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再誕
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「待て、待ってくれ、もう走れない」
湖のあたりまで来るとイリカは弱音をはいて息をきらしたが、タキトゥスはかまわず腕をひっぱりつづけた。
「待ってくれ」
「苦しいのか? だが死ぬのはもっと苦しいのだぞ!」
小船に乗りこむとタキトゥスは怒りがおさまらなくなってきた。
もう少し遅ければイリカは自分を置きざりにして永遠に去っていってしまうところだったのだ。裏切られたような悔しさと怒りに片目の奥が熱くなる。
「……私は、生きていてはいけないのだ」
暗い湖面のうえに反射する漁り火のつくりだす世にも美しい光の乱舞を見つめながらイリカは切なげに息をはいた。
「何を言う……」
「あんな……あんな辱めを受けて生きていてはいけないのだ。私が生きてこうして息を吸っているだけでもイカラスへの侮辱だ」
「愚かなことを……。なにひとつあなたには罪のないことではないか」
罪があるのはタキトゥスだ。櫂を動かしながら、タキトゥスはなんとかして慰めの言葉をつむぎたかったが、生来の口下手が災いして舌はすこしも動かない。
タキトゥスは言葉のかわりに行動した。
「もし……もし、あなたがどうしても死ななくてはならないと言うなら、俺が死ぬ!」
持ってきた剣をタキトゥスは己の胸に当てた。イリカは驚いたがタキトゥスが立ちあがったため船がゆれて動けなかった。
「ば、馬鹿なことを!」
「あなただってそうしようとしたではないか! 見ろ、俺が死ぬのを。俺はこれで死ぬ。俺が死ねばあなたの恥もすこしはそそがれるはずだ。その代わりにあなたは生きろ!」
「そ、そんなことがあるか、ああ! よせ、タキトゥス、馬鹿な真似はやめて!」
「うわっ!」
イリカ自身、そんなことができるとは思ってもみなかったろう。
タキトゥスにつかみかかみ、ゆれる小船の上でふたりはもつれあい、いっしょに湖に落ちてしまった。
「イリカ!」
水のなかでタキトゥスは必死にイリカの衣をたぐりよせようとした。漁り火の光おかげでどうにかそれを成し遂げると、無我夢中で浮かびあがった。
「だ、大丈夫か?」
船の縁につかまってイリカを引き寄せると、イリカは咳こみながら首をふった。
「なんだ?」
「喧嘩かい?」
「溺れているのか?」
「大丈夫みたいだぞ。おい、ここで死んだら漁ができんだろ。お大尽がたの酒宴の邪魔にもなる、死ぬならよそでやってくれ」
訛りの強い言葉であたりの漁師に野次られ、ふたりはびしょ濡れになって船にあがった。とんだ茶番だ。
「まったく! 俺としたことがなんて様だ」
水中に剣を落としてしまったタキトゥスは自分自身に毒づきながら、さらにむせて咳をしているイリカの背をなでた。
「……そ、そなたが、あんなことを言うから……」
「なんだ?」
イリカは背をむけたまますすり泣いた。
「わ、私にはもう触れないというから……だから……私は本当に恥をなくしてしまった」
いたたまれなさそうに濡れた衣をふるわせイリカは嗚咽した。
「……」
言わんとするところがわかってきたタキトゥスは信じられない思いでイリカのふるえる背や漁り火に照らされるうなじを見つめ呆然となり、我にかえるとたまらなくなって相手の背を抱きしめていた。
性欲を教えられてしまったイリカはタキトゥスを求めて夜な夜な苦しみ、己を恥じて、恥じて、ついには生きていてはいけないとまで思いつめ、みずからの命を神官長の使命のためにささげることで恥辱を浄化したいと思ったのだろう。
求めることを恐れ、感じることを恥じて、やるせなさげに震えている腕のなかの繊細な麗人がたまらなくいじらしく、愛おしい。タキトゥスは気がおかしくなりそうになった。
かつて憎しみゆえに狂った彼は今、愛しさゆえに狂いそうになった。
「イリカ、愛している! 愛している!」
月光も漁り火も無視してタキトゥスは乱暴なほどの仕草でイリカの唇をうばった。ふたりがなにをしているか周囲の者たちに知れたようだ。
「なんだぁ? 痴話喧嘩か?」
「こら、色男! そんなことは家でやれ!」
漁師たちにつづいて金持ちの船からは遊女らしき女たちの甲高い笑い声がひびいてきた。
「いいわね、お兄さん! あたしたちとも遊んでよ」
「はは、そこの色男はわしよりもてるのぅ。あまり見せつけるなよ」
月夜の湖水の魔力だろう。貧富も職種の違いもなく人々の笑い声が水面にさざ波をつくるが、それは嘲りではなく祝福をふくんだあたたかなひびきをともなっている。
だが、漁り火がやさしく水面を照らしていたおなじその時、島の一部では激しい火が燃えていた。
「タキトゥス、どこへ行っていた? どうした、ふたりともそんなに濡れて」
