帝国秘話―落ちた花ー

文月 沙織

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脱出

 しばらく待っていると、物音がして、向こう側から板がはずされた。こちらからは外せないようになっているのだ。
「……死骸をよこせ」
 低い声が聞こえた。
「そこにあるわ」
 蛇娘の声に、手が伸ばされてきた。
 イリカは高なる心臓の音を自覚しながら、狭いはざまから伸びてきた手に自分の手を伸ばした。
「そいつを引っ張って」
 背後の蛇娘が加勢してくれた。相手の手がイリカに触れたとたんイリカはさらに緊張した。死骸でないことが判ったかもしれない。
 なにか言われるかと思ったが、相手は無言でイリカの手を引っ張ってくれた。
 外にむかって開いている空間は、どうにか人ひとりとおれるぐらいだ。幸いイリカは細身なので難なく相手に引き上げられる形でぬけ出せた。
「おや……」
 声を放ったのは引っ張ってくれた相手ではなく、背後にいた別の影だ。
「そいつは生きている。死骸じゃないぞ。死骸はどうした?」
 イリカが何を言うまもなくその大男はなかに向かって叫ぶ。
「おい、死体はないのか? おお、あった、あった」
 蛇娘がリアの死体を近くへ押したようだ。
 イリカは呆然と大男のすることを見ていた。月夜に、それはなんとも不思議で不気味な光景だ。
 大男は引きずりあげた少女の死骸に頬ずりしていたのだ。
 もしかしたら彼はリアの身内なのだろうか、とイリカは思ったのだが、どうやらそうでないことがすぐわかった。
「おお、可愛い死骸だ。これは高く売れるぞ」
 背筋に悪寒が走った。
「よ、よせ!」
 大男からリアの死骸を引き離そうとしたが、背後の人物に止められた。
「仕方ない。そういう約束なのだ」
 口元に布を巻いているのだろう。だがくぐもったその声には聞き覚えがある。
(ま、まさか?)
「大丈夫だったか、イリカ。ひどい目に合わされていないか?」
「あ、あなたは」 
 相手は顔をおおっていたフードをのけた。
「やっぱり……。ディトス、来てくれたのか?」
 月の光が彼の謹厳そうな顔を照らす。やや日に焼けた顔に蒼の双眼。髭はすこし伸びたろうか。老けて見えるぶん、老成した学者のような雰囲気が濃くなっている。
「どうしてここが?」
「以前から調べていたのだ。ドノヌスが贔屓にしている店のことを。噂にもなっていたしな。私の手下を客として通わせ、いろいろ内部の事情もさぐらせていた。ここで彼奴は闇の売買にたずさわって稼いでいたらしい。あなたをバイランに売るならこの店だと当たりをつけて来てみたのだが、こんなにすぐ会えるとは。神の御加護だな」
 最後の言葉は冗談っぽく響く。
「いや、実を言うと以前から手下を使ってここの人間を買収しておいて、あなたをこの室に入れるように指示しておいたのだ」
 それはイカラス戦の前からだという。ディトスはずっとドノヌスの動向に目を見張らせたのだそうだ。いつかドノヌスは自分たちに牙を向けてくる。そうなったときにすぐ手を打てるように、できるかぎりのことをしたそうだ。つくづくイリカは彼の慧眼に感服した。
「タキトゥスが襲われた」
「ああ、うすうす彼奴の計画には気づいていた。こうなるまえに逃げるよう何度かタキトゥスを説得したのだが、間にあわなかったな。私の屋敷もすでに敵の手に落ちているだろう。彼奴きゃつはずっとタキトゥスや私を狙っていたからな」
「そんな……。パリアナたちは?」
 パリアナとパリアヌスのことが心配になって問うと、ディトススはイリカを安心させるように肩を優しくたたいた。
「安心しろ。先に逃がしている。我々もすぐ追いかけるぞ」
 あらためてイリカはディトスの賢さと強さに感心した。
「タキトゥスはどうなるのだ?」
「機会をみて助ける。さ、来い」
「あ、待ってくれ、リアは。あの娘はタキトゥスの老僕の孫なのだ」
 大男はいそいそとリアの死骸を袋につめこんでいる。
「仕方ない。彼に金をわたして、ここへ忍びこむ手はずを頼んだとき、いっさい口出ししないと約束した」
 ディトスは小声で説明した。
(世間にはそういう趣味の男がいるのよ)
 蛇娘の声が聞こえてきそうだ。イリカは蛇娘たちのことも気になった。顔をくもらせたイリカの心情を読みとったのだろう、ディトスは首をふる。
「あきらめろ。今は我々が逃げる方がさきだ」
「どうしてこんなことが許されるのだろう……」
「今は嘆いている暇はない。おい、行くぞ」
 大男に声をかけてディトスは先を急がせる。
「へへへ……今夜は運がいいなぁ。可愛い死体も手に入ったし、金ももらったし」
 イリカは不快感をおさえて、とにかく今はディトスにしたがって逃げることを優先させた。ディトスの言うとおり、今はとにかくこの魔窟から逃れねば。
(すまない、リア)

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