観音通りにて・遣り手

美里

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サチが言葉を切ると、部屋の中は全くの無音になった。ごく細い雨の降る、さあっという音さえ耳に入るくらいに。
 いつもなら、この長屋は常にざわざわと騒がしい。10人以上の女たちが暮らしているのだから、自然とそうなるのだ。しかしなぜか今日は、ひどく静かだった。
 静かですね、と悟が口を開く前に、サチが口を切った。
 「蝉に惚れてんでしょ。」
 それは問いではなく、もう確認のレベルにある物言いだった。
 悟は驚いて、咄嗟に両手で胸を押さえた。
 蝉に刺された心臓。
 惚れている、などという言葉が自分の感情にふさわしいのかは分からない。ただ、胸が疼く。蝉が自分以外の誰かと情を結んだなどと考えると、胸をかきむしりたくなる。
 なにも答えられない悟を見て、サチは低く笑った。
 「やめときなよ。相手が悪いし、こっちの商売も悪い。」
 「相手、やっぱり悪いですよね。」
 胸を押さえたまま悟が問うと、サチは大きく頷いて、肩に滑り落ちてきた長い髪を両手で後ろに払いのけた。その動作はおおざっぱだったけれど、彼女のおおらかさが透けて見えるようでうつくしかった。
 「蝉は恋なんてしないよ。面倒なことは嫌いだから。」
 恋。
 俺の胸に刺さった棒は、恋と名前のつくものなのだろうか。
 分からないまま、悟はとにかく頷いた。
 するとサチは少し眉を寄せ、あたし、なにか的外れなこと言ってる? と首を傾げた。
 「そうじゃないです。」
 慌てて否定をしながら、悟は蝉の顔を思い浮かべていた。ちんどん屋みたいないでたちがよく似あう、大きな目が目立つ派手な顔立ち。
 あの人が、誰かに情を寄せていた。それだけで、胸が痛んだ。
 「薫で懲りたんじゃないの。恋は面倒だって。だから蝉はもう、恋はしない。」
 きっぱりと言い切ったサチは、続けて、あんたも恋なんかしちゃだめよ、と今度は囁くように言った。
 サチには恋仲の男がいて、年季が明けたら一緒に暮らすことになっていると、長屋の住人達はみんな知っていた。
 それでもサチは、淡々と言葉を繋げた。
 「この稼業をやるからには、心を凍らせないといけない。どんな男の相手をしていても心の芯は凍ってないといけないの。それが商売女ってものでしょう。誰かに向かって心を溶かしたら、それで終わりよ。この稼業が辛くてたまらなくなる。」
 あんた、男娼に向いてるよ、と、サチは悟の肩を優しく叩いた。
 「寒いところにいたんでしょう、ずっと。そのままでいな。心を溶かしちゃいけないよ。」



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