さわれぬ神 憂う世界

マーサー

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第4部

[58] 4部1章/2 「俺の場所を、俺の力で手に入れる。」

【4部1章】

 /2

 本堂に犬伏住職の読経が低く、波のように響いている。喪服姿の志朗は、ただ壇上を見つめていた。
 飾られた遺影は、若い。父・仏田光緑。まだ四十歳ほどの男だった。
 白髪一つない端整な顔立ち。遺影だというのに、眼差しには今なお気迫が宿っている。
 笑ってもいない。柔らかくも厳しくもない。完璧な肖像だ。その顔が、志朗の胸を痛く突き刺す。
 どこまでも雲の上の存在だった。
 努力では埋まらない差があり、血を分けても埋まらない距離があった。父と子、たったそれだけの関係だった。最後に会ったのはいつだったか。病に倒れたと聞いてから、療養に入った父と面会は一度もできなかった。
 正確に言えば、会わせてもらえなかった。
 兄の燈雅は後継者として最後まで父に付き添い、全てを託されたという。志朗は遠巻きに見るだけだった。
 父に抱く感情は、憧憬。尊敬。執着。……恐怖。
 第六十二代目当主・仏田光緑は、冷酷な実業者として名を馳せていた。
 利益にならない者は容赦なく切り捨て、家臣であっても排除し、息子である志朗に対しても例外ではなかった。
 価値を見いだされない限り、父の視界にすら入らない。家族としての情など最初から存在せず、いくら志朗が高成績を収めても「それが当然」という態度で、ただの資産としか扱われなかった。
 血も涙もない。それでいて突然、人が変わったかのように……。そこまで思い出して、志朗は喉の奥でそれらを噛み殺し、頭を垂れた。

 葬儀の後、本邸の離れに三兄弟が揃った。
 光緑が長らく療養していた建物に、志朗は喪服のまま畳に座した。既に燈雅が座っている部屋に、最後に新座が遅れて膝を折る。
 燈雅は葬儀の間、終始崩れることなく喪主を務めた。黒の正装に身を包んだ彼はとても理知的で、もはや光緑そのものだった。まだ二十代半ばというのに、もう別の世代の男の顔をしている。
 一方、新座は袖で目元を拭っていた。真っ赤に腫れた目を隠そうともしない。
 十九歳になったばかりの弟は背も伸び、顔つきにも大人の影が混じり始めている。けれど、今は誰よりも子供だった。素直に泣き、素直に父の死を悼んでいた。
 志朗には、それが少し嬉しかった。あの父に対して涙を流せる子供でいてくれる。それだけで、救いに近い何かを覚えた。
 やがて、燈雅が口を開く。
「父上は、病の間も一日として家を憂うことを忘れなかった。新たな秩序と流れを整え、その上で旅立たれた」
 声には、硬質な意志があった。まるで光緑が憑依しているかのように聞こえる。
 かつての兄は、もっと柔らかい声をしていた筈だ。どこか新座に似た、朗らかで大らかな声だった気がする。けれど今、目の前の燈雅はもう遥か遠くにいる。
「父上より、既に全ての業務を引き継いでいる。だが、オレは未熟だ。柳翠叔父上や上門所長の力を借りて、当面の運営にあたっていく」
 もはや兄弟間の会話ではなく、方針発表だった。
 淡々と進む業務報告。その中で、ふいに話の刃が志朗へと向けられる。
「そして、嵐山組の件だが。照行さんの完全引退に伴い、当面は代理を立てる。いずれその後任を、志朗、お前に任せたい」
 志朗の呼吸が、止まった。
 口から出たのは、間の抜けた返しだった。
「俺はまだ、大学二年の若造だが?」
「それでもお前が相応しい。実績、評価、積み重ねた努力、全ての観点から見て、最適と判断した。皆も同意している」
 瞬間、志朗の胸に熱が走った。

