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第1話 逃げて戻る、それが人生
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「サナリア奥様、旦那様がお呼びです」
朝の光がカーテン越しに差し込むころ、侍女の一人が、鏡台に向かって身支度中のサナリアへ声をかけた。
「……分かったわ」
そう返した声には、うっすらと疲れと諦めが滲んでいた。深いため息を一つ吐き、サナリアは背筋を伸ばした。呼び出しの理由は、だいたい察しがついている。嬉々として何かを渡してくる、あの男の顔が頭に浮かんで、思わず眉がぴくりと動いた。
侍女たちの手で身支度を整えさせ、サナリアは重い足取りでランベルク伯爵の執務室へと向かう。——今や彼女の“夫”となった、ガニエル=ランベルクの元へ。
「旦那様、お待たせいたしました」
扉を開け、礼儀正しく頭を下げて入室すると、ソファにどっしりと腰掛けた大男が、汗ばんだ顔をにんまりと緩ませた。
「ああ、サナリア。そなたに宝石を贈ろうと思ってな。商人を呼んでおいた。好きなものを選ぶがいい」
言いながら、彼の指は太く短く、宝石商のカタログを叩いている。鼻の下はもう伸びきっていた。
サナリアは困ったように微笑みながら、少しだけ首をかしげる。
「旦那様、わたくしはその……お気持ちだけで、もう十分ですわ。これまでにたくさんいただいておりますし」
だが、ガニエルは口を尖らせ、まるで駄々をこねる子どものように叫んだ。
「だめだ!君には、もっと贈り物をしたいんだ。君は僕の妻だって、誰にでも見せつけたいんだよ!」
心底めんどくさい、という気持ちを内に押し込めて、サナリアは一つ、可愛らしい嘘を乗せた笑みを浮かべる。
「では……旦那様が、わたくしに一番似合うと思う宝石を、ひとつだけ選んでいただけますか?」
ガニエルは感動したように目を細めたが、「サナリアは遠慮しすぎだぞ」と呟く。そこへ畳みかけるように、サナリアは手をすっと彼の腕に添えた。
「わたくしに使うよりも、ぜひ、日々尽くしてくれる使用人たちに、旦那様の愛をお裾分けしてあげてくださいな。彼らがいなければ、わたくし何もできませんもの。ね?」
たっぷりと媚びをまぶした台詞に、ガニエルはぱっと顔を明るくし、腕に乗せた手を叩いた。
「仕方ないな!よし、今日は使用人たちにも旨いものを振る舞おう!」
「まぁ、嬉しいですわ。旦那様はやはり、素敵な方ですね」
——内心、(ほんっと、単純すぎるわね)と毒づきながら。
* * *
この“サナリア”と呼ばれている女の正体は、元・脚本家のライラだった。
前世の記憶を持って転生した彼女は、ある施設から逃げ出し、今度こそ自由を手にすると心に誓った。どうにか生計を立てようと、記憶を頼りに“前世で見聞きした物語”を書き上げ、それを出版社に持ち込もうとしていた——はずだったのだが。
運悪く、書き上げた原稿を落とした拍子に、それを拾ったのがレイモンドだった。
「この脚本、なかなか面白いじゃないか。うちの劇団で使わせてくれないか?」
「……いや、それは……出版社に出すつもりなので」
そう断ったところ、彼は無表情でぽつりと告げた。
「著作権的にアウトじゃないかな。君、前世持ちでしょ?」
まさかの一撃。弱みを、あっさりと握られてしまった。
逃げ出そうと思えばできた。だが……前世を知っている人間に、つい心を許しかけてしまった。加えてレイモンドは、無駄に顔がいい。そこもまた、判断を狂わせた。
そのまま2年も、彼の劇団で脚本を提供し続けた。が、別口の仕事でそこそこ資金が貯まり、ようやくレイモンドの元から姿を消した。
