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第6話 恋という名の胸の痛み
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サラスティナがマイラス侯爵家の領地に滞在して、はや二週間が過ぎていた。
初めに立てた視察の目的は、ほぼ果たされたと言ってよかった。
水路の整備、村の診療所の医薬品不足、貿易の停滞――一通り問題点は洗い出し、後はどうまとめ、誰にどう伝えるべきかを熟考する段階に入っていた。
その日の午後。
執務室にて、地図と記録帳を見比べていたサラスティナのもとへ、義父であるデュラン侯爵が少し困ったような表情で現れた。
「サラ、少しよいかね? 突然なのだが、アイザック殿下がおいでになったんだ。先触れもなく……何か心当たりでも?」
思いもよらぬ名前に、サラスティナは少しだけ眉を寄せた。
「アイザック殿下が……? いえ、特には……生徒会関連でしょうか? ですが、今は夏季休暇中ですし……」
首を傾げつつも、すぐに来賓対応にふさわしい装いへと整えねばと、身支度へ移った。
作業用の簡素なワンピースから、品のある薄緑色のドレスへ着替え、侯爵家付きの侍女たちが髪を整え、軽く化粧を施すと、どこか涼しげな、けれど凛とした気配が彼女の周囲に漂いはじめた。
「いつものサラも悪くないが、こうして着飾った姿もまた、目を惹くな」
そう笑って見せたデュランに、サラスティナはくすっと笑い返しながら、
「では、お父様。今度デートにお誘いくださいます? どちらに連れて行ってくださるのか、楽しみにしておりますわ」
と軽やかに返した。
---
応接間の扉を開けたその瞬間、空気が少しだけ硬直した。
そこにいたアイザック殿下は、ソファに座ってはいたものの、何かに心を奪われたような表情で、サラスティナを見つめたまま動けずにいた。
「あの……アイザック殿下?」
サラスティナが不思議そうに声をかけても、彼はまるで反応が遅れた人のように、ぽかんとしたまま。
「本日はご視察と伺いましたが……?」
ようやく我に返ったように、アイザックはまばたきをして頬を赤らめた。
「……すまない。ただ……あまりにも……」
隣のデュランは、それだけで察したらしい。
小さくため息をつきながらも、「やはりか」と心の中で呟いていた。
「アイザック殿下?」と、再度声を掛けたサラスティナは、彼の様子に異変を感じ、護衛と側仕えに一礼し、「失礼、殿下に少しだけ触れますね」と断ってから、そっと彼の隣に座り、額に手を当てた。
「熱はなさそうですが……室内が少し暑いのでしょうか?」
今度は頬にもそっと手を触れる。
その手のひらの感触に、アイザックは思わずその手を取り、自分の手の中に包み込んだ。
ふとした沈黙。
だが彼はすぐに顔を赤らめて、言い訳のように言った。
「……いや、大丈夫だ。君が……いつもとあまりに違ったから、驚いてしまっただけだ」
けれど、その手をなかなか離さない。
さすがにデュランが咳払いをして、控えめながらも明確な視線を送ったが、気づかない。
「アイザック殿下……?」
「――あ、すまない」
ようやく手を放す。
しかし、サラスティナが立ち上がろうとした瞬間、再び彼の手が、そっと彼女の指先を掴んだ。
「……殿下?」
「……胸が、何だか……苦しくて、息が落ち着かないんだ」
それを聞いて、サラスティナは驚いたように眉を上げた。
「まぁ……それは大変。では、少しお休みになられますか? 来賓室へご案内いたしますね。お付きの方々もご一緒に」
さらりと手を取り、アイザックを立たせ、静かに来賓室へと導いた。
彼女の手を握ったまま歩く姿に、周囲の者たちは心の中で叫んだ。
――それは殿下、恋の病です!
---
静かな部屋に通されたアイザックをベッドへと休ませた後、サラスティナは退出しようとした。
だが、彼の手がまた、名残惜しそうにその指先を離さなかった。
「……殿下。少しお飲み物を持ってまいります。お休みになる間に、喉を潤されてくださいな」
ようやく手を放してもらい、彼女はワゴンに茶器と軽食を乗せて戻ってきた。
「お付きの方々にも、よろしければ軽食を。殿下には、蜂蜜とライムの入ったさっぱりしたお飲み物をお持ちしました。……まずは私が、毒味いたしますね」
さらりと飲んで見せ、そして新しく注いだコップを、アイザックに手渡した。
彼はそれをひと口飲むと、ほっと息をつきながら言った。
「……うまい。のどにしみるな」
「よかった……それと、こちらが殿下のお好きな具材のサンドイッチです。以前、生徒会でも差し入れしたもので」
手渡されたそれは、卵とサラダ、そして焼きベーコンを挟んだシンプルな一品。
口にした瞬間、懐かしさと、サラスティナが自分の好みを覚えていてくれたことへの小さな感動が、胸の奥を温かく満たした。
食後、ややまどろみ始めたアイザックに、サラスティナが声を掛けた。
「……殿下、少しお休みになりますか?」
すると彼は、ためらいがちに、しかしはっきりと口にした。
「……しばらくでいい。手を……握っていてくれないか?」
その願いに、サラスティナは優しく微笑んだ。
「ええ」
椅子を引き寄せ、彼の手を包み込む。
そして自然と、彼の額に髪が流れるのを見て、ふと――実家の幼い弟を寝かしつけた記憶が蘇った。
気づけば、彼の髪をそっと撫でながら、口ずさんでいたのは子守唄。
どこか懐かしい、優しい旋律。
その穏やかな響きに包まれて、アイザックはゆっくりと、幸せな眠りへと沈んでいった。
サラスティナはただ静かに、彼の手を握りながら、その寝顔を見つめていた。
