とある魔女の後悔

宵森みなと

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第8話  嘘と恋の境界線

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馬車の中、リエルはアデルの腕にそっと寄りかかり、目を閉じた。
頬にかかる髪が、彼の肩にふわりと触れる。息を潜め、眠ったふりをする。

アデルは小さく息をつき、そっとリエルの髪を撫でた。
その手つきは驚くほど優しく、どこか儚げで——
リエルの胸の奥で、任務とは違う何かが、静かに波を立てた。

(……危険ね。優しさに情が移る。そんなの、一番厄介なのに)

屋敷に着くと、アデルは彼女を抱き上げ、来客用の部屋に運んだ。
ベッドに下ろすと、侍女を呼び、静かに指示を出す。

「着替えを頼む。彼女は疲れている。……そっと、な」

眠ったふりをしながら、リエルはその会話を聞いていた。
侍女の衣擦れの音、遠くで閉じる扉の音。
——やがて、静寂。

その夜、眠れぬまま時間だけが過ぎていった。
薄闇の中、扉が静かに開く音がする。

(……アデル?)

リエルは目を閉じたまま、息を殺した。

足音が近づき、ベッドの脇で止まる。
そして、額にそっと唇が触れた。

「……リエル、好きだよ」

低く、掠れるような声。
次の瞬間、頬に指が触れ、温もりが離れていく。
扉が静かに閉まる音がして、部屋は再び闇に沈んだ。

——キーマンとの距離は、あと一歩。
だが同時に、その一歩は、崖の端に立つような危うさでもあった。

(……これ以上は、危険ね)

リエルは小さく息を吐き、シーツを握りしめた。

* * *

翌朝。
窓辺の光の中で、リエルは静かに頭を下げた。

「アデル様、いろいろお世話になりました。……そろそろ、自宅に戻りますね」

「そんなに急いで帰ることはないだろう? もう少し、ゆっくりしていけばいい」

アデルは寂しげに言ったが、リエルは穏やかに微笑んだ。

「……私は平民です。お屋敷に長くいれば、いらぬ噂を立てられます。
 アデル様のご縁談にも差し支えますし……」

困ったように笑って言葉を繋げる。

「でも、またアデル様のお休みの日にでも……ぜひ、うちにいらしてください。
 今度は、お茶でもお出ししますから」

アデルは少し目を細めて頷いた。

「あぁ……リエルの部屋か。あそこは、不思議と落ち着くんだ。
 いいだろう、休みの日にまた会おう」

リエルは心の中で息を吐いた。
(これで、自然に距離を保てる……)

アデルは自ら馬車を出し、彼女をアパートの前まで送り届けた。
「寄っていきませんか?」と声をかけると、アデルは軽く笑い、首を振った。

「出版社に顔を出しておかないと。——また連絡するよ」

リエルは微笑みながら手を振り、その背が角を曲がるまで見送った。

* * *

部屋に戻るとすぐ、リエルは服を着替え、机に向かった。
前夜の出来事、アデルの言葉、軍務大臣との暗号の会話——
それらを整理し、報告書に記す。

小さく折りたたんだ紙を、ハンカチに仕込んだ秘密のポケットに滑り込ませる。

(……さて、届けに行かないと)