 ――勝った。
 叫びたい衝動が、喉元までこみ上げた。全身の血が跳ねる。それでも志朗は顔を伏せ、唇を噛みしめた。
 ここに至るまでの年月を思う。
 組の下っ端から這い上がり、表でも裏でも結果を出し、父に会えなくとも名に恥じない生き方を貫いた。
 その全てが今、報われたのだ。
 唇の端が上がるのをどうしても止められない。俯いたまま誰にも見せないように、喉の奥で小さく勝利を刻んだ。
「……そして、新座だが」
 燈雅の声が、調子を変えた。柔らかいが、明確な意図を含んだ口調。
 次に語られるのは、家の未来における末弟の役割について。だがその先を言わせなかったのは、肝心の本人だった。
「燈雅お兄ちゃん。僕はパスだから」
 目の腫れも隠さぬまま、新座はあどけない笑顔で、話を切り刻んだ。
「申し訳ないけど仏田の何に就くとか、ほんと無理。そもそもさ、お兄ちゃんたちと席を争うとかそういうのが嫌で家出したんだよ?」
 言葉は軽やかだったが、拒絶の意思は強い。
「それにさ、お父さん……僕のこと、何か言ってた? 役職でも遺言でも。何にも無かったでしょ?」
 新座は涙の筋を頬に残したまま、無邪気に笑う。
「じゃあさ。用意しなくていいよ、席なんて。僕は好きにやる。勝手にさ」
 志朗の胸の奥で、何かが軋んだ。
 かつて膝に頭を預けて眠った弟。誰よりも甘えてきた、唯一の存在。愛していた。今も、心の底から愛している。
 ――なのに。なんなんだ、こいつは。
 愛され、守られ、好きなように生きることを許された末弟。期待されず、けれど嫌われることもない、その絶妙な立場。それでいて、今この場で「パス」と一言。
 志朗の中に、冷たい怒りが満ちる。だが、飲み込んだ。
 この弟には毒がある。可愛げの皮を被って、核心を抉る才がある。何を言ってもその数倍で返してくるだろう。
 拒絶の前に、燈雅は一瞬だけ黙した。けれど、それは迷いの間ではない。
「なら、新座。好きにしなさい」
 寛容でも諦めでもなく、ただ無関心の色を帯びた言葉。
 新座は気にする様子もなく、ふいに笑った。
「そうやって二人が格好つけてるの、昔から変わらないよね」
 無垢で天真爛漫で、そしてどうしようもなく、狡い。
「志朗お兄ちゃんはすぐ顔に出るし、燈雅お兄ちゃんは変な演技をするし。まあまあ、僕がどかないと一生兄弟喧嘩しそうだったからさ。いいじゃん、好きにやってよ」
 志朗は、もう怒らなかった。その言葉に怒っても仕方がない。
 愛と嫉妬、誇りと怒り。全てを飲み込んで、志朗は背筋を伸ばした。
(いいさ。お前たちがどこにいようと、俺は……俺の場所を、俺の力で手に入れる)
 誰にも期待されず、誰にも必要とされなかった時間を越えて、今ようやく手にした頂の一角。
 頂きに立つために志朗は、兄でも弟でもなく、ただ一人の男として心に火を灯した。


 それからの日々、志朗は確実に歩を進めていった。
 父・仏田光緑の死は、世間の表裏を問わず新たな波紋を呼び起こした。
 若き当主・燈雅の就任とともに異能研究機関の支配体制は再編され、国と世界を繋ぐ黒い網目はより綿密に、より周到に張り巡らされていく。仏田家の名は、恐れと憧れを纏って囁かれるようになった。
 志朗もまた誰に明言されるでもなく、それでいて抗えぬ力をもって「次期組長」の座に近づいていく。
 大学に籍を置き、起業、地域再編、国際的な留学プログラムへの参加など、目覚ましい成果を重ねていた。仏田の名を使わずとも、志朗の名は確かに学内外に広がっていった。
 夜ともなればスマートなスーツに身を包み、都内の老舗料亭や超高層ビルの応接室へと赴く。
 財界、裏社会、政界――あらゆる勢力の影と水面下で接触しながら、情報と金、信頼と恐怖を握る技術を学ぶ。
 若さゆえに侮られ、値踏みされることもあった。だが、睨まれれば睨み返し、軽んじられれば笑って毒を返す。そのたびに志朗の名は深く、地中へと根を下ろしていく。
 何より、彼は決して取りこぼさなかった。
 大学の単位一つ、交わす挨拶一つ、組の末端から上がる報告一つに至るまで、曖昧にせず、置き去りにしない。綿密に、怠らず、決して妥協しない。それが志朗のやり方だった。
 父・光緑のように天性の才を持たず、兄・燈雅のように神秘性を纏った絶対者でもない。だからこそ志朗は、全てを努力と執念で埋めようとした。
 夜通し資料を読んだ。敵対勢力の動きを先読みして、潰した。古参の幹部たちに一人一人頭を下げ、根回しを行なった。癒着としがらみに塗れた組織の解剖し、矛盾の縫い目を見抜き、修正し続けた。
 気づけば、彼の周囲には力が集まり始めていた。
 大学を卒業する頃には、「将来の頭」という評価に疑問を呈する者は殆どいない。
 兄・燈雅が天の道を行くなら、弟・新座が風のように自由を選ぶなら、志朗は地を這い、拳を血に染め、泥濘の中に王座を築く道を選んだのだった。

