痛がり

白い靴下の猫

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8.メイと金庫を開けに行く

あかりを迎えたさとる達が、金庫、金庫と連呼していたせいだと思う。
時間を空けずに、メイが歩み寄ってきた。
さとるが折衷案で部屋の仕切りとして置いた衝立がごく軽くノックされて、うとうとしていたさとるの意識が浮上する。
「すみません、お休みでしょうか」
「メイ?起きてるよ、どぞ~」
勢いをつけてベッドから降りると、衝立から顔を覗かせたメイが見えた。
ああ、またすごい覚悟の顔してやってきたものだ。
さとるはどうしたと聞くこともなく、共有スペースの机に誘導してメイを座らせ、自分も座った。

メイは軽く頭をさげてからはなしはじめた。
「あの、金庫のお話に参加させていただきたくてきました」
なかなかストレートな切り出し方だ。
「優から、何か聞いてる?」
「少し。でも聞いた内容より、外部の反応が多いと言いうか。えーと、優さんが亡くなった後、優さんの生徒にこっそり見張りがつきました。多分気づいたのは、私とサシャぐらいだと思いますけど。あと、優さんのいた場所が次々家探しされて。ただの事故なら、そんなことありませんよね」
「そうだな。それでメイは、優が死んだの、事故じゃないと思ってくれたわけだ。で、真相探ろうとか?」
「はい。敵は、家探しのセンス悪いのか何も見つけられないみたいで。生徒の中で、年長だったふたりが連れ去られて、金庫はどこだと聞かれました」
「気の毒に。無事だったのか?」
「何か薬使われたみたいで、記憶は曖昧でしたが命に別状はありませんでした。私は、金庫があるの、知っていました。開けられませんけども。優さんが、私にも開けられないくらい念入りに隠すから、見つかってほしくないのかって聞いたら、息子たちにはただのなぞなぞだって」
「ひょっとして、それで、俺らを呼ばせた?」
サーファを操って?
「はい。申し訳ありません。金庫を開けて欲しかったんです。その中身をほしがるやつを知りたかった」
「中身欲しがる奴って・・・サーファじゃないわけ?」
「サーファも、もちろん欲しがっていますけど、他にもいるんじゃないかと、疑っています」
「理由、聞ける?」
「優さん、サーファのことは、はじめから警戒していました。でも、亡くなった日、出かけるときは、そういうんじゃなくて、もっと会いたい人に会いに行く感じで・・」
「ちょっとまった!話の腰折ってごめん。今のサーファは、優の夫兼俺らの父親とは別人、っていう前提で話してる?それともサーファと優って冷え切ってた?」
「すみません。サーファは、2人います。サーファ・デジュとサーファ・カウルという双子で、カウルが優さんの夫ですが、顔で見分けはつきません。今のサーファは、私たちに対してはデジュとしてふるまっていて、私もデジュだと思っていますが、確信ではないです」
「うわぁ。そうなんだ。で、少なくともデジュよりはもっと優に親しかった人間で、裏切り者がいた、と、思ったと」
「はい」
「サシャも同じ考え?」
「はい。でも、あの・・・サシャは、私をあまり好きでなくて、しかもますみさんをすごく気に入ったようで、その・・」
メイやさとるの指示を聞くとは限らないと思う。
「あー、ますみって優をうんとキレイにした感じだもんなぁ。それはさておき、サシャは、メイや優が信頼するほどの子で、自分で決めてきた、と」
メイがうなずく。
サシャは強くて、賢く、そして激しい子だ。優への裏切りを憎む気持ちも、優を思う気持ちも、メイに劣らず強い。
「さとるさんとますみさんは全身全霊で守ります。だから、諦めないで、いいですか」
「そりゃもちろん。メイやサシャが諦めても、俺は無理だし。あと、ますみは、あんたらが思うより、半端ないぞ」
「え?」
「いや、ひょっとして、ますみのこと、ただめちゃくちゃ顔が良くて綺麗で優しく誠実で頭がいいだけ、とかおもってるかな、と」
「・・・。それは『だけ』じゃないと思うんですが。ひょっとしてさとるさんってブラコンですか?」
「あ、よく言われる。んー。サシャがますみを害する気がないなら、俺の方は、気にしない」
「できれば気にしていただいて、ご自分を真っ先に守っていただく必要があるかと」
サシャは、ますみに入れ込んだ分、さとるに冷淡になるだろう。
「ブラコンには酷な要求だなぁ」
「ますみさんは、私が害させませんから」
メイがそう言うと、ちょっと困ったようにさとるは口の端をあげた。
「えーっとね、ますみ、サシなら俺より強いよ」
「へ?」
なんとなく、さとるの後ろに隠れている印象なのだが。
「優は、当然ますみにも格闘技習わせたし。ただますみの場合、1点集中っていうか、不器用なんだ。どんな強敵からも一発KOとれるけど、自分の手首も砕ける感じ?」
それは、強いのか?
「て、手首を集中的に守りますね、だからご自分第一で・・」
 さとるは、人差し指でメイの額をちょんと突く。
「それ言いにきたの?」
「・・・はい」
「わかった。気をつけるよ。金庫破りは、俺ら的にちょうど今旬で、手伝ってくれるならすごく嬉しい。ちょっと待っててな」
さとるは、席を立って、自分のベッドに直行した。メイはうつむいていて、表情は見えなかった。



