで薬をあたえております。回復するまでは今しばしお待ちいただけないでしょうか?」
 嘘ではない。タキトゥスは額に汗を浮かべながら言葉をつむいだ。
「ふうむ。では、病が治れば余のもとにつれてまいれ。一刻もはやく病を治させるように。それまで他の遊びを考えるか」
 他者の病気の回復も己のめいでかなうと信じているこの当代随一の驕慢児きょうまんじは、気が散るのもはやく、あらたな享楽を欲した。それをかなえるために奔走するのはドノヌスだ。
「かしこまりました、陛下。すぐにあたらしい者をつれてまいります」
 タキトゥスは目のまえで笑みをかわしあう魔王と使い魔に内心でもう一度唾をはいた。

 出たときとはまったく逆の気持ちで屋敷に帰ると、タキトゥスは酒のにおいをふりまきながら、荒々しい動作で門扉をぬけ廊下をとおり、召使たちに乱暴にマントや甲冑を投げわたした。
「いかがなさいました?」
 爺と呼んでいる古株の召使が心配そうに問いかけてきたのに対して怒鳴り声をかえした。
「なんでもない!」
 藍白あいじろ色の簡素な室内着に着替えると奥殿へむかう。
 イリカは、朝よりかは随分気力をとりもどしており、タキトゥスを見ると、黒髪をゆらしながら寝台に身を起こした。
 タキトゥスはかつてイリカにさしだした書状を彼の膝に投げた。
「これに署名をしろ」
 向かいあう相手から目をそらしたことがタキトゥスの今までの人生で一度でもあったろうか。
 これが最初で最後かもしれない。彼は握りしめている自分の拳がふるえているのに気づいた。
 奴隷になることを宣言する内容の文をもう一度読み、イリカは夜空色の瞳から感情を消した。
「これに署名しないと、おまえが困るのだな」
 宮殿からもどってきたタキトゥスの様子を見てイリカはタキトゥスが、理由はわからぬが苦しい状況にあることを悟ったようだ。
「書くものを」
「……本気か?」
 自分で言っておきながら相手が首肯するとタキトゥスは目をけわしくさせた。
 ため息をもらす音が蝋燭もつけていない室内にひびく。 
「どのみち、どうあらがったところで運命には勝てないのなら、いっそとことん流されて、己の最後を見届けたい」
「ひどい目に合わされるぞ」
「すでに合っている」
 いらだつように首をふりながらタキトゥスは寝台に近づいた。
「俺の責めどころの甘いものではない。ゼノビアス皇帝は本当の狂人なのだ。その第一の側近は、あのドノヌスで美しい男や少年を責め殺すのが大好きという畜生だ。昼に酒場で聞いたが、つい二日まえ、きゃつのところの小姓が半死半生の目にあわされて川に浮かんでいたという。酒場の親父が善人でひきあげて手当てしてかくまってやっているらしいが、小姓から聞いた話ではドノヌスの変態趣味というのはすさまじいものだというぞ」
(信じられないでしょうが、屋敷の地下牢にはおぞましい生き物がいるのでございます。生皮をはがれて獣の皮を縫いつけられ生ける半人半獣とされて飼われている少年を見たことがございます。もとは裕福な商家の息子だったのがさらわれてきたそうで。ドノヌス様のまえではつねに四つんばいになり、人の言葉を話すことを禁じられ獣の鳴き真似をさせられておりました) 
 店主からその話を伝え聞いたタキトゥスは飲み過ぎのせいばかりでなく嘔吐を感じた。
 目のまえのイリカと見も知らぬ人獣じんじゅうとされた不幸な少年がかさなり、さらに血まみれになった異国の王女の死に様がかさなる。
 イリカは、しかたない、とも恐ろしくない、というふうにもとれるように首をふった。
「あのとき……」
 なめらかな鳶色の頬に赤みがさした。
「私はもはや人ではなくなった。この帝国で、いや祖国でも、もはや誰も私をまっとうな人間とは、男とはみとめないだろう。私は、人ではなくなったのだ」
 あのとき、とは馬上で悶えることを強要されたときだろうか。敵将タキトゥスと色小姓たちによって嬲られぬいたときだろうか。下卑た男たちのまえで石馬に乗せられたときだろうか。屈辱と淫虐ないたぶりのなかで正気を失ったいくつもの瞬間が思い出されたのか、イリカの瞳は蝋燭の火にほのかに潤んで光る。
「……逃げぬか?」
 はじかれたようにイリカが顔をあげた。
「このまま俺といっしょに都を、いやアルゲリアスを出ぬか?」
「そのようなこと」
 イリカは信じられないようなものを見るように瞳をひらかせ、そこに疑惑と困惑をしのばせた。
「実は、ここへもどるまえにディトスのところに寄ってきて……あいつにすすめられたのだ、帝国を出ることを。あいつはパリアナとパリアヌスを養子にして国境沿いの田舎町で隠遁するというのだ。だが……それはおもてむきの話で、そこから異国へ移住するつもりだそうだ。この国には愛想がつきたとな」
「出て、どうするつもりなのだ?」
「南の、できたらイカラスに近い国で畑でもたがやしながら書物を読んで暮らすつもりらしい」
 そんな晴耕雨読の生活がディトスには似合っていそうだとふたりともみとめたが、
「そなたは、どうするのだ? そんな暮らしができるのか?」
 おまえ、ではなく、そなた、と呼ばれたことにタキトゥスの胸は甘くうずいたが、顔には出さないように唇を噛んだ。
「わからん」
 タキトゥスは苦く笑った。だが心のどこかで、その気になったらなんでもできるのではないかという、はかない希望もわいてきた。   
 ドノヌスの屋敷を逃げだしてきた小姓の話や、異国の奴隷王女の死がタキトゥスの心を変えていた。
 どうあっても、イリカをそんな目に合わせることはできない。それぐらいなら、命懸けでべつの生き方をさがしてみる気になっていた。タキトゥス自身不思議で仕方ないが、すでにイリカはそれだけ大切な存在となっていたのだ。
「無理だ。私が逃げれば、イカラスからあらたな犠牲者が出る」
「知ったことか!」
 タキトゥスは寝台に突進した。
「あっ」
 イリカを押したおし、抱きしめ、華奢な身体にむしゃぶりついた。かぐわしい体臭に身も心もとろかせながらタキトゥスは泣くように自分自身に告げた。
(俺はまだ間にあう。まだ間にあう。人にもどれる。もどれるのだ!)

「よせ、ああっ……よせ」
 衣をはぎとって荒々しく下肢をひらかせながらタキトゥスはイリカの全身にあますところなく接吻を落とす。動作は乱暴だが今までとはちがった情熱をこめて肌を合わせ、それはイリカにも通じたのだろう。病みあがりで抵抗する体力がなかったせいもあるが、タキトゥスの真摯な表情はイリカから完全に反抗心をうばった。
 それは、彼らにとっては初めてのことだった。
 イリカは中心に突きたてられたものが今までのような生命のない器物ではなく、あふれる情熱と血をもった肉であることをさとってすすり泣いた。
「あっ……、ああ」
「痛むか?」
 タキトゥスは恐るべき克己心でもって欲情をおさえながら訊いた。
 イリカは無意識で首をふり、必死にタキトゥスにしがみついてしまい、淫らな夢に酔いつつも、意識が目覚めてしまうと闇で赤面し、その燃える頬にも接吻を受けた。 
 はじめてふたりは相思相愛の恋人同士のような愛撫に、たがいの心と身体を燃えあがらせた。


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