    ◆

 月の届かぬ、廃ビル地下の空洞。
 湿気を帯びたコンクリートの腐臭と、染みついた血の鉄の匂いが淀む空間に、志朗の足音だけが乾いた靴音を刻んでいた。
 漆黒のスーツは皺一つなく、結び直されたネクタイは寸分の乱れもない。夜の闇をも映す冷ややかな双眸が、闇を貫いていた。
 志朗の眼前には、一人の男。口には猿轡、見開いた目は恐怖に引き攣れ、汗と涙で顔は既に形を失っている。それでも志朗の眼差しは、終始静かだった。
「長らくの沈黙、ご苦労」
 声音に笑みはない。ただ粛々と、終焉の報せを語るように。
「口を割らなかったのは立派だが……残念だったな。うちの式がもう全部読み取ってる。誰と通じて、何を企て、金がどこへ流れたか。隠し口座の番号まで、洗い出してある」
 淡々と列挙される敗北の証。声に激情はなく、だからこそ言葉は重く、深く刺さる。
「次に土下座すんのは、お前たちだ。仏田の名がどういう意味を持つか、骨の髄まで教えてやる。事故死の扱いにはしてやるが、生まれ変わっても、二度と牙を剥くな」
 ひと閃。
 空気が震え、濃密な血の気配が辺りを染める。志朗の背後の者たちが無言で血飛沫を拭い、段取りの通りに電話を繋いだ。それを受け取った志朗が、唇だけで応じる。
「……ああ、例の処理、頼めるか。書類と検視は手配済み。警察の方は所長に話を通してある。地検も……ああ、俺の名前で」
 通話の向こうで、誰かが愉快そうに笑う。志朗は短く鼻を鳴らし、無言で通信を切った。
 この地の権力構造は、既に仏田の網に絡め取られている。地方の役人は大学時代の恩師、地裁の係官は家の常客。新聞社もテレビ局も、仏田が触れれば首を垂れる。
 人一人殺しても、証拠は霧と消える。目撃者は証言を覆すか、永遠に黙する。異能がある。それを隠し、活かすのもまた、仏田家の術。
 現場の記憶を丸ごと塗り替える呪法。血液型すら変える秘薬。死体を「存在しなかったもの」として世界から削除する封結界。そうした全てが、志朗の掌中にあった。
 彼自身に異能はない。だが、力を操る術を知っていた。自らが天才でなくとも、天才を従わせれば良い。だからこそ、彼の傍には常に数人の術者が控えている。
 警察幹部は仏田の顧問弁護士と繋がり、司法取引、企業献金、封印された事件……それら全てを編み合わせ、仏田の触手は一省庁を越え、複数の組織を内側から蝕んでいた。
 この国で、いや、この世界で、仏田に逆らうことは神に背くのと同義にした。歪んだ秩序の中心に立つ者として、夜を支配する。

 その様子を見届けていた一人の老人が、ひと仕事を終えた志朗に声を掛けた。
「……あんたの父上たちは、敵としては見事だった。だが、あんたは異能を持たぬ者。最初は話にならんと思っていたよ」
 護衛に囲まれたその男は、西日本を基盤とする古豪異能組織の当主。
 警戒を滲ませながらも、敗北を悟った者の声色で言葉を継ぐ。
「うちの若いのが随分と、あんたに心酔してる。怖いくらいにな」
「力でねじ伏せる――それが父の流儀でした。恐怖で秩序を保ち、反抗を芽ごと潰す。それで人心が掌握できると、あの人は信じていた。実際、長いあいだ成功もしたでしょう。けれど……私は違う。あの人ほどの腕も、圧もない。だからこそ、別の景色が見えるんです」
 老当主が喉の奥で唸る。志朗の声は丁寧でありながら、芯を刺すように冷静だった。
「利を示す。道筋を整える。我が家が積み上げてきた人脈を――貴方たちの側へ貸す。敵として刃を交えるより、味方として利を分け合うほうが、どれほど血の流れを抑えられるか。……合理的でしょう?」
 穏やかな口調の底で、淡い威圧が水脈のように揺れていた。
「合理的、ね……」
 老当主の細めた目は、長年血の匂いしか知らなかった獣のように光る。
 力と暴力と欲望が領土を塗り替えてきた世界が中心だった。しかし目の前の青年は、まるで異質な戦い方で組織を吸収している。背筋をなぞるような不気味さと合理性に、老当主は感心した。
「人の心は、才能ではなく仕組みで掌握できます。福利、安全、役割の明示。仏田の傘下に入った者は、明日の計算ができる。恐れではなく予測が支配を支える。だからこそ、忠義もまた育つんです」
「……あんたらのもとへ入れば、我らは名を失う。系譜も誇りも、断ち切られる」
 老当主の声は、もはや自らの終焉を悟った者の重みを帯びていた。
「名は表に出なくても、魂は残ります。我々は貴方たちの在り方を歴史として背負う。無碍にはしない。むしろ、高みに連れて行く。血も誇りも、別の形で継承する。それが、仏田式の吸収統治です」
 父や兄のように、力ずくで喰らって腹に収めるのではない。
 尊厳は奪わず、だが支配は揺るがせない。
 無血の併合。沈黙の服従。そのどれもが、志朗という青年の手の内に美しく並べられていた。
 しばしの沈黙。老当主は深く溜息をついて、静かに頷いた。
「……我らは、仏田の旗下に入ろう」
 その一言が、後に続く異能組織連鎖吸収の嚆矢となった。