ディトスの家にもどると、どういうことか近隣の家々も門に松明をかかげ護衛兵たちが忙しげに出入りしていた。
「たいへんなことになったぞ、北方の部族が帝国に反旗をひるがえした。独立運動が起きているのだ」
湖のあたりまで来るとイリカは弱音をはいて息をきらしたが、タキトゥスはかまわず腕をひっぱりつづけた。
「待ってくれ」
「苦しいのか? だが死ぬのはもっと苦しいのだぞ!」
小船に乗りこむとタキトゥスは怒りがおさまらなくなってきた。
もう少し遅ければイリカは自分を置きざりにして永遠に去っていってしまうところだったのだ。裏切られたような悔しさと怒りに片目の奥が熱くなる。
「……私は、生きていてはいけないのだ」
暗い湖面のうえに反射する漁り火のつくりだす世にも美しい光の乱舞を見つめながらイリカは切なげに息をはいた。
「何を言う……」
「あんな……あんな辱めを受けて生きていてはいけないのだ。私が生きてこうして息を吸っているだけでもイカラスへの侮辱だ」
「愚かなことを……。なにひとつあなたには罪のないことではないか」
罪があるのはタキトゥスだ。櫂を動かしながら、タキトゥスはなんとかして慰めの言葉をつむぎたかったが、生来の口下手が災いして舌はすこしも動かない。
タキトゥスは言葉のかわりに行動した。
「もし……もし、あなたがどうしても死ななくてはならないと言うなら、俺が死ぬ!」
持ってきた剣をタキトゥスは己の胸に当てた。イリカは驚いたがタキトゥスが立ちあがったため船がゆれて動けなかった。
「ば、馬鹿なことを!」
「あなただってそうしようとしたではないか! 見ろ、俺が死ぬのを。俺はこれで死ぬ。俺が死ねばあなたの恥もすこしはそそがれるはずだ。その代わりにあなたは生きろ!」
「そ、そんなことがあるか、ああ! よせ、タキトゥス、馬鹿な真似はやめて!」
「うわっ!」
イリカ自身、そんなことができるとは思ってもみなかったろう。
タキトゥスにつかみかかみ、ゆれる小船の上でふたりはもつれあい、いっしょに湖に落ちてしまった。
「イリカ!」
水のなかでタキトゥスは必死にイリカの衣をたぐりよせようとした。漁り火の光おかげでどうにかそれを成し遂げると、無我夢中で浮かびあがった。
「だ、大丈夫か?」
船の縁につかまってイリカを引き寄せると、イリカは咳こみながら首をふった。
「なんだ?」
「喧嘩かい?」
「溺れているのか?」
「大丈夫みたいだぞ。おい、ここで死んだら漁ができんだろ。お大尽がたの酒宴の邪魔にもなる、死ぬならよそでやってくれ」
訛りの強い言葉であたりの漁師に野次られ、ふたりはびしょ濡れになって船にあがった。とんだ茶番だ。
「まったく! 俺としたことがなんて様だ」
水中に剣を落としてしまったタキトゥスは自分自身に毒づきながら、さらにむせて咳をしているイリカの背をなでた。
「……そ、そなたが、あんなことを言うから……」
「なんだ?」
イリカは背をむけたまますすり泣いた。
「わ、私にはもう触れないというから……だから……私は本当に恥をなくしてしまった」
いたたまれなさそうに濡れた衣をふるわせイリカは嗚咽した。
「……」
言わんとするところがわかってきたタキトゥスは信じられない思いでイリカのふるえる背や漁り火に照らされるうなじを見つめ呆然となり、我にかえるとたまらなくなって相手の背を抱きしめていた。
性欲を教えられてしまったイリカはタキトゥスを求めて夜な夜な苦しみ、己を恥じて、恥じて、ついには生きていてはいけないとまで思いつめ、みずからの命を神官長の使命のためにささげることで恥辱を浄化したいと思ったのだろう。
求めることを恐れ、感じることを恥じて、やるせなさげに震えている腕のなかの繊細な麗人がたまらなくいじらしく、愛おしい。タキトゥスは気がおかしくなりそうになった。
かつて憎しみゆえに狂った彼は今、愛しさゆえに狂いそうになった。
「イリカ、愛している! 愛している!」
月光も漁り火も無視してタキトゥスは乱暴なほどの仕草でイリカの唇をうばった。ふたりがなにをしているか周囲の者たちに知れたようだ。
「なんだぁ? 痴話喧嘩か?」
「こら、色男! そんなことは家でやれ!」
漁師たちにつづいて金持ちの船からは遊女らしき女たちの甲高い笑い声がひびいてきた。
「いいわね、お兄さん! あたしたちとも遊んでよ」
「はは、そこの色男はわしよりもてるのぅ。あまり見せつけるなよ」
月夜の湖水の魔力だろう。貧富も職種の違いもなく人々の笑い声が水面にさざ波をつくるが、それは嘲りではなく祝福をふくんだあたたかなひびきをともなっている。
だが、漁り火がやさしく水面を照らしていたおなじその時、島の一部では激しい火が燃えていた。
「タキトゥス、どこへ行っていた? どうした、ふたりともそんなに濡れて」
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