観音通りにて・姉

美里

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 「貴子。」
 男が自分の姉を呼んだ。姉ちゃん、とか、姉貴、とか、そんな呼び方をできるような関係と過去であれば、どれだけ幸せだったのか。
 「愛してた。」
 過去形で刻まれた、ごく短い一言。真っ黒い両目が、くっきりと貴子を映し出して艶やかに光っている。
 待って、と、言いたくて言えない真央は、あっさりどこかにかき消えてしまいそうな、妙な儚さすら感じさせる男の腕を、じっと掴んでいることしか出来なかった。男は真央に腕を掴まれていることにすら、気が付いていないようなのに。
 永遠にも思える、ごく短い沈黙の後、貴子の赤い唇が、震えながら開く。
 「私も。」
 やっぱり、言葉はごく短く。今でもよ、なんて付け足しすらなく、ただ過去形の言葉だけをやり取りし、この姉弟は終わろうとしているのだ。貴子の目も、実の弟相手とは思えない艶を帯びて光っているのに。
 だめなのか、と、真央は思う。本当に、どうしても、だめなのか。天や地や人が許さないとしても、この二人だけが許しあっていれば、ともにいられるのではないのか。
 それでも真央には、やっぱり口を開くことができない。
 「真央。」
 名を呼ばれた。貴子とその弟とに、同時に。真央は、黙って二人を見比べた。ここで自分の名前が出てくる理由が分からなかった。
 「行きましょう。」
 「行こう。」
 その後の台詞も、ほとんど同時に。
 真央は、躊躇った。貴子にもその弟にも、情はあった。呼ばれれば、犬っころみたいについていきたくなるくらいの深さの情が。それに、ひとはどうせどこまでいっても誰かの身代わりでしかないのだという、静かな諦念みたいなものも、今の真央には芽生えはじめていた。だったら、どちらについていっても、もう片方についていかなかったことを時々後悔するにしても、それなりに幸せには暮らせそうだった。それでも、男の腕を離し、首を横に振ったのは、最後の意地か。
 「ひとりでいきなよ。」
 どちらにというのでもなく、真央は苦しい息を吐き出した。
 「どこまでも、ひとりでいきな。」
 自分の物言いが、冷たく響いていないことを祈った。これで自分もひとりになる。怖くないわけではなかった。それでもまだ、誰かの唯一になることを諦めきれないのは、真央の若さのせいかもしれなかった。
 数秒間の、肌を切るような沈黙の後、靴音が二つ、暗い観音通りに響く。かつん、かつん、と、ひとつは右に、もうひとつは左に。その真ん中に立って、真央はただ、靴音を聞いていた。
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