 味方となった老当主を自らの手で丁重に送り届けた後も、志朗の足は止まらなかった。
 水面下で蠢く声が、次から次へと彼の名を呼ぶ。
 傍らに控える男・上門かみかどかすみが、既に通話の繋がった携帯電話を恭しく差し出した。
「志朗兄さん。頭垓の主任からです」
「随分と急だな?」
 異能研究機関――その内でも頭垓は、仏田が二番目に深く資金を投じている重点部門だ。実験、統計、異能開発の核心。そして何より、仏田の利益に直結する成果を量産し続ける部署。
 その代表者が直々にかけてきた電話。軽々しい用件であるはずがないと、志朗は一拍呼吸を整えてから受話器を耳へと寄せる。
 鼓膜に触れたのは、柔らかくよく通る声だった。しかし、穏和さは表面だけ。言葉の節々に潜む温度は、氷片のように薄く鋭い。メスを心臓に突き立ててくるような男声だった。
「どうも志朗様。先日お送りしましたレポート、目を通していただけましたかね。いくつかの試験体で有望な成果が出ております。現在のストック数は合わせて四十ほど。彼らは知性を備え、躯体も美麗。しかも繁殖力が非常に高い。将来的な生産ラインとしても申し分ありません。ただまだ母数が足りませんねぇ」
 有無を言わせない早口。研究者特有の、倫理より効率を優先する滑らかな職業病の響きが耳に残る。
夜須庭やすにわ先生。貴方と俺の仲だ。単刀直入に伺おう。欲しいのは何だ?」
 通話の向こうで、微笑を含んだ呼吸がゆっくりと膨らむ。
「はあ、品の無い言い方になってしまいますが……すみませんねえ。前回と同じ条件で。素材一体につき三千万の出資。技術還元としては、御家に優先的な遺伝子治療技術と異能適性解析データを。正直、原価が高騰してましてね。コストダウンのためにも……できれば、新しいエルフを二十体ほど、回していただけないかと」
「……二十体のエルフ、承知した。俺から朱指へ連絡を入れよう。来週にはそちらへ届くよう手配する」
「生きたままでお願いしますね。五体満足じゃなくても構いませんから」
 乾いた笑いが耳元で弾けた。
 人間の形をした殺戮者。倫理を解剖して捨て去った科学者の笑い声、そのものである。
 通話を切ると同時に、志朗は次へと指示を飛ばす。
 宛先は、異能狩猟部隊――朱指。
 かつて照行が率いていた血塗れの部隊は、今や志朗の指先として冷酷に獲物を狩り、黙らせ、運ぶための機構となっていた。
「……投資だ。成果が出れば、十倍になって返ってくる。主任は『五体満足でなくてもいい』と言っていたが……売り物だ。出来る限りイキのいいエルフを狩れ」
 命の数を読み上げるような低音。たった数分で、何億という金が動き、何体という命が市場に並べられる。
 契約書の署名ひとつと、殺意の指示ひとつが、等価で流通する世界。魔術と資本が混じり合って腐ったこの市場で、志朗の影は静かに広がる。
 踏みつけた者の呻き声も、殺した者の瞳も、もう何も映さない。
 瞳には揺らぎがなかった。残されているのはただ一つ、勝ち残るという意志だけだ。
 世界が堕ちようと、過程に血が溢れようと構わない。仏田の名のもとに、志朗は今日もまたひとつ、市場の心臓を握り潰す。
 冷たく、完璧に。支配者の椅子は、彼のために沈黙のまま開かれていた。