初めに立てた視察の目的は、ほぼ果たされたと言ってよかった。
水路の整備、村の診療所の医薬品不足、貿易の停滞――一通り問題点は洗い出し、後はどうまとめ、誰にどう伝えるべきかを熟考する段階に入っていた。
その日の午後。
執務室にて、地図と記録帳を見比べていたサラスティナのもとへ、義父であるデュラン侯爵が少し困ったような表情で現れた。
「サラ、少しよいかね? 突然なのだが、アイザック殿下がおいでになったんだ。先触れもなく……何か心当たりでも?」
思いもよらぬ名前に、サラスティナは少しだけ眉を寄せた。
「アイザック殿下が……? いえ、特には……生徒会関連でしょうか? ですが、今は夏季休暇中ですし……」
首を傾げつつも、すぐに来賓対応にふさわしい装いへと整えねばと、身支度へ移った。
作業用の簡素なワンピースから、品のある薄緑色のドレスへ着替え、侯爵家付きの侍女たちが髪を整え、軽く化粧を施すと、どこか涼しげな、けれど凛とした気配が彼女の周囲に漂いはじめた。
「いつものサラも悪くないが、こうして着飾った姿もまた、目を惹くな」
そう笑って見せたデュランに、サラスティナはくすっと笑い返しながら、
「では、お父様。今度デートにお誘いくださいます? どちらに連れて行ってくださるのか、楽しみにしておりますわ」
と軽やかに返した。
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応接間の扉を開けたその瞬間、空気が少しだけ硬直した。
そこにいたアイザック殿下は、ソファに座ってはいたものの、何かに心を奪われたような表情で、サラスティナを見つめたまま動けずにいた。
「あの……アイザック殿下?」
サラスティナが不思議そうに声をかけても、彼はまるで反応が遅れた人のように、ぽかんとしたまま。
「本日はご視察と伺いましたが……?」
ようやく我に返ったように、アイザックはまばたきをして頬を赤らめた。
「……すまない。ただ……あまりにも……」
隣のデュランは、それだけで察したらしい。
小さくため息をつきながらも、「やはりか」と心の中で呟いていた。
「アイザック殿下?」と、再度声を掛けたサラスティナは、彼の様子に異変を感じ、護衛と側仕えに一礼し、「失礼、殿下に少しだけ触れますね」と断ってから、そっと彼の隣に座り、額に手を当てた。
「熱はなさそうですが……室内が少し暑いのでしょうか?」
今度は頬にもそっと手を触れる。
その手のひらの感触に、アイザックは思わずその手を取り、自分の手の中に包み込んだ。
ふとした沈黙。
だが彼はすぐに顔を赤らめて、言い訳のように言った。
「……いや、大丈夫だ。君が……いつもとあまりに違ったから、驚いてしまっただけだ」
けれど、その手をなかなか離さない。
さすがにデュランが咳払いをして、控えめながらも明確な視線を送ったが、気づかない。
「アイザック殿下……?」
「――あ、すまない」
ようやく手を放す。
しかし、サラスティナが立ち上がろうとした瞬間、再び彼の手が、そっと彼女の指先を掴んだ。
「……殿下?」
「……胸が、何だか……苦しくて、息が落ち着かないんだ」
それを聞いて、サラスティナは驚いたように眉を上げた。
「まぁ……それは大変。では、少しお休みになられますか? 来賓室へご案内いたしますね。お付きの方々もご一緒に」
さらりと手を取り、アイザックを立たせ、静かに来賓室へと導いた。
彼女の手を握ったまま歩く姿に、周囲の者たちは心の中で叫んだ。
――それは殿下、恋の病です!
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静かな部屋に通されたアイザックをベッドへと休ませた後、サラスティナは退出しようとした。
だが、彼の手がまた、名残惜しそうにその指先を離さなかった。
「……殿下。少しお飲み物を持ってまいります。お休みになる間に、喉を潤されてくださいな」
ようやく手を放してもらい、彼女はワゴンに茶器と軽食を乗せて戻ってきた。
「お付きの方々にも、よろしければ軽食を。殿下には、蜂蜜とライムの入ったさっぱりしたお飲み物をお持ちしました。……まずは私が、毒味いたしますね」
さらりと飲んで見せ、そして新しく注いだコップを、アイザックに手渡した。
彼はそれをひと口飲むと、ほっと息をつきながら言った。
「……うまい。のどにしみるな」
「よかった……それと、こちらが殿下のお好きな具材のサンドイッチです。以前、生徒会でも差し入れしたもので」
手渡されたそれは、卵とサラダ、そして焼きベーコンを挟んだシンプルな一品。
口にした瞬間、懐かしさと、サラスティナが自分の好みを覚えていてくれたことへの小さな感動が、胸の奥を温かく満たした。
食後、ややまどろみ始めたアイザックに、サラスティナが声を掛けた。
「……殿下、少しお休みになりますか?」
すると彼は、ためらいがちに、しかしはっきりと口にした。
「……しばらくでいい。手を……握っていてくれないか?」
その願いに、サラスティナは優しく微笑んだ。
「ええ」
椅子を引き寄せ、彼の手を包み込む。
そして自然と、彼の額に髪が流れるのを見て、ふと――実家の幼い弟を寝かしつけた記憶が蘇った。
気づけば、彼の髪をそっと撫でながら、口ずさんでいたのは子守唄。
どこか懐かしい、優しい旋律。
その穏やかな響きに包まれて、アイザックはゆっくりと、幸せな眠りへと沈んでいった。
サラスティナはただ静かに、彼の手を握りながら、その寝顔を見つめていた。
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