とある魔女の後悔

宵森みなと

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第9話 帰還の日

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朝の光がアパートの窓に斜めに差し込み、埃の粒がふわりと舞った。
リエルは荷造りを終えると、少しだけ深呼吸をして、玄関の扉を開けた。冷たい風が頬を撫でる。

オーナーの老婦人は、入口の階段を掃きながら顔を上げた。
「サマリエル国で恋文が縁で結ばれた友人がいて、この度、結婚式への招待を受けたのです。1週間ほど部屋を留守にしますね」
リエルは笑顔を作りながら、そう説明した。
胸の奥が少しだけ痛んだ――嘘ではない。だが、真実でもない。

「もし、アデル様が訪ねて来たら、こちらの手紙を渡していただけますか?」
封筒を差し出すと、老婦人は皺の深い手でそれを受け取り、柔らかく頷いた。

「気をつけて行ってらっしゃい。最近、軍崩れのやつらが野盗まがいのことをしてるって噂だよ」
その言葉に、リエルの眉がわずかに動く。――噂が、予定通りに広がっている。

「えぇ、気をつけます。そんなこと、起こらないよう祈っててくださいね」
軽く手を振って微笑むと、リエルは石畳を渡り、乗り合い馬車へと足を運んだ。

車内には、老夫婦と中年の女性が一人。御者は白髪の老人だった。
「もし本当に野盗が出たら、この人たちではどうにもならないわね」
心の中で小さく呟く。馬車の揺れとともに、リエルは自分の呼吸を整えた。

やがて、ジストリアとサマリエルの国境が近づく。
その瞬間――予定通り、馬車が急に止まった。

「金目のものを出せ!出せば命は取らねぇ!」
荒々しい声が外から響く。数人の男たちが、武器を振りかざしていた。
老夫婦も女性も、震えながら財布を差し出す。
だが、その中の一人が、ゆっくりとリエルに視線を向けた。

「へぇ、えらいべっぴんさんがいるじゃねぇか。……おい、そこの女、こっちに来い」
中年の女性が慌てて立ち上がると、野盗は舌打ちをした。
「お前じゃねぇ!ババァは引っ込んでろ。そこの女だ、イラつかせんじゃねぇ!」

心臓が強く跳ねた。
リエルは唇を噛み、震える足を動かした。外に出ると、砂埃の中で歯の根が合わず、カチカチと音を立てた。
野盗の一人がニヤリと笑う。その笑みを無視して、リエルは足をもつれさせながらも従った。

背後で、老夫婦と女性が祈るように動けずにいる。
馬車は、ゆっくりと、リエルを置き去りにして去っていった。

――演出完了。

野盗たちが消えた後、リエル――いや、“アリスティア”は、冷ややかに小さく息を吐いた。
「……事後処理、お願い」
木陰に潜んでいた隠密部隊が静かに頷き、動き出す。

リエルは、用意されていた馬車に乗り換え、フードを深く被った。
“リエル”はもう、ここにはいない。
サマリエル国へ入るのは、“アリスティア”として――密命の帰還。

***

ランドエル侯爵家の門が見えた時、胸の奥が少しだけ熱くなった。
馬車が止まり、扉が開く。
「……ただいま」
その言葉を出す前に、懐かしい顔が飛び込んできた。

「おかえり!」
エリナが駆け寄り、迷いもなく抱きしめた。
カイザルもカインも、目を細めながら微笑んでいる。
――その光景に、胸が締めつけられた。

「無事に帰還できてよかった……定期報告は受けていたが、心配していたぞ」
カイザルの低い声。
アリスティアは苦笑しながら母の腕をそっと離れ、父の胸に飛び込んだ。
「お父様、ただいま帰りました」

抱き締めていた腕を、カインの大きな手がそっとほどく。
そのまま、彼が強く抱き寄せた。
背中に伝わる鼓動が、懐かしかった。
「お兄様、ただいま戻りました」
静かにそう告げると、カインの肩がかすかに震えた。

***

居間へ通されると、カインの膝から下ろしてもらえないまま、報告が始まった。
ジストリアでの生活、アデルとの出会い、パーティーでの出来事――。
一息つくたび、兄の腕の力が強まる。

「一応、“恋人”という形で、アデルと軍の間に亀裂を生むよう、種を撒いてきたの」
その言葉に、カインの眉が跳ね上がる。
「こ、恋人だと!?」
耳元で怒鳴る声に、アリスティアは肩をすくめた。

「仕方ないでしょ?反政府側に武器なんて渡されたらたまらないわ。あれは“演技”よ」

その時、母エリナが柔らかく笑った。
「本当に、それだけ? 本当は気持ち、あったんじゃないの? アリスティアの初恋かしら?」

問いかけに、アリスティアは一瞬、目を伏せた。
「……初恋、だったかも。でも敵国よ。叶うはずないもの」
声が、少しだけ掠れた。

エリナは娘の顔を覗き込みながら、穏やかに続ける。
「悲しい初恋ね……。で、キスはしたのかしら?」

アリスティアの肩がぴくりと跳ねた。
「……はい。1度だけ。初キス、しました」
頬を染めてうつむく娘に、部屋の空気が一瞬止まる。
背後でカインがわなわなと震え、カイザルは呆然としていた。

「約束しただろう」
低く、怒気を孕んだ声が背中越しに響く。

アリスティアはため息をつき、顔を上げた。
「仕方ないでしょ。自然な流れでキスしたの。……もういいでしょ、この話は」
一瞬だけ、瞳が揺れた。
「ジストリアに“リエル”は置いてきたの。私は――アリスティアよ」

静かな宣言だった。
部屋に広がる沈黙の中、暖炉の火がぱちりと弾ける音だけが響いていた。

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