畑里からもらった金庫の場所と暗号の書かれた紙を見せると、なぞなぞを解くキーを集めに、メイは、精力的に動き回った。

そして数十分後には、
「車で出られればすぐにでも試せますが、畑里様を待ちますか?ご内縁関係ですよね」
とのたまったのだ。
「真っ赤な他人だよ!えーい、すぐ行くぞ」
畑里を待ってもよかったが、なんとなく、内縁関係の方を否定したくてすぐ行くことにしてしまった。
ちぇ。自分から妻だと挨拶したくせに。ますみとサシャはあんなにラブラブなのに。サービス悪いじゃないか。


どうやら、金庫は二段階のようだ。本物の金庫を開けるには『鍵』が必要らしいが、その『鍵』を守っている設備自体も金庫だった。
遺跡にすら見える洞窟はフェイクで、実際には最新式の隠し金庫、こっちが『鍵』が入っている方だ。

かなりわざとらしく、宝探し風にデフォルメされている演出は、優の匂いがする。なんであんなに宝探しが好きなんだか。
三重になっていたセキュリティ・トラップ。入室のパスコードと、金庫扉開錠のパスコードは正しかったが、最後のトラップのパスコードが違った。
パスを間違えると、鍵の収納箱のまわりを高圧力のウォータージェットが飛んだ。

やり過ぎだ、あのお祭り母め!

諦めきれず、引っ掛けて鍵を出せないかと突っ込んだ針金は瞬時に真っ二つになった。
「しょうがない、最後のパスコードの手がかりを探して出直しだ」
「はい」
と、メイは素直に返事をして、後ろに従っていたはずなのに。

インディー・ジョーンズばりの薄暗い洞窟から出て、メイを確認し、さとるは、のけぞった。
地面に血が落ちないように上着の裾で受けていたのだろう、メイの服が真っ赤に染まっている。
「だぁあ!血~!血が出てる!いつからだ!怪我したらせめてすぐに言え!」
さとるは真っ青な顔になって、後ろを歩いていたメイの腕をタオルで締めた。怪我をした張本人のメイの方が顔色がよく見えはじめたほどだ。
「ご心配なく。運勢は良い方です」
「お前と会ってから数日なのに、規則正しく重傷みてんぞ!大凶だ大凶!」
さとるの怒鳴り声を、メイは普通に優しい言葉をかけられた時のように笑顔で受ける。
「大丈夫です。動くから。折れても切れてもないと思います。」
「非科学的なことゆーんじゃねーよ!血が出んのは、血管も皮膚も切れてんだよ!」
メイは握りしめていた血まみれの右手をそっと開いた。
真っ赤な中に小さな金属が見え、メイはホッとした顔でさとるを振り向く。
「よかった、取れてました。鍵、どうぞ。」
さとるは、愕然としてめまいを覚えた。
「・・・手突っ込んだのか?あのウォータージェットの中に?!」
さとるがウォータージェットに背を向けたのは、退路を確保している数秒の間だ。メイは、うめき声すら上げず、さとるに気づかせずに即実行したことになる。
取れているのは手首でもおかしくなかった。