    ◆

 都心の高層ビル群の一角。深夜でも灯りが途切れることのない、ガラス張りの巨塔の裏側に、選ばれし者だけが存在を知る秘密のクラブがひっそりと息づいていた。
 表向きは会員制レストラン。だが重厚な防音扉をくぐった先には、別世界のような甘く濁った空気が広がる。
 琥珀の照明が黄金の湖のように床を照らし、深紅の革張りのソファには、政財界の古狸たちの影が沈み込む。
 昂ぶりを隠す濃密な香水。高価な酒の蒸気。低く笑う声。
 その全てを孕んだ個室の最奥、志朗はひとり、静かに身を沈めていた。
 足元には、金糸の髪をしたエルフの少女が跪いている。
 見た目は十五歳ほどの少女。白磁の肌、宝石を編んだような髪。高価なドレスに包まれていても、首に巻かれた冷たい金属の首輪が、その価値を商品へと落とし込んでいた。
 首輪から伸びた鎖が床を這い、少女の影に冷たく絡みついている。その沈黙は悲鳴より残酷だった。
「いやあ、志朗様! お久しゅうございます、ようこそお越しくださいました!」
 声を張り上げるのは、このクラブを取り仕切る中年男――オーナー・大山。
 今日もまた絹のスーツをぴたりと身にまとい、くの字に折った腰で媚びと忠誠を同時に表現する。
 仏田家の名を欲しがる者は多い。だがこの男は、自分の立場を正確に理解し、決して一線を越えない老獪さを持っていた。
「本日も格別のお引き立て、誠にありがとうございます。ええ、こちらはほんの手土産でございまして」
 差し出された封筒は、紙の重さを感じさせない。それは数種の名義変換を経て匿名化された、実質金塊のような価値を持つ通貨コードだった。
 志朗は迷いなくそれを指先で撫で、内ポケットに沈めた。
「……手が早いな。いつも期待してますよ、大山さん」
「ありがとうございます。実は先日、特にお目に叶いそうな子が届いたばかりでして」
 大山が指先で軽く合図を送ると、控えていたスタッフが近づき、革張りのファイルを恭しく差し出した。
 開かれたページには、少女たちの写真と細密な属性一覧が整然と並ぶ。
 年齢、種族、身体的特徴、骨格、声質、健康状態、性感帯の反応記録、そして処女歴。人を資産評価するための表でありながら、そこにはどこか芸術品のカタログめいた気品すら漂っていた。
「このように未調教の子も揃っております。今なら、どなたも手をつけておりません」
 志朗はページを数秒だけ眺め、すぐに閉じた。
 視線は足元の少女へと落ちる。
 細い肩。透き通るような肌。金糸の髪を編んだような光沢、果実の香りを思わせる甘い匂い。生きているのに、宝石のように無機的な美しさを湛えたエルフ。
 普通の男ならこの時点で理性など霧散し、欲望に膝を折るだろう。
 だが、志朗はただ微笑んだだけだった。
「……いや、今日はいい」
 短い一言に、大山は顔を上げる。驚愕が、皺深い顔に走った。
 幾千の売買を捌いてきたこの男でさえ、美しいエルフの魅力に抗う者などいないと確信していたのだ。
 志朗は唇の端を、僅かに上げた。
「いい子が揃ってるなら、それは各店舗の供給不足の穴埋めにでも回してください。商売は回転が命でしょう?」
 一瞬の静寂。次いで大山は歓喜にも似た笑みで破顔し、深々と頭を垂れた。
「さすが志朗様。お目が高い」
 そのやり取りの最中、少女は一言も発しない。
 ただ金属の鎖が、静かな空調に揺らされて微かに震えただけだ。
 志朗はその震えを横目に、グラスの縁に琥珀色の酒をそっと傾けた。
「ところで……俺の知り合いが教えてくれたことだけど、『犬のおまわりさんがワンワン吠えたがってる』ってさ。まったく、鳴いてばかりで困っちゃうよな。セッティング、頼むよ」
「かしこまりました、志朗様」
 今夜の志朗の仕事は、ただそれだけ。『大山に公安の動きを伝えること』、それで十分だった。
 言葉は穏やかで、血の匂いはひとつもない。優雅な会話と薄い笑みだけで、幾百もの命が音もなく沈んでいく世界。
 その深淵を志朗はひと匙の酔いすら浮かべず、静かに見下ろしていた。
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