自由の始まりのはずだった。——だが、世界はそう甘くなかった。
乗り込んだ馬車が、まさか人身売買組織のものだったなんて。
知らぬまま連れて行かれた先で、涙目になっていた彼女の耳に聞こえてきたのは——
「おい、誰だよ、この子豚。混ざってんじゃねぇか」
「さすがにこのデブ、売れませんよ。殺しときます?」
どこまでも最悪すぎて、思わず空を仰ぎたくなった。
——そんな絶体絶命のところに、王都の警ら隊が踏み込んできた。
ライラは無事に救出された……かと思いきや、ふてぶてしい容姿と態度が災いし、一味と間違われて事情聴取を受ける羽目に。
しかもその取調官が、よりによってあの“隠密部隊養成所”の教官カインだった。
彼女はなんとか善良な市民を演じたが、カインはすぐに見抜いた。
「……お前さ。普通、もっと怯えるもんだぞ? なんで淡々と答えられるんだよ、エル」
仮名も容姿も演技も変えていたのに、通じなかった。完敗だった。
そのまま彼女は施設へと連れ戻され、自由の期間はわずか二年で終わった。
溜めていた脂肪も二ヶ月で消し飛び、伊達眼鏡も外され、すっかり“元の姿”に戻ってしまった。
本来美少女だった彼女は、美しさに磨きがかかり、もはや養成所の男子寮に置いておけないとの判断で、教官であるカインの私邸に預けられることになった。
彼女の本当の名は、孤児院で与えられた『エル』。
しかし、今では表向き“アリスティア”と名前を変え、カインの年の離れた“妹”として扱われていた。
「ねぇ、納得いかないんですけど!訓練終わって帰っても、貴族令嬢としての訓練!プライベートがどこにも無いじゃないですか!」
部屋で食事をしながら、アリスティア——もといライラは、ぷりぷりと文句を垂れた。
カインは顔も上げず、淡々と答える。
「逃げた罰だろ。文句言うな」
その言葉に、スプーンを持つ手がぴたりと止まった。
(……人生って、理不尽)
そんな彼女の心の声が、誰にも届くことはなかった。
朝の光がカーテン越しに差し込むころ、侍女の一人が、鏡台に向かって身支度中のサナリアへ声をかけた。
「……分かったわ」
そう返した声には、うっすらと疲れと諦めが滲んでいた。深いため息を一つ吐き、サナリアは背筋を伸ばした。呼び出しの理由は、だいたい察しがついている。嬉々として何かを渡してくる、あの男の顔が頭に浮かんで、思わず眉がぴくりと動いた。
侍女たちの手で身支度を整えさせ、サナリアは重い足取りでランベルク伯爵の執務室へと向かう。——今や彼女の“夫”となった、ガニエル=ランベルクの元へ。
「旦那様、お待たせいたしました」
扉を開け、礼儀正しく頭を下げて入室すると、ソファにどっしりと腰掛けた大男が、汗ばんだ顔をにんまりと緩ませた。
「ああ、サナリア。そなたに宝石を贈ろうと思ってな。商人を呼んでおいた。好きなものを選ぶがいい」
言いながら、彼の指は太く短く、宝石商のカタログを叩いている。鼻の下はもう伸びきっていた。
サナリアは困ったように微笑みながら、少しだけ首をかしげる。
「旦那様、わたくしはその……お気持ちだけで、もう十分ですわ。これまでにたくさんいただいておりますし」
だが、ガニエルは口を尖らせ、まるで駄々をこねる子どものように叫んだ。
「だめだ!君には、もっと贈り物をしたいんだ。君は僕の妻だって、誰にでも見せつけたいんだよ!」
心底めんどくさい、という気持ちを内に押し込めて、サナリアは一つ、可愛らしい嘘を乗せた笑みを浮かべる。
「では……旦那様が、わたくしに一番似合うと思う宝石を、ひとつだけ選んでいただけますか?」
ガニエルは感動したように目を細めたが、「サナリアは遠慮しすぎだぞ」と呟く。そこへ畳みかけるように、サナリアは手をすっと彼の腕に添えた。