「医者っ」
「行きません。部屋も金庫も元通りに締まりました。トラップは解除されていませんから、医者とかから情報が行かない限り、私たちが鍵を手に入れたこともバレません」
動くなら相手を欺けている今だ。してやったり。

メイの顔はそう言っていたが、右手からの血は止まっていない。
「そこまでしてもらういわれはない!医者に行く。二度とすんな。死ぬだろ!」
「死にませんよ。ウォータージェットの圧力、強いのは最上段だけで、発射にリズムがあったでしょう。中・下段はフェイクです。ここに引ける電力計算したら、足りてないもの。手首落とすほどの威力はありませんでした」
でした?人体実験の結果を聞いてるわけじゃない。
「・・・座ってろ。車とってくる。」
「歩けます。そんなに驚かなくても。日本では自分で手首切るのが流行ってると」
「次元が違う、次元が」
リストカッターなクラスメートはいても、手首ごと切り落としそうになった知り合いなぞいるか。
「妻は財産ですが、申し訳ないことに私は既に底値です・・お気遣いなく」
「てめ、怖いことゆうな!」
さとるは、妻や友人を財産扱いする思想にお目にかかったことはなく、メイを財産扱いするとかもう意味がわからない。
「私が他人の意向を察するのがうまくない点については、どうぞ、ご容赦ください。と、いうわけで、行きます」
「こらまて。『というわけで』ですむかっ」
メイは、このチャンスを逃す気は露ほどもなかった。
メイはさとるに背を向けて歩き出した。
少しふらつくだけだ、大したことはないと自分にいい聞かせながら。
さとるは、しばらくじたんだを踏んだあと、もう一度メイに声をかけた。
「止まってくれ。一緒に行くから。たのむ」
追いかけてきたさとるの声は、強気の勢いが剥がれて、心配そうにかすれていた。
「・・・」
本当に感心するというか驚くというか。
女性に突っ張られて折れられる男性というのは先進国では当たり前なのだろうか。
墓穴を何十年も掘り続けて、経済的にも文化的にも蔑まれるようになったこの国に、そんな男性はもうほとんど残ってはいないのに。
メイはふっと笑いたい気分になり、同時に体がぐらりと傾いだ。
瞬間的に我に返って心の中で舌打ち。やっとさとるが説得されてくれたというところで弱み見せてどうする。また医者に行こうのところからやり直しか。
だが、さとるは、メイがよろけたことには突っ込まず、怪我をしていない左手を自分の肩から前に引っ張ってメイをおぶった。
さとるが歩くと、揺れが規則的で、さとるの背中が暖かくて、意識が遠のきそうになる。メイは、気付けに左手の爪を右手の傷に立てようとした。
さとるが首を少し左に傾けてその動きを止める。
「どなって悪かった。鍵、手に入れてくれてありがとう。無断で医者に連れ込んだりしないから、気、失っててもいいぞ」
「・・・はい」
馴染みのない気持ちがタプタプとやってきて、メイは、唇をさとるのうなじに軽く押し当てた。なぜそんなことをしたのかと聞かれたらメイは、答えられなかったと思う。
だが、誰も聞かなかったし、髪の毛で遮られてさとるは気づかなかった。