街へ出たリエルは、いつものように穏やかに歩いていた。
その途中——店先から出てきたご婦人が、急に苦しそうにしゃがみ込む。

「大丈夫ですか?」

リエルはすぐに駆け寄り、汗を拭いながら声をかけた。
「これ、使ってください」と差し出したのは、件のハンカチ。
婦人が手に握ったその瞬間、任務は完了した。

「誰か呼んできますね」

「……主人が……中に……」

中から駆け出してきた男性が婦人に駆け寄る。
リエルは軽く会釈して、その場を離れた。

「ハンカチを……!」

「いいんです、よくあるものですから」

柔らかく微笑み、背を向ける。
婦人の掌には、薄い布と小さな秘密だけが残った。

* * *

次の日、部屋に見覚えのある二人が訪ねて来た。昨日のご夫妻で、侍女長マリアと、執事ロイド。

思わず声が出そうになったが、ギリギリで堪える。

「……驚いたわ。まさか、あなたたちが来るなんて」

マリアは穏やかに微笑んだ。

「旦那様と奥様、それに坊っちゃまも……あなたのことを心配されています。
 もう、十分だとおっしゃっていましたよ」

ロイドも続けた。

「撤収命令が出ています。帰国手段は、どうされますか?」

リエルは少しの間、沈黙してから笑みを浮かべた。

「……今はまだ帰れないわ。予約が詰まっているの。
 一ヶ月後に、恋文で結ばれたカップルの結婚式があると言う設定で、それに出席する途中で、“ジストリアの兵崩れに襲われて、崖から身を投げた”——そういう話で」

ロイドが頷く。

「……不信の種を、残していくわけですね」

「そうよ。どれだけ芽を出すかは分からないけど、撒けるだけ撒いていく」

決意を宿した瞳に、マリアとロイドは深く頭を下げた。

* * *

日が経つごとに、リエルは少しずつ“リエル”としての殻を脱いでいった。
地味な服装をやめ、髪も少し明るくまとめる。
街では、自然に恋の話をすることも増えた。

「恋って……胸が痛いものなんですね」

そんな呟きを、通りの人々が微笑ましく聞いていた。

そして——
帰還を予定する一週間前。
アデルとの再会の日が来た。

待ち合わせのカフェで、先に来ていたリエルは、彼の姿を見つけた瞬間、思わず目を潤ませた。

「アデル様……お久しぶりです。……会いたかったです」

頬を染め、恥ずかしそうに俯く。
その姿に、アデルの胸の奥で何かが弾けた。

「……私も、リエルに会いたかった」

二人の会話は穏やかで、どこか甘く、静かな光を帯びていた。
視線が合っては、そらし、また重なる。

——そんな時。

リエルが小さく息を吸い、勇気を振り絞った。

「アデル様……この間、軍の関係者だという方に突然抱きしめられて……
 口づけを迫られたんです。でも……逃げました」

アデルの瞳が一瞬で険しくなる。

「……なんだと?」

「……怖かった。でも、その時、気づいたんです。
 アデル様じゃなきゃ、嫌だって。
 この想いが恋だって、分からなかったけど……
 今、こうしてお会いして……はっきりしました。……好きです」

涙に濡れた瞳。
アデルは一瞬息を呑み、そして静かに頷いた。

「……ああ、私も同じ気持ちだ。リエルが好きだ。
 身分なんて関係ない。君が……君であることが、好きだ」

そう言って、彼はリエルを抱き寄せた。
「だが……その軍人は、どんな男だ?」

険しい声色。リエルは、震える指で涙を拭いながら答えた。

「夜道で……後ろからでした。顔は見えませんでした。
 ……思い出したくありません」

「……すまない。思い出させてしまったな。
 でも、もう大丈夫だ。今日から……私たちは恋人同士だ。
 何かあれば、すぐに知らせてくれ」

アデルは彼女を抱きしめ、そう囁いた。

カフェを出る頃には、空に淡い星が瞬いていた。
アデルはリエルを家まで送り届け、別れ際に、そっと唇を重ねた。

——それが、リエルにとって“初めてのキス”だった。

驚いたように唇に触れ、頬を赤く染める彼女を見て、アデルは思わず笑みをこぼす。

「……初めての、キス」

リエルのその言葉に、アデルはもう一度抱き寄せたかった。
けれど、その純粋な表情が、彼の理性をぎりぎりのところで止めた。

(……任務のはずなのに。なのに、どうして……)

胸の奥で、リエルの心が静かに震えていた。
その震えが、恋なのか、それとも——罪悪感なのか。
まだ、誰にも分からなかった。
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