「わたくしに使うよりも、ぜひ、日々尽くしてくれる使用人たちに、旦那様の愛をお裾分けしてあげてくださいな。彼らがいなければ、わたくし何もできませんもの。ね?」
たっぷりと媚びをまぶした台詞に、ガニエルはぱっと顔を明るくし、腕に乗せた手を叩いた。
「仕方ないな!よし、今日は使用人たちにも旨いものを振る舞おう!」
「まぁ、嬉しいですわ。旦那様はやはり、素敵な方ですね」
——内心、(ほんっと、単純すぎるわね)と毒づきながら。
* * *
この“サナリア”と呼ばれている女の正体は、元・脚本家のライラだった。
前世の記憶を持って転生した彼女は、ある施設から逃げ出し、今度こそ自由を手にすると心に誓った。どうにか生計を立てようと、記憶を頼りに“前世で見聞きした物語”を書き上げ、それを出版社に持ち込もうとしていた——はずだったのだが。
運悪く、書き上げた原稿を落とした拍子に、それを拾ったのがレイモンドだった。
「この脚本、なかなか面白いじゃないか。うちの劇団で使わせてくれないか?」
「……いや、それは……出版社に出すつもりなので」
そう断ったところ、彼は無表情でぽつりと告げた。
「著作権的にアウトじゃないかな。君、前世持ちでしょ?」
まさかの一撃。弱みを、あっさりと握られてしまった。
逃げ出そうと思えばできた。だが……前世を知っている人間に、つい心を許しかけてしまった。加えてレイモンドは、無駄に顔がいい。そこもまた、判断を狂わせた。
そのまま2年も、彼の劇団で脚本を提供し続けた。が、別口の仕事でそこそこ資金が貯まり、ようやくレイモンドの元から姿を消した。
自由の始まりのはずだった。——だが、世界はそう甘くなかった。
乗り込んだ馬車が、まさか人身売買組織のものだったなんて。
知らぬまま連れて行かれた先で、涙目になっていた彼女の耳に聞こえてきたのは——
「おい、誰だよ、この子豚。混ざってんじゃねぇか」
「さすがにこのデブ、売れませんよ。殺しときます?」
どこまでも最悪すぎて、思わず空を仰ぎたくなった。
——そんな絶体絶命のところに、王都の警ら隊が踏み込んできた。
ライラは無事に救出された……かと思いきや、ふてぶてしい容姿と態度が災いし、一味と間違われて事情聴取を受ける羽目に。
しかもその取調官が、よりによってあの“隠密部隊養成所”の教官カインだった。
彼女はなんとか善良な市民を演じたが、カインはすぐに見抜いた。
「……お前さ。普通、もっと怯えるもんだぞ? なんで淡々と答えられるんだよ、エル」
仮名も容姿も演技も変えていたのに、通じなかった。完敗だった。
そのまま彼女は施設へと連れ戻され、自由の期間はわずか二年で終わった。
溜めていた脂肪も二ヶ月で消し飛び、伊達眼鏡も外され、すっかり“元の姿”に戻ってしまった。
本来美少女だった彼女は、美しさに磨きがかかり、もはや養成所の男子寮に置いておけないとの判断で、教官であるカインの私邸に預けられることになった。
彼女の本当の名は、孤児院で与えられた『エル』。
しかし、今では表向き“アリスティア”と名前を変え、カインの年の離れた“妹”として扱われていた。
「ねぇ、納得いかないんですけど!訓練終わって帰っても、貴族令嬢としての訓練!プライベートがどこにも無いじゃないですか!」
部屋で食事をしながら、アリスティア——もといライラは、ぷりぷりと文句を垂れた。
カインは顔も上げず、淡々と答える。
「逃げた罰だろ。文句言うな」
その言葉に、スプーンを持つ手がぴたりと止まった。
(……人生って、理不尽)
そんな彼女の心の声が、誰にも届くことはなかった。
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