血に濡れたメイをみて、車で待っていたますみが、息を呑む。
「病院・・」
「いかない」
「なんで!」
「サーファはまだ俺らがトラップを敗れていないと思っている。今がチャンスだ。別館の優の部屋の本物の方の金庫を開けて交渉材料を手に入れる。メイの傷口を見てウォータージェットの傷だってバレたらサーファに連絡が行く」
「でも大出血だよ!人命優先、基本外すのは優が望まないよ!」
「優が望んでなくても、俺とメイが望んでんだよ。手当するから、優の金庫がある別館まで運転してくれ。ゆっくりでいい。」
当たり前だが、十六歳のますみは免許を持っていない。それでも運転しろ言われればする。兄弟やって十六年、さとるに余裕がなくなれば声色ひとつで分かる。タガ飛びぎみ。
ますみは祈りながらアクセルを踏んだ。
車が動き出すと、メイが目を開ける。
「あたた。すみません、お言葉に甘えてしっかり休んじゃって。ホッとしたら気抜けました。」
メイの声が安定しているのをきくと、さとるがはにホッとしたため息をついて、ウェストポーチを探る。
「これ止血剤と増血剤と痛み止め。のんで」
「止血剤はともかく増血剤って、男の人って血の目分量こわれてますよね。人間の体重の一割ぐらいは血ですよ。これくらいなら食べれば治ります。それより、どうしてますみさんが運転してるのです?」
「メイの応急手当がまだだから。いいから飲め。」
メイの左手にキャップを外したボトルを押し付け、右手に大き目の布をぐるぐるに巻きつけながらさとるが答える。
メイは左手で服のポケットを探り、鍵があるのを確かめてから言った。
「無免許でしょう。優さんからオオカミ少年の話聞きませんでした?でっかく騙すためには、なるべく小さな嘘で油断させる下準備が必要で・・」
「話が違うぞ、それ。」
軽く返そうとしてさとるの方の声が震える。
だが、メイは構わない。軽快な口調で血糊を隠そうとするように話し続ける。
さとるはこめかみを抑えて言った。
「わかったから、俺は大丈夫だから、少なくともお前が気使うな。薬飲んで休んでろ。ますみと行ってくる。」
メイは、ふわっと笑って、鍵をさとるに渡したが、薬は飲まなかった。

メイの血がついたままの鍵で、優の金庫は、あっけなく開いた。
中は紙束とUSB、それに太いアンテナのついたごつい携帯電話が二つ。普通のスマホに見えるものが六つ。
「何だ、このゴツイ携帯は?超旧型?」
呆れたようにさとるがつぶやく。
「多分、衛星介して僻地でも電話できるやつ。ここからでも、姉さんにかけられるかも」
さとるが驚いたようにますみをみる。
「ますみは、ほんと物知りだなー。すごいわ。とりあえず帰って、充電しよう。」
さとるはそうっいってますみの頭をポンポンと叩くと、電話機のセットをますみに持たせ、書類の束とUSBを掴んで金庫を閉めた。

どこから見てもいつものさとるだ。
メイに、怪我が軽かったように振舞えと態度で示されたからか。

あ、この感じ、久しぶりかも、と、ますみは思う。

さとるは女性と付き合えば、毎度彼女さん優先で優しくしていたが、正直、あかりに対していた態度とは違うのだ。

さとるがほんとうに相手におちた時には、透明な木の根っこが相手の周りに張り巡されて行くような感じがする。
気遣いというより、ガラス細工を壊さないための細心の注意という感じになり、それを相手に気取られないように気を張るから、さとるの表が二枚になって、一見立ち直りが早くなったように見える。

普通の彼女さんの時には、相手を気遣っているのをばれないように気を張る、という工程は入らない。

本人に言ったら、絶対違うと反論されそうだが、ますみの見立てでは、さとるが女性と長続きしないのは、別れた後も、あかりさんへの表二枚、が解けないせいだ。
いまでも、あかりさんへの表二枚、は解けていない。
でも、いつの間にか、メイに対しても表二枚が出来てる。


さとる、三年ぶりにおちた?
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