【青薔薇の献身】~涙を作る女~

宵森みなと

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第一幕 静かに舞台へ

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その日、港にほど近い漁村の小さな書店に、異様な緊張が満ちていた。海の風はいつも通り潮の香りを運んでいたが、その空気を切り裂くような馬車の音が一つ、マイラの元へやって来た。

姿を現したのは、王都でも指折りの名門──サーライン公爵。その眼差しは険しく、手袋を外す仕草にさえ迷いがあり、内心の混乱を隠しきれていなかった。

マイラは、肘を机に突いて脚を組み、頬杖をついたまま公爵を見上げた。上等の繻子のマントをまとった男を、まるで魚を値切るような目つきで睨みつける。

「で、あんたが持ってきた“お仕事”ってのは──王子の婚約者の代役かい?」

低く呟いたその声に、公爵の顔が強張る。

「……そうだ。娘のミレーヌが、護衛の男と共に姿を消した。だが、ただの駆け落ちでは済まされん。あの子は、クレーント王国の第二王子……アルベルト殿下の婚約者なのだ」

マイラはふっと鼻で笑った。

「はん、そりゃ大変だ。王家の面子も、サーラインの名も地に落ちるってわけだ」

公爵はうなずく。

「もし今、この件が露見すれば、我が家は終わりだ。王家に知られる前に、こちらから“辞退”という形に持ち込まねばならん。だから……あんたに、ミレーヌの代わりを頼みたい」

「ふぅん。随分と肝が座ってんな、おっさん。ところで──あんた、結末はどうするつもりなんだい?」

「病気だ。体調を理由にして婚約辞退を申し出る……それしかない」

マイラは背もたれに寄りかかり、軽く指を弾いた。

「病気ねぇ。──で、あんた、違約金は払うつもり?」

「……それは避けたいが、仕方ない。相手は王家だ。条件によっては……」

「逆にさ、王家からたんまり慰謝料もらうってのは?あたしらは、あんたの娘の代わりに捨てられたって泣き崩れる芝居ぐらい、朝飯前だよ」

「そんな無茶が通るはずが──」

「通すんだよ。あたしらのやり方でな」

言い合いというより、交渉というより──もはや駆け引きだった。

公爵の胃は既に痛み始めていた。だが、選択肢は他になかった。王都ではすでに噂が立ち始めている。あと数日もすれば、王宮に届く可能性がある。

「受けるのか?受けないのか?はっきりしてくれ!」

マイラは口の端だけを上げて、椅子から腰を浮かせる。

「リスクがでかい仕事だ。即答はしない。……とりあえず、三日待ってもらおうか。あたしの方でも準備と調査があるからね」

「三日……本当はそれすらも惜しいくらいだが、仕方ない。迎えの馬車を出す」

「OK。あ、言っとくけど──“特急料金”と“特別料金”が発生するから、そのつもりでいな。あたしら、ただの道化師じゃないんだ」

公爵は苦渋の面持ちでうなずき、背筋を伸ばして去っていった。

マイラは、残された空気に指をなぞるようにして、ぽつりと呟いた。

「さて、面白い舞台が始まるねぇ。稽古はなしの一発勝負。──役者冥利に尽きるってもんさ」


---

三日後。サーライン邸の応接間。

その扉が静かに開かれた瞬間、公爵の表情が凍りついた。

そこに立っていたのは──ミレーヌ。否、マイラだった。

亜麻色の髪は夜露のような青に染め上げられ、身にまとうドレスは上流貴族特有の装飾と生地の光沢を備えていた。姿勢は正しく、足取りに迷いはない。まるで数年にわたり王都で仕込まれた令嬢のような品格が、そこにはあった。

「お父様、長らくご心配をおかけいたしました。本日より、再び家の務めを果たさせていただきたく、帰宅いたしました……──なんて、こんな感じか?」

最後の一言だけが、マイラだった。

サーライン公爵は、まばたきを忘れたまま立ち尽くし、しばし呆然としていたが、やがて言葉を搾り出す。

「……まるで、ミレーヌ本人だ。口の悪い娘が、よくもまあ……」

「言っとくけど、あたしらは金を貰って役を演じてんだ。本気出せば、貴族の一人や二人、完璧に化けられるさ。で、どうする?」

「──契約を結ぼう。我が家の名を守るためにも、やるしかない」

マイラはにやりと笑い、テーブルの上に契約書のひな形を広げた。

「条件はこうさ。こっちの特急・特別料金の他に、“王家から婚約破棄された”という体裁を整えて、慰謝料をたっぷり頂く。……それが今回の台本さ」

「そんなこと……」

「いいかい、おっさん。病気って理由だけじゃ、王家は納得しない。お宅にはミレーヌの姉貴もいるんだろ?その結婚にまで影響したら、責任取れんのかい?……あたしが全部持ってくから、安心してな」

公爵は深いため息を吐いた。

「……もういい。任せる、親分」

「そいつは良かった。さて、打ち合わせを始めようじゃないか。まずは“ミレーヌ本人”を叩き込む必要がある。侍女と姉貴、それと……おかあちゃん、呼んでもらえる?」

「……あのな。妻と娘には、せめて丁寧な言葉で頼んでくれ。驚かせたくない」

マイラはぴしりと姿勢を正し、深々と一礼する。

「かしこまりましたわ、お父様。すぐにお呼びいただけますか?」

サーライン公爵は、ほんの一瞬だけ、肩の力を抜いた。

そう、これは始まりだ。娘を失った父と、仮面をかぶった役者。嘘の上に築かれる、虚構の舞台。

──だが、そこに潜むのは、虚だけではないかもしれなかった。
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